デュラバルデュッケの森に住む女性がナイフを持ち歩く訳
デュラバルデュッケの森に住まう長老。
地方の伝承、その生き字引と言われる御仁である。
彼女を旗に据え、そこを取り巻き、生きる者達がいる。
こんな時代になっても外界と隔離された狩猟中心の生活。
彼らの調査と領主様からの挨拶の品とを託された私は、ヤナイから遥か東、道無き山肌を、腰まで削る下葉に悩まされつつよじ登る。
それでも私が伝うこの筋は獣道なのだ。
他に外れては、ナタを振るわねば到底歩を進むこと能わない。
気候にそぐわぬ植生すら、彼らが封じていると言われる天使の影響なのかと感じずにはいられないデュラバルデュッケ。
山をまるでひとつ飲み込むこの森を歩く者は、流れる沢の音を聞き逃すと二度と下界へ戻れない。
これは物語に装飾された極彩色の羽飾りではなく、厳然たる事実なのだ。
――それにしても、私はこんなにも脆弱だったか。
革の手袋で苔むした木の幹を手繰り寄せつつ、重い一歩を進めては息をついているではないか。
森に最も近い街道まで、ヤナイから出た荷馬車に揺られてたどり着いたのは昼前の事だ。
あれから二時間は過ぎている。
だというのに、集落までの距離を恐らく半分も越えていない。
このままではまずいことになる。
日が落ちてしまう前に、目的地である集落へたどり着かねば……。
この森に、食われてしまうやもしれない。
気は急くが、荒い息が喉をついて足首を地に縛る。
休みたい。水が欲しい。
そう感じ始めた頃合い、仕掛けられたように獣道が二つに割れ、一つが沢の音へ吸い込まれるように伸びていた。
私は義務感に勝る体の欲求に従い、獣道を折れる。
まるで騎士への道のりと同じだ。
頂への道は難く、誘惑への道は易く。
絡む下葉で作られた足枷は、一歩の足取りの毎に外れ。
茂る葉が正面に作る光の穴は、一歩の足取りの毎に広がる。
そしてついにすべての束縛から解放されたその瞬間。
……視界の中心に飛び込んできた者に、心のすべてを奪われることになった。
デュラバルデュッケに住まう者。
彼らが『天使の涙』と呼ぶ渓流。
そこに半身を浸し、金の髪を両手で揉み洗う全裸の女性の姿があった。
私は、彼女から声をかけられるまで、あろうことかその華美なる白き彫像に目を奪われたままになってしまった。
「これは、旅のお方でいらっしゃいましたか。デュラバルデュッケへようこそ」
「あ…………。いや、とんだ失礼を致しました。この通り、お詫び申し上げます」
「咎に苦しむことはございません。天使の涙は皆のもの。その恩恵を求める思いをあなたが抱いたのは、森の意志なのですから。さあ、一枚羽織りましたのでどうぞ顔を上げてくださいませ」
温情に甘えて顔を上げたものの、私の瞳は瞼の縁を舐めることしかできず。
まるで体の線を隠すことのない薄布。
それを前だけに当てられているでは。
恐縮と恥ずかしさをない交ぜにしたまま身を縮める私に対して、怖気も侮蔑も抱かぬ様子で沢から上がって来た女性。
だが、そんな彼女の腕に刻まれた無数の傷を見て、私は思わず驚きを表す音を漏らしてしまった。
「ああ、驚かせてしまいましたか。ご安心ください。デュラバルデュッケでは普通のことなのです」
そう言いながら、岸に置かれた服を付け、豪奢な金髪を襟元から大きく掻き上げる彼女の腕の背。
粗悪な刃物による傷跡だろう、白く盛り上がる十字の傷が八つ、等間隔に刻まれていたのだ。
「しきたりの類でしょうか。見慣れないもので、思わず声を上げてしまい申し訳ありません」
重ね重ね、なんという失礼をしてしまったのか。
今度こそ不快に感じたことだろう。
そう思う私を、彼女は涼しい笑みで迎えてくれた。
「どうぞ気に病むことの無きように。我々は『天使の涙』無くして命を繋ぐことができません。ですのでこのようにして、彼女に悲しみを与え続けねばならないのです」
「それは……、一体、どういった意味でしょうか」
「私達は誕生日を迎えると、その日のうちに身を清め、自らの腕に傷を一つ入れるのです。……その様を見た天使に、涙させるために」
なんと、まさか腕の傷にそのような意味があったとは。
可愛そうに、この者達は天使に涙させ、それを飲んで生きるのか。
「そして天使の涙を絶やさぬよう、誕生日の間はずっと、人を騙し続けるのです」
「そうまでして天使に涙を流させたいというのか。余所者が口を挟むことではない、文化の違いと前置いてお聞きいただきたいのだが、私には酷い風習と感じる」
「酷い風習と仰る気持ちは分かりますが、私達にとってはこれが全て。いえ、もう一つ。皆様からすれば変わった風習があります」
「これ以上、まだ何かあるのですか?」
異なる文化と呼ぶには少々度が過ぎる。
私は心に備えをしっかりと持って、彼女の言葉を待った。
だがその言葉は、世界を足元から崩すほどの衝撃で私に襲い掛かる。
「デュラバルデュッケの女性は、裸を見られると、そのお相手と結婚しなければなりません」
「え…………? い、いや、待ってください! 私には妻子があります! 申し訳ないのですが、あなたを娶るわけにはまいりません!」
バカな! 何というしきたりなのだ!
だが、非は間違いなく私にある。
誠意をもって説かねばなるまい。
「旅のお方。私を受け入れないと仰るのは、あなたの価値観でしょう。私はあなたと共に、現在の奥様、そしてお子様をも受け入れます。それが私の価値観です」
「私の暮らす土地にて、重婚は認められておりません。どうか風習を曲げ、無かったことにしてはいただけないだろうか」
「それはできません。我々はこの森の意志に背くことが出来ないのです。それが、デュラバルデュッケに生を受けた者の宿命。これに逆らうくらいなら……、私を娶っていただけないのでしたら、死を選びます」
絶望的だ。
なんとも大時代的な考え方よ。
誕生日には人を騙さねばならぬだの。
その誕生日に、腕に傷を入れるだの。
そんな風習が残る土地だ。
素直に承服していただけぬことは分かるのだが……。
いや、一つだけ手がある。
森の長老に嘆願してみよう。
せめてもの可能性を見出し、私は彼女へしばしの保留を申し入れようとした。
……だが、その策に気付く為にはもう一呼吸の速さが足りなかった。
女性が纏った服に据えられた革ベルト。
そこに差された古めかしいナイフが逆手に抜かれる。
死を選ぶ。
先ほど耳にした彼女の言葉がこだまする。
「ま、待つんだ! 早まるな!」
思考が真っ白になり、指一つ動かすことが出来なくなった私の目の前。
女性は、腕にひとつ、傷を足した。
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