第32話 すべてを知る者
「まぁ、そんな扉の前にいて立ち話っていうのもなんだから、入ってきなよ」
彼女は僕を手招きする。
「アタシに会いに来たんでしょ?」
彼女はすべてを見透かし、見通しているようだった。
「アンタは僕を知っているのか・・・?」
「ああ、知っている。ずぅっと知っている。ずっと遠くから、知っている」
遠く・・・?
「昔、会ったことが・・・」
「いんや、アタシとあんたは初めまして、だ─」
「『この世界』ではね」
この世界・・・?
「そう、『この世界』。アタシが本に埋もれていたところを、アンタが助けない世界」
心を縛っている鎖に、少し皹が入った気がした。
「琴音と健二が結婚していない世界」
ぴしぃ、と音が聞こえる。何かが頭の中に、ゆっくりではあるが浮かんでくる。
「そして、琴音が、健二が、楓が、アタシが生きている世界」
心臓の鼓動が速くなり、ずきずきと、頭が痛む。
「もっとはっきり言うなら─」
そして、その単語を聞く─。
「誰も真紀に殺されていない世界だ」
「うわぁぁぁぁぁああああああ!!」
全身から汗が吹き出す。がくがくと膝が震える。頭を駆け巡る、縦横無尽に、遮二無二に、あの時の記憶。笑う真紀と、切り刻まれる楓。言ってしまえばただの記憶に過ぎないのに、全身を恐怖のベールを覆う。
「はっ、はっ、はっ・・・」
「思い出したかい?」
膝から崩れ落ちた僕を、渚は上から見下げる。目の前で狼狽している僕を見ても、渚の表情は変わらない。あくまで、ただの説明役というスタンスを維持していた。逆にその無機質さが、僕を冷静にさせる。まだ若干体はかたかたと動きながらも、比較的すぐにあの悪夢からは脱出できた。
「ぼ、僕は・・・」
「そう、殺された。包丁で貫かれて」
反射的に胸を押さえる。もちろん穴は開いていないが。
「だったら・・・」
ここは天国か?僕はもう死んだ人間なのか?
「まぁ、最後は覚えてないだろうね。アンタはくぐったんだよ、『次元の扉』を」
「・・・!次元の、扉・・・!」
渚が、向こうの渚が、研究していた・・・。
「アンタは死ぬ直前、本当にあと一秒で死ぬってくらいの直前、ぎりぎりその扉に手をかけた。次元を超える、その扉に」
「じゃあ僕は、この世界に転生してきたのか・・・」
「うーん、少し違うかな」
小説の安易な設定みたいなことを言った僕に、渚は少し手を加える。
「今のあんたの肉体は『前の世界』のあんたの肉体じゃない。体は『この世界』のものだ」
「どういう・・・」
「つまり、あんたは自分で自分を乗っ取ったってことだ」
「自分で・・・?」
「その証拠に、あんたの記憶を辿ると、アタシという人間には会ったこと無かっただろ?それはこっちのアンタの記憶。だから、アンタは今、ふたつの記憶が混ざり合っているってことさ」
そうか・・・。だから僕は渚の名を知りつつも会ったことがないという、軽い矛盾の両方を確実な記憶として扱ったのか。
「まぁまとめると、ここはアンタがいた世界じゃない。別次元の世界だ。『この世界』のアンタと『前の世界』のアンタが融合した、ってところかねぇ」
僕は自分の身に起こった真実を知った。しかし、そんなことよりも、ずっとずっと気になることができていた。
「何で、すべてを知っているんだ・・・?」
「簡単なハナシさ。アタシの魂も、次元を超えて来たんだよ」
「ま、アンタと違って魂までは憑依していない。アタシに『前の世界』で起こったこといろいろ伝えて、力つきて消滅しちゃったからね」
「でも、確か渚は・・・」
「ん?ああ、そうだね、確かにあっちのアタシはアンタや楓が死ぬ前に死んでる。それなのにどうして事の顛末を知ってるかってことかい?」
察しが良い。ほとんど何も言っていないのに。
