第9話

 けものじみたうなり声には、いつまでたっても知性のかけらさえ芽生えなかった。

 だが、彼女は気にしなかった。いつかこの子は死んでしまうのだからと。

「フーショウ……フーショウ!」

 フーショウは呼び声に、ハッとして目を開ける。

 穴からストンと包みが落ちてきた。

 かれはそれをすばやくつかみ、包みを咬み破る。

 ペロリと平らげ、バンバンと石の壁を殴りつけ、水の催促をする。

 スルスルと羊の胃袋の水筒が降りてきて、かれは受け取るなり、ラッパ飲みした。

 飲み干すとパッと手を放す。

 シェングはまた縄を引き上げ、すえた匂いのしみついた胃袋を地面においた。

 とうの昔に彼女はあれこれ想像するのはやめていた。どうせ気持ちのいいものではないだろうし、穴の底がどうなっていようと彼女には関係がないのだ。

 甥のけものじみたくぐもったうなり声が、汚物の匂いとともに立ちのぼる。

 彼女はゾッとして、この穴は自分の生活とは関係のないものと、断ち切るように立ち去った。

 夫は城壁の内側へ野菜を売りにいっている。

 今年の秋は野菜の出来がよかった。

 シェングが甥の世話に油を売る時間があるのも、余分な食べ物を甥に分けてやれるのも夫のおかげだと、彼女は心から思っていた。

 墳墓はさびれた野原にあり、皇墓群からだいぶ離れていた。

 農民の畑や牧草地からはかなり近かった。

 こんもりとした丘さえ築かれず、おざなりに平岩が三つ重ねて寝かせてあった。

 シーファがまだ元気だったころ、それらの岩も墳墓の置き岩らしく黒光りしていた。

 今は見る影もなく灰色にくすみ、雑草に包まれている。

 穴は草の陰に隠れ、シェングしかその場所を知らなかった。

 冬になると、夏の間に刈っておいた羊たちの毛を刈り、糸を紡いだ。

 冬を越すための金を夫はそれで稼ぐつもりで、シェングに町へいってくると云い残して出掛けてしまった。

 寒波はまだ来ず、それでも土の下には霜が降りる。

 炉の火を絶やすと、老いた父母と幼い子供が凍えるので、シェングは半分居眠りしながら炉に蒔をくべつづけていた。

 羊毛を裏打ちした羽織りでしっかりと肩を被い、こっくりこっくりと舟をこぐ。

 狼の遠吠えを聞いて、彼女はハッとする。

 小さな息子が泣いていた。

 カンの虫が騒いでいるのだろう。

 彼女は息子を背負い、ゆっくりと体をゆらして、子守歌を歌う。

 狼の遠吠えが、息子の泣き声の間から細く聞こえてくる。

 あれは狼ではない。

 この辺りには狼は降りてこない。

 甥が凍えているのかもしれない。

 羊革をもう一枚着込み、息子を被う。厚いフェルトの手袋をはめ、毛の長靴のうえからフェルトをかぶせた。

 子供を背負ったまま納屋へいき、余った羊毛を袋につめると、墳墓へいってみた。

 シンシンと空気が冷えきり、星が降ってきそうによく見える。

 彼女の頬が冷たく真っ赤にひきしまった。

 真夜中、薄暗闇に墳墓は黒々と浮きあがって見えた。

 いつのまにか遠吠えは止んでいた。

 シェングは立ち止まる。

 墳墓の陰に人が立っている。

 彼女はうしろをふりかえる。

 そこにも男が数人立ちはだかっていた。

 明かりも持っていない。

 ぼんやりと月が男たちを影から映し出すが、ますます暗くぼやけてしまうだけだった。

 彼女はものも云えず、おびえて突っ立っていた。

「あんた、この皇墓の墓守りか? それともうわさどおり、魔女なのか?」

 彼女はそのどちらにも首を振った。

 うしろからふいに肩をつかまれた。

 彼女の体が大きく揺れ、眠りかけていた息子が目を覚まし、泣き出した。

