追撃の捜査
第13話 延長戦
出勤するとドアの側にカバンを置き、白紙の報告書をデスクに放る。
スマホのカレンダーと時計で今日のスケジュールを確認し、小さい冷蔵庫から冷やしたジュースを一本取り出す。
それを飲みながら年季の入ったカメラの手入れをする。
これが杏の日課だ。カメラの手入れが終わるとすぐに銃器の手入れにかかる。
報告書はそれが終えてから。終わるまでは絶対に手をつけない。
分解し、汚れを落とし、サビや欠損の確認を入念に行い、組み立て直す。銃弾を
「三つ足らんわぁ」
空の弾倉にいつもの麻酔弾を詰め込み、補充をしてようやく日課が終わる。そして報告書に手を伸ばした。
「ちょっといい?」
ノックの直後にひととせが顔を出した。その表情に笑みはない。真剣な顔で室内に入ると深呼吸して話を切り出した。
「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞く?でも悪いニュースは二つあるよ」
杏ははぐらかさずに「良いニュース」と答えた。
ひととせは手帳を開いた。
「美術館の館長が逮捕された。『赤獅子』から指紋が検出されて、絵馬くんのアトリエから絵を盗んだことを自白したよ」
「へぇ、それで?悪いニュースて何なん?」
「えっとね、それが──」
「『死者の歌声』が少秘警から盗まれた」
───は?
「何やてぇ!?」
驚きのあまり大声を出した。それくらい有り得ない事だった。ひととせは向かいのデスクに座ると、詳細を話した。
「副署長が盗んだ絵画は情報処理課に保管されてたんだけど……、昨日の昼に置いてったそれが昨晩のうちに無くなった。それで、さっき署長から絵画の捜索指示が出たから探しに行くんだけど」
「探すったってどこ探すんや?犯人も分からんのに絵画探すて鬼か」
「そうなんだけどさ、これから情処課に行って来るんだけど、知ってる人いるかなぁ」
昨夜なら当直の警部か、その補佐の少秘警官の誰かが知っているだろう。だが昨日は刑事課が当直だったはずだ。情報処理課には行ってない。
それでも情処課は無人の鉄城。仮に入られても出られないし、そもそも入られるものか。
昨晩のことを聞いても知る人が居ない。しかし、侵入を発見出来る人がいる。
「一人だけ心当たりあるで。知っとる奴」
ひととせは一瞬目を輝かせ、すぐに光の失せた目で杏を見つめた。
杏が自ら情処課に向かうと、ひととせは後ろでまだ見ぬ人に手を合わせた。
***
150センチに満たない身長。
ぬいぐるみのように柔らかい
絹のように滑らかな髪も、身の丈に合わない大きなセーターも愛おしい。
外したところを見たことが無いヘッドホンが羨ましい。ヘッドホンになりたかった。
「れーいーくーん!今日も可愛ええなぁ」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
情報処理課──第一サイバー対策室
長机に置かれた一台のノートパソコン以外に何も無い一室で、小さき情処課のエース──
「はぁぁあ…ほんまに可愛ええわぁ。持って帰りたいくらいやで。このまま帰ろ?ウチに来いやぁ」
「嫌です!嫌ですよ!雷蝶先輩怖いんですもん!さっきまで長谷警部に『充電させて』って抱きつかれてたのに!何で僕だけ脅威が多いんですかぁ!」
音郷の魂の叫びが心地よく聞こえる。杏は音郷のブロンドの髪に顔をうずめた。音郷が硬直した。
「あー、ええ匂いや。シャンプー変えたん?このメーカー分かるで。当てたろか?」
「やめてください!離してください!ていうか、さっきから先輩の胸が頭に当たって首折れそうなんですけど」
そう言う音郷の後頭部を杏のたわわな胸が包んでいた。杏はそれさえ嬉しくて、うっかり放電した。
「嫌やわぁ!零くんのエッチ!ほんまは嬉しいんとちゃう?」
