02 あなたのことをもっと知りたい

「あれ、そこに誰かいるの?」


 透き通った声。まるでゆらぎの声を聴いているかのように心の中がすぅっと癒されていく。ずっと聴いていたいと思ってしまうその声により、宙を舞う音符たちは更に元気よくステップを踏む。


「もしもーし」


 女性と目が合う。クリクリッとした大きな目はクリームではなく彼女の瞳。何だか俺の気持ちがバレてしまっているんじゃないかというほど純粋な色をした綺麗な瞳。


 ん?

 目が合っている?

 俺はそこで自分がかなりの失態を犯していることにようやく気が付いた。音符たちは事態を把握したかのようにみんな消えていなくなる。絶景だと思ったポジションは、庭全体を見渡せる障害物のない場所。つまりは彼女からも俺が丸見えの状態なのだ。俺は自分の間抜けさを本気で呪い殺したくなった。


「君、何か用?」


 クリームを抱っこした彼女が俺に近付いてくる。やばい。逃げなきゃ。いや待て。ここで逃げたら本当に不審者になってしまう。でもあの人がこっちに向かって歩いてきている。ああ、歩く姿も本当に綺麗だ。ちょっと待て、だから今はかなりマズイ状況であり、きっとこの後この人が悲鳴を上げて、警察に通報されて、俺はやはり牢屋に――


「犬、好きなの?」

「あ、あの。えっと、犬、犬?」


 俺は予想もしていなかったことを訊かれ、動揺しまくって、視線はあっち行ったりこっち行ったり、声がひっくり返ったりしている。相当情けない。きっとこの人も呆れているだろう。この後のセリフは、決まって適当にあしらわれて『キモ』とか言われるのがオチだよな――


「うん。カバンに犬のキーホルダー付いてるから」

「ほえ?」


 俺はまたもや情けない声を漏らしながら、彼女が指差す方を見る。そうだ、俺は大の犬好き。実家で飼っているプードルの〝ワタアメ〟と似たキーホルダーを雑貨屋で見つけて直感でこれだと思って買った。見た目はブサイクだけど俺はこのキーホルダーを結構気に入っている。

 そのキーホルダーを指差して、彼女はにこにこと女神様のような笑顔を見せてくれる。その整った顔を全く直視できない。俺は今高熱があるんじゃないかというくらい身体中が火照りまくっている。彼女に悟られるんじゃないかと思い、両手で顔を隠した。


「君、この辺の子?」

「ふぁい」


 あまりの恥ずかしさについに日本語すらまともに喋れなくなってしまった。一八歳にもなって何をやっているんだ、俺よ。


「そっか。私、ちょっと前にここに引っ越してきたんだよね。近所に犬好きさんがいてくれて嬉しいな」


 再び俺に向けられる笑顔。ぶわあぁっと音を立てて彼女の周りに花が咲く。ああもう本当にやばい。心臓がばくばくして痛い。


「もし良かったら、今度君のワンちゃん連れておいで。みんなで遊ぼう」


 まさかこれは――、また会いに来てもいいって言ってくれているのか。


「私は、響花おとは美里 響花みさき おとはだよ。君は?」

「え、ええ越前……、越前 光稀えちぜん みつき、です……」


 響花さん。やばい、すげーいい名前。それに比べて俺なんて光稀なんて女の子みたいな名前で、めちゃくちゃ恥ずかしい。


「今度はちゃんとおめかししてお出迎えするから。またね、光稀くん」


 俺に手を振りながらクリームと家の中へ入っていく響花さん。え、待てよ。次はちゃんとおめかししてってことは……、今日はメイクとかしてなかったってことなのか。やばい、それであの破壊力はやばい。

 しかも名前――、名前呼んでくれた。響花さんのあの癒しボイスで発音される俺の名前は、とても響きが良くて、気持ちが良く聴こえた。いつもはちょっと恥ずかしい自分の名前も、響花さんはあっという間に素敵な呼び名へと変えてしまった。

 俺は半端じゃない嬉しさの反面、響花さんを思う気持ちが更に高まり、頭のてっぺんから『ふしゅうぅ』と蒸気が上がり、またもや「ふぁい」と情けない声で返事をした。






 翌日――

 俺はいつも通り学校へ登校した。

 俺の通う高校へと続く通学路は、四季折々の景色が楽しめるように規則正しく木が植えられており、そろそろ満開の桜でピンク色の世界を作り出してくれる頃だ。

 普通科高校生活三年目を迎えた俺は、進路を決めるための大事な一年間をこの環境で過ごすことになる。大学に進む友達が多い中、俺は家庭環境のこともあり、どこかに就職しようと考えている。


 と、まぁそんなことを考えているのは、自分の気を何とか紛らわそうとしているためだ。昨日あれから道中、帰宅後、食事中、寝る時……、ずっと響花さんの呼んでくれた『光稀くん』が頭から離れなかった。正直、全くと言っていいほど寝ていない。目の下にクマを作り、机に方頬をつけ、開きっぱなしの口からはよだれが溢れ、ちょっとした池ができている。