 男たちが動揺する。

 あっと云う間に彼女は数人に取り押さえられ、小さな息子が背中からはぎ取られた。

「静かにさせろ!」

 だれかがどなった。

 赤ん坊の泣き声が突然とぎれる。

 そして、静かになった。

 彼女はもがいて叫んだが、どうすることもできなかった。

 彼女は引きずられ、盗掘の頭領のまえに連れてこられた。口を押さえ付けていた手がのけられる。

「ああぁぁー!」

 夜のしじまも引き裂くような叫び声を上げ、彼女はひどく殴りつけられた。

 彼女はすすり泣きはじめる。

「なぁ、ここは皇墓だろうが? これ以上痛い思いをしたくなかろうが? 入り口はどこだ?」

 彼女は力なくうなだれたまま首をふる。

 突然頬をはりあげられた。寒さがそれに鞭のような痛みを加えた。

 彼女はおびえた目つきで頭領を見やる。

「云う気になったか?」

「あ、穴……」

 彼女はやっとのことでつぶやいた。

「どこだ?」

 突き飛ばされ、彼女はヨロヨロと穴へ導く。

 這いつくばって、草の間をかき分けて穴を頭領に示した。

 頭領が合図すると、鍬を持った男たちがそれを取り囲み、土を掘りはじめた。凍った土が着実に掘り下げられていく。

 彼女は墳墓の岩に寄りかかり、ぼうぜんとその作業を眺めていた。

 男たちは彼女の存在を忘れているように思えた。

 しかし、逃げられなかった。足がすくんで立てなかった。

 何も考えられず、泣きつづけていた。

 男たちが何やらののしっている。

 何とも云えない腐臭が辺りに漂う。

「外せる」

 だれかが云った。

 ゴリゴリと岩のずれる音がして、穴の真上にいた男が悲鳴を上げた。

 地面が岩と一緒に崩れ落ちたのだ。

 重たい地響きに盗掘者たちが動揺する。

 けものの咆吼。

 そして、断末魔。

 彼女は顔を上げ、墓のほうを見る。

 あの穴の底の甥が、死ぬこともなく、外気にさらされてしまったことがわかった。

 彼女はちぢこまり、両手をあわせて懸命に祈りはじめる。

 穴の底には、男の喉をかみ切って血まみれになったフーショウが、勝ち誇ったように立っていた。初めての戦いにかれは興奮していた。

「ハーハーハー!」

 かれは得意になって、笑い声を上げる。

「やろう!」

 穴の縁に集まり、有り様を知った盗掘者が叫んだ。

 フーショウが顔を上げる。真っ黒い脂ぎった海草じみた長い髪の間から、不敵にぎらつく瞳が月明かりにかいま見えた。

 男たちはたじろぐ。

 悪鬼が殺意をみなぎらせて、男たちを値踏みしているようだった。

 何人かが魔除けの言葉をつぶやいた。

 しかし、幻でも魔物でもない、生きて血の通うけだものがそこにはいた。

 かれは怒り狂っていた。

 自分の領域を無法に侵害されたからだ。

 かれは主張するために、足を踏み鳴らし、猛然とがれきを蹴って穴から踊り出た。

 今や、五感と四肢で自由を感じ取っていた。かれは歓喜の声を腹の底から吐き出す。それに応えるように股間の萎えていたものが頭をもたげた。

 男たちは鍬をギュッと胸に抱え込み、身構える。

 フーショウはもはやかれらの存在など眼中になく、空と空気を抱き込もうと腕を広げ、大気を飲み干してしまおうと口を大きく開けて、突っ立っていた。

「何してる! 殺せ、早く殺してしまえ!」

 頭領が遠巻きに叫んだ。

 一人が奇声を発し、フーショウへとつっかかっていった。

 かれの目が男を捕らえ、咆吼すると男に飛びかかった。

 敏捷な動きで男の肩をつかんだかと思うと、次にはその首に食らいついていた。

