第30話 心臓を抉る名
「お前、交通事故で・・・」
「事故?なんのことだ?」
健二はけろりとした顔で疑問を返す。そうだ、僕も口が勝手に動いて事故というワードを出してしまったが、今目の前にいる健二は、五体満足でピンピンしているじゃないか。
「何か混乱してるみたいなんだよ、こいつ。どうもとんでもねぇ悪夢を見たみたいでな」
悪夢・・・。本当に、夢で済ませていいのだろうか・・・。
「ほら、いろいろ買ってきたぞ。栄養ドリンクとかビタミン剤とか」
そんな僕の言いようもない不安をよそに、健二は右手のスーパーの袋を少しあげて、買ってきた物を透かし越しに見せる。
「お前、疲れてるのかな、って思ってな」
疲れている、そう思われても仕方がない。自分でもまだよく分かっていないのだから。しかし、とにかく、今実際にある事実は、二人は生きている、ということだ。完全に思い過ごしだ、と断定することはできないが、とりあえず今は二人に心配をかけるわけにはいかない。できるだけ自然に振舞おう。そう思い直し、僕はドリンクを貰おうとしたが、その前に、いくらした?そう聞いて、お金を払う準備をした。
「いいよ、これくらい」
だが健二は、安かったしな、と言って、金は気にするな、と袋だけを僕に渡してきた。
僕はドリンクの蓋を右に回しあけ、液体を喉に通す。気持ちを落ち着かせるのと、単純に喉が乾いていたからだ。
「ほら、こいつも目を覚ましたことだし、楓、何か作ってやれよ」
健二は軽い気持ちの提案だったようだが、な、なんでウチが!と、楓は焦ったように言葉を返す。
「何で、って・・・。もともと言っていただろ、こいつが起きたとき、料理でもごちそうしてやるって」
「そ、それは、そうだが・・・」
楓の返事は煮え切らない。僕は楓を困らせたくなかったので、別に無理しなくていいよ、と僕なりの援護射撃をおくったつもりだったが、あ、いや、と、それはそれでまた楓の言葉は濁る。
「何だよ、楓。らしくないな・・・。何かあったのか?」
「べ、別になんもねぇよ!!」
本当に何もないのなら、そんな大声を出す必要はない。楓自身も気づいていただろうが、時すでに遅し、ということで、楓に何かあったことは健二には容易に想像できただろう。
「・・・あ、もしかして」
その時の僕は純朴の子供のようだったと、後になって思った。楓には悪いことをしたと、今も少し後悔している。
「ば、ばかっ」
楓は今すぐにでも僕の口をガムテープか何かで塞いででも、強制的に黙秘させたかったらしく、健二に対して僕がしようとしている発言を必死に妨害しようとしたが、それよりも僕の声の調べの方が早かった。
「お前を抱きしめたこと、怒ってるのか?」
沈黙が走った。とはいえ、僕にそれを生じさせようという気はさらさら無かったが。楓はまた耳を赤くし、健二は何かを察したらしくにやりと笑ってみせた。
「なるほど、なぁ、楓。抱きしめられてその上料理まで作ったら、まるで新婚・・・」
「黙れっ!」
僕の部屋で格闘技が行われた、というか、ただの一方的な暴力と言いた方がいいかもしれないが。僕の目の前で人が飛ぶ。
「それ以上言ったらぶん殴るぞ、てめぇ!」
もう殴ってるだろ・・・。頬を押さえながら、健二は小さな声で愚痴る。
「元はといえば・・・」
健二はまだ言いたげだったが、息を荒らげている楓を見て、はぁ、俺が悪かったよ、と大人の対応を見せた。
「とにかく、何か作ってやれ。多分こいつの体調が優れないのは事実だから」
わぁったよ・・・、としぶしぶ、かどうかは知らないが、楓は台所へと足を運ぶ。いいよな、冷蔵庫にあるもの使っても?健二からの確認を、僕は了承した。
楓が台所に消え、これから調理の音と香りがこの部屋を支配しようとしている間、僕と健二は男二人会話に勤しむ。
「・・・大丈夫か、顔・・・」
「あいつ、本気で殴りやがって・・・、まだひりひりしやがる」
「はは・・・」
それにしても、どうして楓は殴ったんだ?そんな疑問もあったが、今ただこの状況に感謝することにした。
「ま、ありがたいよ、料理を作ってくれるなんて」
何だか悪いな、僕は礼を言う。別に、資本はお前だろ、健二はそう言うが、自分で作ると作ってもらうとじゃ、その差は天地ほどもある、と僕は言い返す。
「まぁそりゃそうだが・・・。誰でもいいってわけじゃないだろ?」
「真紀が作ったら大変なことになるし」
刹那。
その単語、いや、名前を聞いた瞬間━。
僕の背筋は凍り、冷や汗が出てくる。
「・・・ま、真紀・・・?」
「おいおい、いくらあいつの料理の腕が殺人的だからって、そこまでビビることないだろ」
ははは、と健二は楽観的に笑った。僕もここでは空気を呼んで、そ、そうだな・・・と多少歯切れが悪くなりながら、はは・・・、と言った。
何だ・・・?どうして僕はその言葉を聞いた瞬間、ここまで体が震える・・・?この震えは、好敵手に対する武者震いとか、そういった肯定的なものではない。まず、間違いなく、恐怖の記憶・・・。しかも、相当な、潜在的に先祖代々といった感じで刷り込まれた圧倒的な脅えだった。健二は真紀の料理の腕を殺人的と評したが、それは本当に、料理だけのことなのか・・・?
もう駄目だった。一度その思考回路に入ってしまうと、抜け出せなかった。それからも楓の料理を待っている間、健二と僕は話したが、まったく頭に入ってこなかった。内容はあってないものだったとは思うが、一切覚えていない。そんな集中力を欠いた、いや、逆にある一点に集中しすぎた僕を、元のルートに戻してくれたのは楓だった。
「ほら、できたよ」
見た目、香りともに、僕の興味をぐいっと引っ張ってくれた。おかげで、とりあえず今は、真紀のことを保留にすることに成功した。
「旨い!」
健二が述べ、僕も後に続く。ありがとな、嬉しそうに楓は笑う。何だか、前にも楓の料理には勇気をもらった気がする。
「真紀とはえらい違いだな」
「あれと比べんなよ・・・」
・・・二人を見ても、真紀に対する恐怖は感じられない。ただの、料理下手な友達という印象しか受けない。僕自身も、真紀に対する恐怖は直感的なもので、具体的な要素は一切ないんだが・・・。
あ、そうだ。僕はもう一人の名前を出した。真紀ではなく、もう一人。
「琴音はどうしてる?」
ふ、っと、思い出したからだった。健二を見て、そういえば、と。ただそれだけだった。策略的なものは、一切無かった。会話のタネになればと、そう感じただけだった。だが、その名前を出したことによって、僕はまた、心のもやもやを増幅させることになる━。
「誰だ?琴音って」
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