「おは〜……って、おい光稀。まじお前やべーよその顔」

「うるせー。まじ眠いんだって」


 いちごミルクをちゅーちゅー飲みながら俺の隣の席に座ったこいつは、中城 侑なかじょう あつむ

 小学校からずっと一緒の俺の幼馴染。侑は俺にないものをたくさん持っている。勉強もできるし、スポーツも万能。身長だっておれより一五センチ以上も高い。小学校の時は俺の方が高かったのに、何ともあっさり抜かれてしまった。おかげで女の子からもモテまくりのいわばリア充。何とも悔しいが、これが現実というやつだ。


「おはよー二人とも。げげー、その顔どーしたの? やばいよ。まじブスだよ」

「おい。ブス言うな」


 朝からテンションの高いこいつは、中学校からずっと同じ学校の沢渡 透子さわたり とうこ

 トーコは三人の中で際立って背が小さい。男子に囲まれているからとかそういうレベルではなく、学校の中でも断トツでチビ。人混みの中では頭のてっぺんすら見えないので一度逸れると捜索がとても大変だ。

 あと制服のスカートがいつも短い。ハッキリ言って目のやり場に若干困るが、ずっとこんな感じで俺らと一緒にいるので友達以上の感情は持っていない。あ、もちろん本っ当にいい友達だとは思っている。


 そんな二人と常に行動を共にしている俺。

 自分でも認めているが、俺は特に何か取り柄があるわけでも、特別何か優れたことがあるわけでもない。至ってどこにでもいる普通の高校生だ。成績だって真ん中くらい。スポーツは可もなく不可もないので部活には入っておらず、週末はバイトをしている。


「ねぇねぇ、おブスになったみっくん。君はどーしてそんなにおブスになっちゃったの?」

「こらトーコ。ブスブス言うなー」


 よだれまみれの机に肘をつき顎を乗せて、俺にブスになった理由を尋ねてくるトーコ。トーコは俺のことを〝みっくん〟と呼び、侑のことは〝あっくん〟と呼ぶ。


「あっくん、今日みっくんといつものカフェ行こうよ。どう? 時間ある?」

「俺は大丈夫だけど、光稀はどーする?」

「うぅ。眠いけど、ちょっとだけ行こうかな」

「だってよ、透子」


 侑の飲むいちごミルクのパックからカスカスの音が聞こえる。どうやら飲み終えたようだ。こいつは割とクールぶっているクセに、毎日女の子が好みそうな同じものいちごミルクばっかり飲んでいる。


 こいつらと一緒に学生生活送れるのはこの一年で最後。二人とも、大学進学を希望している。もちろんやりたいことは違うから行きたい大学だってバラバラだ。俺は就職の道が強いから尚更。

 こんな高校生活の最後くらい友達もいいけど、彼女とか作って『光稀、あたし寂しい(うるうる)』『そうか。じゃあ俺の勤務地の近くで一緒に暮らさないか?(キュピーン)』なんてかっちょいいセリフを一度くらい吐いてみたいと思うのが男のロマンではないだろうか。ああ、その彼女が響花さんだったら……。


「うげ! みっくん、よだれだけじゃなくて鼻血も出てる!」

「お前いよいよやばいぞ。大丈夫か?」

「うへぇ……」


 窓から見えるこの相模原市の景色はなかなかいいものだ。少し高台にあるこの高校は、通学は大変だけど、それを耐えてやってくればここは絶景スポットと化す。

 街のあちこちがピンク色に染まっている。とても綺麗だ。来月には町内会のイベントで〈相模まつり〉をやるらしくて、母さんは参加すると張り切っていた。

 俺が生まれ育ったその街に、響花さんはやって来たと言っていた。あんな衝撃的な出会いは初めてだ。クラスの女子が『ビビビッてきた!』なんて言っているのを聞いたことがあるが、まさにそんな感じ。思考が完全に止まって、なんかこう雷が走るっていうか。ああ、あんなに呆けた顔を響花さんの俺に対する第一印象にしてしまったのかと思うと、俺は人生をやり直したいと思うくらいに後悔している。すげーカッコ悪い。アニメとかでよくある超能力者的なやつが俺にも使えないだろうか。

 それにしても響花さん、本当に綺麗だったな。いったい何をしている人なんだろう。仕事とかしているのかな。何歳なのかな。女の人に年齢を訊くのはタブーだと母さんが言っていたけど――、知りたい。響花さんのこと、いろいろ知りたい。教えて欲しい。今度、本当にワタアメ連れて行ってみようかな。


 下校時刻のチャイムが鳴る。

 新学期が始まったばかりのため、部活動はしばらく休みの期間となる。本来であれば侑もトーコも部活をしているが、休みなのでカフェに行こうとトーコが誘ってきたのだ。


「みっくん、あっくん。終わったよー、行こー!」


 真っ先にトーコがカバンを持って俺のところへやってきた。トーコだけ席が離れているので、いつも小さい体でクラスメイトをすり抜けて俺たちのところまでやってくる。


「だってよ。侑、行こうぜ」

「おー、行くか」


 俺はトートバックをリュックのように背負う。かばんについたブサイクな犬のキーホルダーがかばんに当たり音がすると、俺はまた響花さんのことを思い出す。思い出すだけで顔が熱くなる感覚に襲われる。「光稀?」と侑に呼ばれる声も、俺には微かにしか聞こえないほどに頭の中は響花さんでいっぱいだ。これは、重症かもしれない。たった一度しか会っていない響花さんのことが、こんなに頭から離れないなんて。俺、大丈夫かな?

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