 かれの足元に死体がひとつできあがる。

「縄だ、縄をもってくるんだ!」

 縄をもった男が二人、遠くからフーショウを挟み、縄の輪を投げ、かれを捕らえた。

 かれは唇をめくりあげて吠えたてる。

 縄は引き込まれ、かれをぐるぐると締めつけた。そのうえから数人がかれを押さえ込む。

 歯を剥き出して威嚇するが、もはや恐れるに足らぬ存在になっていた。

 ニヤニヤしながら頭領格の男が近づいて来、フーショウの股間を興味深げに覗き込む。

「あの女が飼っていたのはコレか……やっぱり魔女じゃねぇか。よっぽど喜ばしてもらってんだろうな」

 男たちはいっせいに、岩にもたれて祈りつづけているシェングを振り返った。

 彼女は目の前の現実をよせつけまいと、一心不乱につぶやいていた。

 夢ならば覚めてくれることを。だれかがこれを終わらせてくれることを。

「連れてこい」

 男の一人が彼女を引き起こした。

 彼女は引きずられながら盗掘者たちの間に立たせられる。

 頭領が彼女の前に立ち、その頬をつかんで顔を上げさせる。

「あんた、コイツを知られたくなかったんだろ? 魔術で生んだのか? それとも妖鬼の間夫か?」

 彼女は男の顔を見て、その周りを取り囲む男たちの顔を見る。

 血の気が引いていく。

 何を期待しているのか。野卑で淫蕩な視線が彼女に注がれている。

 彼女は男たちの間で突き飛ばされ、そのたびに服を剥き取られていった。いやがる声もむなしく、布切れを口に押し込められ、地面にたたきつけられる。

 土の冷たさが地肌につき刺さってくる。

 彼女はそれでも抗いつづけ、無遠慮な手の侵入を拒んだ。

 鼻血が吹き出すほど殴りつけられ、彼女は恐怖のあまり失禁してしまった。 

 足を二人の男が押し広げる。

 冷たい土のうえに尿が広がり、湯気が立ちのぼる。

 フーショウがその足元に引きずられてきて、背中を踏まれ、顔を地面に押し付けられる。

 シェングは心の中で唱えつづける。

 これは夢だ、夢だ夢だ、悪い夢なんだわ……!

 フーショウは鼻を尿に近づけ、うなるのをやめた。犬のようにそれを嗅ぎ付け、彼女の股間へと顔をよせていく。

 ずっと昔死んでしまった母親と同じ匂いがする。彼は直感的にそう感じ取った。

 鼻をそろそろとにじりよせ、汚れをなめ取っていく。

 下半身から言葉にもできない悪寒が走る。

 彼女はくぐもった悲鳴を上げた。

 彼女はすべてを見させられていた。頭をしっかりとつかんでいる手は、強固だった。

 総毛立つ。

 なめくじのような舌が、毒ぐものような指が、彼女の息の根をとめようと、身体をはいまわる。

 彼女は泣いていた。はい上がってくる汚物によって、自分の身体がもとに戻れないほどに腐っていく思いがしていた。

 すえた、鼻の奥にツーンとくる異臭が自分の身体のうえにのしかかる。

 取り囲む男たちは阿呆のようにポカンと口を開け、犬みたいな呼吸を繰り返している。

 フーショウの顔が真上に来た。

 目が合う。

 紛れもなく姉の面影がそこにあった。

 足をもっていた男たちが彼女の腰を持ち上げ、ぐっとかれの硬くなった一物に押し付ける。

 シェングは悲痛な声を漏らした。

 フーショウがうなり声を上げながら、教えられもせずにグイグイと腰を動かしはじめる。

 その名のとおり、彼女にとってフーショウは覚めやらぬ夢そのものになった。決して自分だけは味あわないと思っていた屈辱的な苦痛が、霜のように自分に降り積もりはじめた。

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