「さぁ、それは向こうのアタシに聞かないと分からないけど、まぁ、サービスって奴じゃないかい?馬鹿みたいに研究に励んできた奴へのボーナスみたいな」
本当に知らなかったのか、それとも何か隠していることがあるのか。真意は図りかねるが、僕はそれ以上追及しなかった。
「それにしてもアタシも変わらないんだねぇ。別次元にいようと性懲りもなく研究に一生をかけているなんてね」
「ま、そのおかげでこんな世界を揺るがす程の、ま、言ったところで誰も信じちゃくれないだろうけど、大事件にも割と平静を保てたってことでね」
「向こうのアタシはこっちと違って、割と友に恵まれたみたいだけど」
「こっちのアタシははぐれもんでね、あんたのことも楓っていう人のことも知らなかったんだよ」
「一人で生きて来たからね」
渚は少しさびしそうに言い、僕に背中を向けた。
「まぁ、これでハナシは終わりだ。聴衆料とかは取らないから安心しな。まぁ、さっきは便宜上あんたのことを助手って呼んだけど、向こうと違ってアタシはあんたをここに拘束するつもりはないから。折角手に入れた第二の人生だ、自分が好きなように生きなね。それと、あんたに真実を話したのは、向こうのアタシからの頼みだっただけで、他意はない。要は、恩なんて感じないでってことよ。もともとこっちの世界じゃアタシとあんたは赤の他人。向こうのアタシはあんたのことを気に入っていたみたいだけど、アタシは向こうのアタシじゃない、あんたのことなんてどうでもいいしね。アタシはアタシで忙しい、何せ、次元の扉の出現条件はまだ不確定な部分が多いし、それを意図的に発現させることがゴールなんだから。それに、あんたはあんたで友がいるだろう?だから、『この世界』でのアタシのあんたの邂逅はこれっきりってことで─」
「・・・っ!?」
振り向き様、僕は恥も外聞もなく、渚に抱き着く。軽く、ではない。ぎゅっと、強く、抱きしめる。流暢に饒舌に話していた渚の口が、ぴたっと止まる。
「な、何を・・・」
渚の声が少し裏返る。状況が呑み込めず、困惑していた。分かっていた、僕がこんな行動に出れば、彼女に限らずとも皆、戸惑うに決まっている。でも、関係あるか、って、僕にしては強行突破に出ていた。
「良かった・・・」
生きていて、良かった、本当に良かった・・・!
「だ、だから・・・」
僕に気を遣っているのか、渚は楓と違ってすぐに振りほどこうとはしなかった。
「アタシは『あっちの世界』とは別人で・・・」
「でも」
渚は渚だ。僕は強く断定した。
「それに、『次元の扉』の研究をするなら、僕はお前にとって絶好なサンプルだろ。そんな奴をみすみす逃がすのかよ。言うなよ、これっきり、だなんて。僕はお前とこれからも関わり続けるからな!」
「は、はひゃ・・・」
こんなにも間近に、女の子に顔を近づけることもないが、今ははっきりと目を見て言いたかった。
「わ、わかった、分かったよっ!」
ようやく渚はばっと僕の手をはじき、僕との接触を解く。
「そ、そのかわり、だったら助手としても時々コキ使うからな!」
「ああ!」
それを嫌がる奴がどこにいる。
僕は研究所を後にする。本当はもっといたかったが、と、とにかく今日は出てけー!なんて大声で言われたものだから、僕はしぶしぶ了承した。しかし、あんなにも顔を赤くして怒るようなことはしていないつもりだったが・・・。ともかく、すべての謎が解けた。悪いな、この世界の僕。勝手に肉体を奪ってしまって。まぁ、僕自身のことだから、許してくれるか?そんなことを考えながら、僕は走っていた。全速力で。
そう、僕はどうしても会いたい人間のもとへ、歩を駆けていた。
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