「いや、嬉しくな……ちょっ、ちょっと!今放電しました!?パチッて!パチッていった!いやぁぁぁ感電したくない!ひ、ひととせ先輩!ひととせせんぱぁぁぁい!」
音郷が必死に助けを求める前で、ひととせは暖かい目で見守っていた。勝手に情処課の緑茶を三人分淹れ、一人だけ茶を啜って傍観する。
音郷が限界まで手を伸ばしても、ひととせは手を振ってそこから動かない。
杏はそれを理由に、これでもかと音郷を愛でた。音郷が体力を切らし、手足をだらんと下ろすとようやくひととせが「そろそろ止めてやって」と杏を止めた。
──もうちょっと可愛がりたい。
──ダメー。もう終わり。
音郷を離して椅子に座らせると、音郷は緑茶をちびちびと飲んだ。
「つ、疲れた……」
「うん、お疲れー。大丈夫だった?」
「大丈夫じゃないの見てましたよね。何で助けてくれなかったんですか」
「助けたぞ?」
「僕が力尽きる前ですよ!何で尽きてから助けたんですかっ!」
「あれ、まだ元気だ。杏ちゃん撫でていいよ」
「すみません!やめてください!助けてくれてありがとうございました!」
音郷が慌てて謝ると、ひととせは「そう?」と意地悪な笑みで緑茶を飲み干した。
杏が音郷の隣に座る。音郷は反射的にひととせの袖を掴んだ。
「で、何で先輩方は来たんでしたっけ」
杏の激しい愛情表現のせいで忘れかけた本題。ひととせが事情を説明すると、音郷は「有り得ないですよ」と首を振った。
「数ヶ月前にセキュリティチェックしたじゃないですか。ドアの自動化にパスワードと能力者カード認証、窓は強化ガラスを採用してセンサーまでつけて、最新の監視カメラと暗視カメラで資料室はガチガチですし、侵入されたと思われる証拠管理室は情処課の人間が居ないと開きませんよ。雷蝶先輩どころかサム警部も入れなかったじゃないですか」
「でも無くなってるんだよ。朝一番にあの絵を取りに行ったらどこにも無かったんだ」
「そこに置いてなかったとかは?」
「万単位から下がらん絵画をボロっちい刑事課に置いたりするアホおるかいな。安全性の高い場所に置いたった方がええに決まっとるやん」
「それもそうですよね。ここが一番安全ですから」
音郷は納得すると、ノートパソコンを起動した。ずらっと並んだソフトウェアから一つ選択してパスワードを入力する。
画面が一瞬暗くなり、すぐに元の画面に戻る。音郷はポケットから白い端末を出すと机に置いた。真ん中にボタンがあるだけの端末。似ているものを挙げるとするなら──家の電気スイッチ。
ボタンを押すといくつもの青白い画面が宙に映し出され、監視カメラのライブ映像を流し出す。
「えっと、昨日の夜でしたっけ」
音郷がパソコンに日時を打ち込むとカメラの映像が暗くなった玄関や廊下を映した。
七時から九時までを早送りで流すが、怪しい人間は映っていない。
音郷はいくつか画面を選ぶと端を掴んで拡大表示した。重要なカメラなのだろう。絵画を置いた証拠管理室の前も映っている。
朝までの記録を早送りするが、夜中の三時を回っても動きはない。杏は欠伸をした。
「やっぱり、盗まれてないんじゃないですか?」
「そんなはずは───」
「あっ」
午前四時頃の暗視カメラが明るくなった。証拠管理室の前、一人の男が立っていた。
男は辺りを見回し、カメラを見つけた。そのカメラに銃を向けて──
──そこで映像が途切れていた。
音郷は慌ててカメラを確認しに行った。ひととせは砂嵐の画面を引き伸ばして更に拡大し、映像を巻き戻した。
上着の黒いフードを被った細身の男。画質がやや悪いが、それでも誰かは分かった。
警視庁警備部警備課──新戸正幸警部の姿がそこにあった。
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