第31話 もう一人の自分
「え・・・」
箸を持つ手が止まる。
「こ、琴音だよ、篠崎琴音・・・」
滅多に言わない苗字も一緒につけてもう一度言った。
「・・・?」
しかし、二人の顔は何もひっかかるものがないときにするそれだった。
「健二、お前が知らない筈ないだろ・・・?」
俺?健二は思い出そうと努力してくれたが結果は同じだった。だって琴音はお前の・・・、喉まで出かかったが、僕は発言を止める。これ以上新たな情報を追加しても不毛に終わるということもあったが、もう一つ、どちらかと言えば、こちらが根本的な理由だが─。
健二の、何だ・・・?
まったく、頭の中がごちゃごちゃだ。まるでもう一人の人格がいるようだった。自分で言いたいことさえ分からなくなる始末だから。いや、なんでもない。こう言うしかなかった。
もう時間も遅い、僕は二人に帰ってもらうことにした。ご飯を作ってもらって、その上現在進行形で心配をかけているにも関わらず、何もできなくて済まないと、僕は心苦しかったが、二人は記憶喪失とかじゃなくて安心したよ、と、僕が二人のことを覚えていたことに喜んでくれた。その姿を見るだけで、僕は救われる。
「本当に大丈夫かよ?」
あれだけの不可解な素振りを見せている、不安になるのは当然だ。だが僕は、大丈夫だ、と、割と虚勢でもない姿勢を張る。
「もしまだ聞きたいことでもあれば今聞いとけよ?」
応えられねェかもしれねぇけど、留めておくよりマシだろうし。僕はその言葉に甘えて、じゃあ、最後に一つだけ、と口を開いた。
「渚、って知ってるか?」
二人は帰って行った。僕があのまま目を覚まさなかったら、僕の家に泊まって看病してくれるつもりだったのだろうか。きっと、まだ僕の身を案じてくれている言動から、ふとそうなのかな、と思う。ただ、今はどうしても、僕には一人になる時間が必要だった。悩みたがりの思春期はとうに過ぎてしまっているのに、一人にしてくれ、なんて、恰好つけみたいであまり言いたくはなかったけれど。
楓の答えはノーだった。もちろん、彼女が英語を使って返したわけじゃないが。ともかく、渚のことは楓は知らないらしい。僕がこの質問を健二ではなく楓にしたのは、渚という人物とのコネクションのきっかけが、楓だったような気がしてならなかったからだが、今こうやって冷静になってみると、渚という人物が何者で、一体何をしているのか、なんてことは僕にも分からない。そう、僕は渚という人間に、男か女かも分からない人間に、会ったことが無いのだ。何だかこうも記憶の齟齬があると、病院にでも行った方が良い気がしてくる。傍からみれば、僕は突如倒れ、そして記憶があやふやになっているという、いかにも精神に問題がある状態に見えるのだから。
ただ。僕は不思議と、今の自分にあまり混乱していない。例えるなら、僕ではない人間の記憶が、柵を破って僕の中に流れ込んできているような感覚であるにも関わらず、それでも僕という存在は保てているし、記憶が上澄みされているだけで欠落はしていないのだから、知人との会話にも困らない。
もう夜だ。結局、楓から作ってもらった料理が晩御飯になってしまった。いつもならまだ起きている時間であり、加えて、寝ていたとは違うが、横になっていたのだから眠たくはないが、それでも僕はベッドに入る。何だか、僕自身、今こうして生きているのが妙な感覚だ。本当ならもう死んでいて、僕は今第二の人生を歩んでいるんじゃないかって、そんな妄言すらしてしまう。
「・・・寝るか」
まぁ、正直なところ何を考えても今はピンと来ない。僕の周りの人間は何も変わったことはないみたいだから、このままこの世界が平和ならば、僕の記憶の謎が解明されずとも、それでいいのだろうか。もしくは、時間が経つにつれて頭にずきんと痛みが走り、思い、だした・・・、なんて台詞を吐く日が来るのだろうか。考えても分からないならば、楽観的な人間なら自分の身に起きた怪奇現象をも無視できるのかもしれないが、僕はそうはいかない。気になるのは気になる。だから僕は、明日ある行動を起こそうと思う。渚に会いに行こうと思う。顔も性格も職業も、会ったことさえないが、何故だか僕はその人間の名と、所在は知っていた。
翌日。
まだ朝が早い。9時ぐらい。いや、もう9時ならそこまで早くはないか。僕は遠足を待ちきれない子供のように、と言ったらいささか言いすぎだが、起きたらすぐに支度をして、軽くバナナを一本食べて、そしてすぐに外に出た。僕の足に迷いはない。鳩の帰省本能ほどすぐれてはないだろうが、僕の頭にははっきりと渚の家までの道のりが見えていた。
重要だと、キーだと直感したからだ。僕は道中思考する。僕のこの、今の、どう考えても普通ではない状態を、解決してくれるのは、渚なんじゃないかと、半ば確信していたからだった。だから僕は、今こうして行動に移した。彼女に会いに行くと。
「・・・!」
言葉を発してしばらく間があいて、僕ははっと気づく。さりげなく、何気なく、僕は渚を彼女だと断定していた。昨日までは確かに、性別は知らなかったのに。
「・・・?」
今僕の体に、何が起きているんだ・・・?
30分程。愉悦に打ち込めば、一瞬で過ぎ去るほどの時間だが、歩いて30分となると、結構な距離を歩いたと思われるかもしれない。ただ、僕はずっと思考していたので、足は勝手に動いていたと表現できるほど、遠さに対するストレスはなかった。
「ここか・・・」
そこは、人里離れた場所だった。周りに建物はなく、木々に囲まれ、目立たないところにそれはあった。研究所、僕はその建物をそう描写した。
こんこん、とノックをする。インターホンが見付けられず、誰か、と声も出す。それでも返事も気配も感じられない。普通なら留守だと思い踵を返す場面だが、そのときの僕は、帰るとつもりは毛頭なかった。扉の取っ手に手をかけて、ゆっくりとひいてみる。ぎぃ、と古めかしい音がしてそれは開いた。
「おや」
もう一度言うが、僕は、渚に会ったことが無い。
「予想よりも、はやかったねぇ」
それはつまり、彼女も僕のことは、顔は、知らないということだ。
「うーん、どういった挨拶が適切かねぇ」
しかし、眼鏡をかけて、白衣を着て、いかにも研究者という体を成している彼女は。
「『はじめまして』?、がいいかい?」
許可も得ず、勝手に扉を開けて入ってきた一人の見知らぬはずの男に対して。
「それとも・・・」
一切の拒絶感、嫌悪感を見せることなく─。
「『久しぶりだね』がいいかねぇ?助手」
僕の名前を呼んだ。
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