第8話 踏み出す一歩
「・・・ここか」
僕は、懐かしい故郷に帰るときつい声を出してしまうように、地図を見て目的地に着いたとき、ふと声がもれていた。そこには、一軒の、さほど大きくない家があった。楓の紹介で、僕は郊外にある、周りに何もないところに佇む、研究所に来ていた。
ん、と言って、楓は僕に一枚の紙切れを渡してきた。夕陽が綺麗だったあの日のことだった。ここに行ってみな、そういって彼女は手書きの地図を差し出した。
「きっと、お前の助けになる」
こう言い残し、僕と楓はあの日別れた。具体的な内容を彼女は言わなくて、僕も追及しなかった。子が親の言うことを疑わないように、僕は楓の提案を疑わなかった。特にすることも無かったので、僕は翌日に足を傾けた。それにしても、と、僕は楓のことを考える。結局、昨日は楓に振り回されっぱなしだった。崖から落ちそうになったのも、今考えればわざとだったんじゃないかと、僕を励ますためだったんじゃないかと、オチが曖昧な小説に読者がいろいろと想像を張り巡らせるように、僕はいろいろな可能性を感じた。とはいえ、楓に問いただしてもきっと教えてはくれないだろうし、いくら考えても答えが分からないのなら、自分に都合のいい解釈をしておく方が良い気もしてくる。
そんなことを考えながら、僕は扉の前に来た。見たところインターホンを探せなかったので、僕はドアをコンコンとノックした。しかし返事がない。鍵がかかっているか確認しようと扉をひくと、がちゃ、と何の抵抗もなく戸は開いた。
「いたたた・・・」
その先に広がっていた光景は、恐らくは本棚から雪崩のように降ってきたであろう大量の本に、一人の女性が埋もれている姿だった。僕はどうすべきか若干困って、その女性の姿をものの数秒眺めていたら、目があった。
「あ、ちょっと手貸してくれないかい?」
その女性はラッキーと地面に落ちている小銭を拾うような気さくさで、見知らぬはずである僕に手を求めた。その会話が川の流れのようにあまりにも流麗で自然だったので、僕も手を出すことに躊躇いはなかった。
「ありがとね」
引っ張りあげた彼女は、眼鏡をかけて白衣を着た、いかにも研究者といった感じだった。ぱんぱんと服の埃を払う。
「・・・あれ、そういえばどちら様かな?」
順序が逆の気もする。無用心だな、と僕は言った。
「僕が怪しい者じゃないかって思わなかったのか?」
不法侵入と捉われても問題がない。彼女は少し考えて、言われてみれば、といい話し始める。
「でも、アンタはアタシを助けてくれたし、今アタシは何もされていない。それでいいんじゃない?」
「ん・・・」
楽観的なのか、危機感がないのか。彼女の屈託のない顔に、僕は言葉を詰まらせる。ともかく確かに、それで済むのなら越したことはない、と考え直す。
「渚」
彼女は僕が何かを尋ねる前に、単語を一つ述べた。眼鏡を右手の親指と人差し指でくいっとつまみながら。
「アタシは灯火渚。職業、科学者」
ともしび、なぎさ。彼女にとっては百万回くらい言われているかもしれないが、火か水かどっちなのか、と反射的に思った。そんな僕の思考を双子の意思疎通のように読み取ったのは定かではないが、彼女は良い名前でしょ?と言った。
「火も水も、どっちも人間には必要なんだから」
なかなか、ロマンチックなことを言う。
「で、アンタは?」
老けていると思ったら随分若い人がいるように、女かと思ったら実は男だったなんてことがあるように、見た目というものは往々にしてあてにできないが、僕が彼女に敬語を使うことなく話して、彼女もそれを特に嫌だと思っていないことから、多分、僕たちは同世代なのだろう。僕は名を述べながら思った。その後、彼女は僕がここに赴いた目的を尋ねてきた。
「ここに来てみろって言われてな」
誰から?と聞かれたので、楓から、と答えた。
「ああ、楓ね」
口ぶりから知っているようだった。
「ってことは・・・。あ、分かった!助手でしょ、アタシの!」
「・・・助手?」
「アタシ、ここ一人で切り盛りしててさ、正直男手が欲しいなぁ、って思うときもあってね。楓も相談したことがあるのさ。多分、アンタがそうなんじゃない?」
「いや、違うな」
僕は即座に否定する。面倒くささを直感的に感じた僕は、この場から去ろうとした。
「待ってくれよ」
彼女は腕を掴み、僕をその場に固定する。
「いいだろう?何かの縁だし」
確かに、ここに来たのは僕が先だ。それに、今は面倒に巻き込まれるのも、気が晴れていいかもしれない。
「ね?」
それに、この男心をくすぐる、寝起きに漏れる油断したか細い声のような、無邪気な笑顔に負けた。僕は仕方なしにという表情を作って了承した。
「あ、でね、一つお願いっていうか、頼みがあるんだけど」
「頼み?」
「アタシのこと、博士、って呼んでくれない?」
後輩から先輩と呼ばれたい心理だろうか。卑猥な単語を言わされるわけでも無い。僕は素直に言った。
「分かったよ、博士」
「・・・うんっ!」
満足したのか、にっこりと笑う。そんな笑みに、ふいにどきっとした。
「順番とかはいいのか?」
「いいよいいよ、アタシ気にしないし!」
適当にお願い、と言われ、僕はばらばらと散乱した本を本棚に片付け始める。自己紹介の時間も終わり、最初の助手としての仕事とでも言えばいいのか、僕は手伝った。その間に、僕と博士はお互いに情報収集をする。
「ここには博士一人で?」
「ああ、アタシだけ。別に人間嫌いとかじゃないから安心して」
数分接しただけで、人とのコミュニケーションは不得手ではないことは察している。
「ただ、アタシみたいな物好き、そんなにいなくてね」
映画で使われた石炭は、マニアにとっては喉から手が出るくらい欲しくなる一品でも、普通の人にとってはただの黒い塊。研究者も、傍から見れば変人の部類なのだろう。
「一体何の研究を?」
社交辞令で趣味に喰いつく出来る女みたいではなく、僕は単純に興味があった。
「・・・ふふん」
すると、それは彼女にとってぜひともしてほしい質問だったらしい。
「死者と会えるって言ったら、信じる?」
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