第2話 犬猿

「だからごめんって……何度謝ればいいんだ?」

「……ぷんすか!」


 なんとか暗闇から解放された男女の二人。

 男、宇部進一郎が、幾度も謝る。しかし女、花菱響香は顔を真っ赤にして猛烈に怒っていた。

 それもそのはずである。信一郎が響香を起こす際、彼女の身体に触れて揺すっていたのだが、そこは響香の胸であったのだ。たとえ真っ暗闇とはいえ、女性の胸を揺すって起こそうなどとは、なんと果報者だろうか。進一郎、羨ましい限りである。


「だから、暗くて見えなかったんだよ」

「暗いからって……触れたらわかりそうなものですけど?」

「だから、それがおっぱいだったなんて……げふんげふん……ま、まあ減るもんじゃないからいいだろうに」

「なっ! へ、へへへ、減るもんじゃないとはどういう言い草ですか? 私の自尊心がメキメキと減りますっ!!」


 胸を鷲掴みにされて怒らない方がおかしい。

 それも自分が嫌ってやまない相手なら尚更だろう。響香は顔を真っ赤にして怒るのも当然だ。けして恥ずかしがっているようには見えない。

 響香は花菱重工の社長令嬢。何の因果か父親が宇部首相と旧知の仲で、その関係上進一郎とも小さな頃からの顔見知りである。

 そして、顔を合わせる度に喧嘩をする犬猿の仲でもあった。


「まあそんなものはどうでもいい。それはそうと、ここはいったい何なんだ?」

「そ、そんなもの……」


 自分の胸をそんなもの扱いされたことに響香は愕然とした。


「ん? どうした? 何落ち込んでるんだ?」

「うるさいっ!!」


 ──ビタンッ!! と、響香の右手が至近距離の進一郎の左頬を打つ。


「──うがっ!!」

「きゃっ!」


 頬を叩かれた拍子に進一郎は後方によろめくが、それに連れられて響香も引っ張られ進一郎の胸のあたりにぶつかってゆく。


「つつっ~、い、痛いじゃないか! なんで叩くんだよ!!」

「う、うるさい! 乙女心が分からない人など知りません!!」

「……まあ、いいさ、確かに女心なんて僕には分からないよ。男だしね。ということで、ここはどこなんだ? 君は知っているのか?」

「……し、知らないわよ……というか、あなたが知っているんじゃなくて?」

「知らない……」


 目が覚めたらこの場所に閉じ込められ、そしてなぜか響香の左腕と進一郎の右腕は鎖で繋がれていた。鎖の長さはおよそ15センチ。鍵のようなものが無ければ解錠も出来ず、その腕輪も二人の腕にぴったりとフィットしており、抜けもしないようになっている。


 唯一あった蛍のような光源に近付き、そこを手で探ると、照明のスイッチだったので、進一郎が迷わずそのスイッチを入れた。照明が点灯しようやく暗闇から解放されたのだ。

 そしてこの口論に至った所だった。


 部屋は結構な広さがあり、そこにはリビングセット、ベッド、キッチンなどが備えつけられており、窓一つないこの空間は、一種奇妙な光景が広がっていた。

 扉は二か所あるが、そこを開くとトイレと浴室があるだけ。その他に扉のようなものはなく、出入り口のない部屋だった。


「なんだよここは……」

「気味が悪いわね……」


 なんでこんな場所に監禁されているのか。二人は途方に暮れる。

 しかしそんなことをいくら考えても一向に答えなど浮かんでこない。

 進一郎と響香は、一時休戦して一つあるソファーに並んで座り、この状況に至った経緯を推考するのだった。ちなみに並んで座るのはソファーが一つしかなく、鎖で繋がれているから仕方のないことなのである。


「君はここへどうやって来たか覚えているか?」

「……いいえ……大学の講義が終わって、サークルに顔を出して、そして迎えの車に乗ろうとしていた所までは覚えているのですが……」

「何者かに襲われたとかそういう事はないのか?」

「い、いいえ……わかりません……それからの記憶が一切ありません……」


 目が覚めたら進一郎に胸を揉まれていた。そこまでは言わなかったが、また思い出したかのように顔を赤らめ眉を吊り上げる響香だった。

 どうやら進一郎と概ね状況は同じようである。

 進一郎はそんな響香の機微をスルーするかのように続ける。


「そうか、花菱の社長令嬢の誘拐、それに総理大臣の息子の僕か……」


 どう考えても重大な事件に巻き込まれているとしか考えられない。

 花菱の社長令嬢を誘拐し莫大な身代金を要求、現総理大臣の息子を誘拐し、政府にとんでもない要求を突きつける。下手をすれば国家予算をまるまる要求してくるようなことをするのかもしれない。


「やはりテロリストか……」

「て、テロリスト!!」


 テロリストの単語を聞いて、響香はさっと顔色を失くした。

 順当に考えても、思い当たるのはそこしかない。

 花菱はおおっぴらには公表していないが、軍需産業の部品などを作り、国内外に流通させている会社である。若しかしたら、そこでも何かしらの要求をするために社長令嬢を誘拐したのかもしれない。

 この国の自衛隊に力が最大限及ぶ最高指揮官である内閣総理大臣。武器や資金の調達が一手にできそうな花菱。その二人の息子と娘を誘拐するのが、手っ取り早いとテロリストは考案したのだろう。

 進一郎はそう結論づけた。


「テロリストに誘拐された……」

「まあその線が妥当だな」

「ど、どうなるの私達……」


 響香は、ここに来て初めて現実を直視したのか、先程までの男勝りの態度を一変。恐怖に身体を小刻みに震わせ始めた。


「大丈夫だ、今はまだ殺されはしないだろう。ここにいる内は安心といってもいい」

「な、なんでそんなこと言えるの? もし要求が通らなければ、即殺されるかもしれないじゃない!!」

「いや、それはない。テロリストだってバカじゃない。俺達が監禁され、無事でいる内は使える駒として何度でも使えるんだ。その駒をミスミス無くすことはしないさ。最終的に使い道が無くなった時にはあっさり殺されるだろうがね」

「やっぱり殺されるんじゃない……」

「そう心配するな。そんなすぐすぐ殺されることはない。少なくとも何らかのコンタクトも取って来るだろう。それまでの間、ここから逃げ出す手立てを探すしかないが……」


 響香はガタガタと身を震わせ、自分が置かれた状況に絶望的なまでの心境に至っている。

 一方の進一郎はどこか泰然と構え、部屋のあちこちに目を配り、現状況を把握しようとしているようだ。


「どうやらスマホも何もかも没収されているようだから外部との連絡も付かない。とにかく先ずはこの部屋を隈なく調べよう」


 二人の所持品は、全てなかった。スマホから財布、ポケットの中の埃まで綺麗に何もなかったのだ。身一つでこの閉鎖された空間に放り込まれていたのである。


「え、ええ、わかったわ……」


 響香は進一郎の提案に頷くしかできなかった。

 どちらにしても、15センチしかない鎖で繋がれている以上、行動は共にしなければならないのだ。いくら気が滅入り臥せっていたいと思っても、二人が同じ行動を余儀なくされる。ここは進一郎の言っている事が今は正しい。ただ身を震わせていても、何も解決しないのである。

 たとえ嫌いな相手であっても、行動を共にしなければならないのだ。



 だが響香は、テロリストの仕業と考えても悠然と構え行動する、そんな男らしい進一郎に、どこか少し見直したような感じになるのだった

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