ラァナの馬小屋が、宿屋よりも立派な訳


 地中海からの風を片腹に受け止める深き森。

 その境界を縁取るように軒を連ねる小さな村がある。


 海を臨む広大な牧場が明媚ではあるが、他に目を楽しむ物も無し。

 いずれを見ても崩れそうな馬車の工房は、森が近いせいかその数は多く。

 寄付の具合について推察する必要もないほど荒れた教会には孤児が身を寄せる。


 だがそんな村を、近隣六都市に知らぬ者はない。

 常に住民よりも多くの観光客でにぎわう不思議の村。

 それがラァナだ。


 蒼然そうぜんたる月に照らされた、石すら敷かれていない円形の広場。

 そこでは夜を夜ともせぬ喧騒が、焼ける馬肉とむせ返るほどの酒気でその腹を膨らませている。


 いくつかの屋台。

 そこに群がる人、人、人。


 あばら家に暮らし、ぼろを纏う。

 そんな村人達が、着飾る観光客へ、これだけの肉を、酒を、無料で供する。


 ……不条理極まりない。

 これほど不思議な場所が、世のどこにあろう。


 都に住まい、噂しか聞いたことの無かった私にとって、この様はまるで舞台の一幕のように感じられた。


 夢かうつつか。

 私は、酒ではない何かに酔いを覚え、早々に宿へと戻った。




 ――ラァナでただ一つの宿。

 増築に次ぐ増築により、子供の試し絵通りに作ったような造形となり果てた、憐れなあばら家。


 饗宴のぜいいとまを告げ、隙間風と傾いだベッド、汚れたシーツに出迎えられた私は、壊れそうな椅子へ気を配りながら腰をかけて、逆に人心地ついた。


 火酒に温められた吐息。

 まるで悪魔にかけられた魔法を吐き出すがごとくそれを絞り出す。


 情報を集める時間はあまりない。

 明日になったら詳しい話を聞くとして、先ずこの宴についてありのままを覚え書きせねばなるまい。


 旅にわざわざ仕立てた麻袋からインク瓶を出すと、不意にノックの音が響いた。

 次いで聞こえてきたのは、どこか震えを感じる若い女の声。


「お客様。燭台のご用はございますでしょうか」

「ああ、これは助かります。丁度書き物をしたいと思っておりましたので」


 返事から、心地よい間をおいて扉が開くと、明らかにこの村の者と分かるぼろを羽織った若い女中が伏目がちに現れた。


 彼女は床を鳴らすことにも怯えた様で燭台を机に置くと、私に対して信じがたいほどに腰を曲げる。


「丁寧な方ですね。だが、そんなに恐縮されてしまうと困ります。……そうだ、もしよろしければ、この村の不思議について教えてはいただけないものでしょうか」


 私の頼みに恐縮しながら後ずさる女中は、両の膝を床に突きながら口を開いた。


「かしこまりました。お客様のお望みとあらばお話いたしましょう。この地に降り注いだ、運命の女神アトロポス様からの温情を」




 ――かつて、この小さな村を流行りの病が襲った。


 その病は何年も前に特効薬が見つかっていたため、大きな町では恐怖の対象ではなくなっていた。

 だが、村人はすべて病に侵され、この事態をよそへ知らせる術がない。

 このままでは数日後には多くの命が失われる。


 ……そんな悲劇の村に、一人の旅人が訪れた。


 彼は、この地より西に切り立つアケルという自殺の名所へ向かう途中だった。

 世を捨てようと訪れた地で、この惨状を偶然目にしたわけだ。


 その男は天が与えたもうた使命と感じて、村に一頭だけ飼われていた馬を駆り、町へと事態を知らせた。


 彼の行動により、この村は救われたのだ。


 そして男はラァナに住まい、英雄として天寿を全うしたのだ。




「以来、旅人と馬に尽くすのが我々子孫の当然の使命なのです」


 娘はそう結ぶと、床に額を付けて私に対して伏してしまった。


 ……今や近隣数都市と定期便で繋がるほど観光客が訪れる不思議の村、ラァナ。

 高級な馬車での旅は、よそへ向かう馬車よりも随分と高くつく。

 往復すれば、私が月に賜る禄など優に飛ぶ。


 だがこの地に来れば、宿も食事も無料なのだ。

 他の観光地へ赴くのと、費用はさほど変わらない。

 ならば話の種と、ここを選ぶ者が多いことも頷けるというものだ。


「だが、そう尽くしていては大変であろう。酒や肉は、どうしているというのか」

「はい。領主様からいくばくかのお金を賜り、それを充てております。ですがお客様が多くいらっしゃるようになり、皆が蓄えを切り崩しております」

「さもありなん。良い話を伺った。……私の仕事は、あなたのおかげで完遂いたしました。これは代金です。受け取ってください」


 私が腰巾着から銀貨を一つ取り出すと、女中は再び床に額を付けてしまう。


「お客様から金銭を受け取るなど、なんと恐ろしい。お客様は、なにゆえ私に死よりも辛い罪を与えるのでしょうか」

「これは……、そうでしたね。そのように教えられている方に対して浅慮でした。それでは、後日失礼にならぬようお礼いたします。その日をお楽しみに」


 私の言葉に戸惑いを隠せない様子で、女中はおろおろと退室する。

 その汚らしく引きずられた衣服が、私には神々しく感じられた。


 安心したまえ。あなたにご迷惑のかからぬよう、必ずお礼を差し上げます。


 私は、領主様の命により、この不思議の地を視察に来たのだ。

 あなた方がぼろを纏い、あばら家に暮らす。これはあってはならぬこと。

 この地への支援を増やす旨、私が間違いなくお伝えしよう。




 ……夜を知らぬ者達の様子を窺うため、窓を開く。


 すると遠くに、馬のいななきが響いた。

 夜明けは未だ遠いのに、旅客馬車の準備が始まっているのだろうか。


 毎日驚くほどの馬車がこの地と都市とを往復しているのに、その数は増える一方だから、こんな時刻から準備しなければ間に合わぬのだろう。

 まったく、この村の者達はどれだけ勤勉なのか。頭が下がる。


 そんな視界の端、宿の一階。

 はすに見える部屋に灯りが入った。


 窓辺に灯りと共に腰かけるのは先ほどの娘のようだ。

 明日は彼女の休息日であろうか、ワインのボトルを傾けて、グラスに注ぐ姿が良く見える。


 ……ふむ。夜着だけは随分と高級な物をお召しになるのだな。

 ぼろとは打って変わって、どこの貴族かと見紛えるほどだ。



 さて、私もひと眠りするとしよう。

 馬車に眠りこけ、御者へ迷惑などかけるような訳にいくまい。




 今や近隣数都市と定期便で繋がるほど観光客が訪れる不思議の村、ラァナ。

 高級な馬車での旅は、よそへ向かう馬車よりも随分と高くつく。

 往復すれば、私が月に賜る禄など優に飛ぶ。




 都への馬車の旅へ思いを馳せつつ、私は窓を閉じた。


 この地に、運命の女神アトロポス様の温情あらんことを。




 ……だが、女中が飲んでいたワイン。

 あれは私も滅多にお目にかかれないような高級品だ。

 一体、どうして一介の女中があんなものを飲めるのだ?


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