第21話
川幅が二倍以上に広がり、あと一日もせずに河口にたどりつく。
ここからカイヨウはやっと船に乗り換えた。ほろと馬を売り、宿に泊まっていた商人から、シェングのために高価な装身具と衣服を買い求めた。
荷台から小屋を降ろし、さて中身をどうしたものかと、かれは考えた。
船に小屋は乗せられない。
「おまえがあれを船に乗せてくれ。お前ひとりでは手に余るようなら私も手伝おう」
かれはそう云いつつも内心では気掛かりだった。
弱々しい彼女があの男に襲われて、あらがうことができるだろうか。
仕込めと云ったものの、最初から無理なことだったのじゃないか。
かれは部下に指示を送る手を休め、何げないふりで小屋のまえに立つ彼女を盗み見た。かれには彼女が立ちすくんでいるように見えた。
シェングは小屋のまえに立ち、淋しげに鼻を鳴らすフーショウの気配を感じた。引き戸を開け、かれが自分から外を覗くのを待った。
ついにかれも彼女会いたさに顔を覗かせた。
じっと大きな目で彼女を見上げ、うれしげに笑った。
彼女は無表情にかれを見下ろした。
すばやく飛びかかろうとするかれに、彼女は初めてあらがった。子供を仕付ける母親のようにかれの手をぴしゃりと払ったのだ。
かれは驚いただけで怒りはしなかった。不思議そうに彼女を見つめるばかりだった。
かれが近づけてくる手や体を彼女はことごとく払いのけた。
とうとうかれも彼女の云わんとするところがわかり、おとなしくもじもじと彼女を見やった。
彼女はかれの手を握り、その手を引いてカイヨウのもとへ戻った。
その様子を一部始終見ていたかれは、顔には出さなかったが、とてもうれしく思っていた。
かれは彼女のかたわらで、彼女の手を舌や唇で愛撫している犬男を険しい目で見やった。
「先に乗ってるんだ。そいつを絶対はなすんじゃないよ」
何事もない口調でかれは彼女に云った。
川べりに停泊する船は、彼女がはじめて見るものだった。牛や馬を乗せ、なおかつ人も何十人と乗せられるようなものは内陸にはなかった。
カイヨウの船への中継船さえも、彼女からしてみればすばらしく大きなものだった。
彼女はフーショウを連れて、へ先へいってみた。
川を覗くと、暗い水面に自分の顔とかれが映った。
そこには十七年前に売られていった姉がいた。
飾り立てられ、しかし、心の荒涼とした女。
その母親を情婦とも思っている息子。
川の中にそれらを見た。
ここにいるのが姉ならば、その妹はどこへいった?
小さな妹は、あのとき子供と一緒に死んでしまった。
彼女の混乱した思考はその嘘をすんなり飲み込んだ。
ここにいるのはシーファなのだ。
めまいがして、体ごと川へ落ち込みそうになった。
それをしっかりとフーショウが支えた。
そのまま甲板に引き倒し、彼女の体をまさぐりはじめた。
カイヨウが目ざとくそれに気付いた。
猛然とかれらに近づいていき、フーショウを殴り倒した。
彼女は我に返り、甲板に倒れ次の態勢に移ろうとしているフーショウを見た。
カイヨウは命拾いしたのだ。
彼女がフーショウを体で押さえ付けてしまわなかったら、今頃は血の海だったろう。
カイヨウは複雑な面持ちで、彼女を見つめて突っ立っていた。
「なんだってそいつをかばうんだ?」
かれの目はそう云っていた。
彼女は混乱した頭で、土下座して容赦してくれるように頼み込んだ。
かれは苦々しい思いで渋面を作った。
「もういい、勝手にしろ」
彼女は自分が一体何をしたのか、わかっていなかった。体が自分の意志とは関係なく動いているようだった。
背中にのしかかってくる重みに彼女は顔を上げ、フーショウの不安そうな顔を見つめた。
シーファは息子を不憫に思い、そっとその乱れた髪を丹念になでさすってやった。
かれは安心したのか、その手を取って頬に押し付け彼女の香りを嗅いでいた。
シェングはハッとして、自分の手を愛撫している甥を見た。
彼女の中にシーファが亡霊のように巣食っている。シェングの意識は簡単に姉と入れ替わった。
シーファは息子の手を取り、優しく話しかけた。
「いつでも母さんの云うことは守るのよ?」
シェングは口がきけなかったが、シーファはそのことを意に介していない。
シーファは勝手にしゃべり続けた。
「これからはずっと母さんも一緒だよ。母さんの云うこと、わかるね?」
フーショウは素直にうなずいた。
母親でもあるシェングが、やっと自分に応えてくれたことがうれしいようだった。
「父さんみたいなまねは、もうしちゃだめ。おまえはあの人なんかよりずっとましなはず。人間らしくなるのよ? あの人とは違うんだからね?」
シーファはまわりの景色を見まわし、
「フーショウ、ほらごらん。あれが母さんの云ってた空だよ。雲もある。おまえ、初めて見たろう?」
ひとつひとつを指さし、ていねいに教えていった。
かれは瞳を輝かせ、母親の指をおって、その指さすものを眺めた。
カイヨウの声がふいに二人の間に割り込んだ。
遠くから、フーショウを連れて来いと云っているのが聞こえる。
振り向いたのはシェングだった。
しっかりとフーショウの手を握り締め、強引にかれを引っ張った。
話は突然中断され、かれは目を白黒させていたが、母親の云いつけには素直だった。
ともに立つカイヨウが、船倉の上げ蓋を開けて待っていた。
「いやな思いをしてたんじゃないか? もういいよ、ここに入れてしまいなさい」
先ほどのことはかれの心の中で決着がついたようだった。もとの穏やかな調子で彼女に云った。
彼女はフーショウに入るようにうながした。
かれはためらいながらも、素直に階段を降りていった。
上げ蓋はバタンと下ろされ、そのうえに重たい樽が置かれる。
「手を洗うかい? それとも水で体を拭おうか?」
彼女はカイヨウにともなわれ、船室へ入っていった。
水を満たしたたらいを床に打ち付けた台のうえに置いた。
上半身をはだけ、彼女はいすに座っていた。
フーショウが目の前からいなくなると、彼女の中によどむ亡霊も姿を消した。
カイヨウは布を絞ると、犬男がなめまわしたと思われるところをしつこくていねいに拭っていった。
数日かまえまでは垢とくそにまみれ、人間であることさえ疑われる風体だったのが、一度湯をくぐると鄙にはめずらしい美女があらわれた。かれにはそんなふうに思えてならない。
荒々しい扱いに噛み傷や引っ掻き傷を作っていた肌も、今はつややかになっている。
かれは知らなかったが、彼女の乳で豊かに膨らんでいた乳房も吸う子がおらず、いつのまにか形よく小さくなっていた。
かれの拭うしぐさがだんだんと愛撫に変わり、ひざまずいて、彼女を抱き締めた。
「本当はいやがってなかったんじゃないのか?」
乳首にチキチキと歯を立て、かれはささやいた。
「あの犬男のことが忘れられないんじゃないのか?」
彼女はただまっすぐに目をこらしていた。
「私を見ろ。おまえの心に偽りは本当にないのか?」
両手で彼女の顔を捕らえ、かれは彼女の視線を自分に向けさせた。
彼女は静かに微笑んだ。かれには、それはまるでばかなことを云ってとたしなめる微笑に思えた。
「私はおまえを信じていいのか?」
彼女の口許の微笑みは消えなかった。
かれは彼女のひじを両手で支え、立ち上がらせた。
あごを彼女の頭に乗せ、自分の広い胸に彼女を押し付け、手はその袴のひもを緩めた。音もなくそれが床に重なり落ちた。
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