エピローグ


「本当にいいのね?」


 アスミの視線の先で、寄り添い合うように立っていた汐見ユウリと与野山マハノがお互いに顔を見合わせると、同時に頷いた。


「はい。もしこの記憶を消してしまえば、彼女のことまで忘れてしまうから、それはダメな気がするの。あの時、あの子たちにやられた傷はまだ癒えないで残ってしまうけど……それでも、彼女のことだけは、忘れたくない。私はもうとっくに教師ではないから、大人として、この子がこれから幸せな生活を送っていけるように、手助けをしてあげたい」


 マハノからは逃げたくない、と汐見ユウリは言った。


「あたしは、別に助けとか、必要ないけど。でも先生がどうしてもって言うのなら、少しぐらいちょっかいかけられてもいいかな、って」


 役に立つとは思わないけど、と与野山マハノがぶっきらぼうに吐き捨てた。言葉とは裏腹に、その表情がはにかんでいたことにアスミは気づく。


「これからは、お互いに支え合っていけるといいわね。トラウマの克服は大変だろうけど、人はいつでもどこでも傷を負うものよ。それから目を背けるのも、それと向き合っていくのも、どちらも勇気が必要だわ」


 ただ消してしまうのは悲しいけれど、という言葉を飲み込み、アスミはふたりの明日が、今日よりも良い日になることを祈った。


「アスミちゃん。またミルクティーを飲みにくるね」


 汐見ユウリの言葉に、一瞬遅れて、アスミは頷く。


「ええ。喫茶店『レーヴ』へのまたのお越しをお待ちしております」


 恭しく、スカートの裾を指でつまみ、アスミは優雅な礼をした。


「ねえ、先生」

「私はもう先生じゃないんだから、ユウリでいいよ」

「……ユウリさん? なんか、変な感じ」

「与野山さんは、これから家に帰るの?」

「……帰りたくないけど、どこにも行くところないから」

「なら、ウチに来る? 空き部屋あるし、私のお母さんとお父さんに事情を話したら、わかってもらえると思うし」

「え、でも」

「良いからウチにおいでよ。それに逃げ出した私だからこそわかるんだけど、苦しくつらいところにいると、いつまでも心が腐っていっちゃって、回復するのも困難になるの。だから、なるべく自分がつらい思いをしなくて済むように、少し距離を空けるのも一つの手だと思う」

「……なんか、先生、饒舌になりました? いや、新任挨拶のときも随分と饒舌でしたけど。なんか、あの頃に戻ったみたい」

「で、どうするの? まだ二月だから卒業式まで日にちがあるけど、ここからなら中学も通えるし。学校では無理して教室に行かなくても、保健室登校できるわ。私はあんまり話したことはないのだけど、二年前と保険医の先生が変わっていなければ、あの人はとても生徒想いの優しい人よ」

「……そうですね。考えておきます」


 そんな会話をしながら、喫茶店から遠ざかって、商店街の道を歩いて行くふたりの姿が消えるまで見送ると、カランコロンと音を立てながらアスミは喫茶店のなかに入った。

 今日はほかに客も来ないはずだから、大きな図体のユメクイが、カウンターの椅子に腰かけて文庫本を読んでいる。入口の鈴の音でアスミが入ってきたのは気づいているはずなのに、彼は顔を上げる気配がない。細い指が、ページを捲る。


「残念だったわね」

「……何がだい?」


 アスミの言葉に、ユメクイが反応した。

 濃い隈で縁取られたような瞳を、ユメクイが向けてくる。


「汐見ユウリと、与野山マハノの記憶を食べられなくて」

「……そうだね。もう少しだったけれど」


 ユメクイが、大きくため息を吐く。


「また君に邪魔をされた」

「当たり前じゃない。だってあたしは、あんたに悪夢以外の記憶の美味しさを、知ってもらいたいんだから。不幸な記憶よりも、幸福な記憶の方が美味しいに決まっているわ」

「……人間は、そう簡単に幸福な記憶を手放したりはしないよ」


 言外に、あの約束をしたままだと自分は幸福な記憶が食べられない、と告げるユメクイに、アスミは不敵にほほ笑みかける。


「でもね、あたしはいつか食べてほしいのよ。幸福な記憶を、あんたに」


 ユメクイは文庫本に視線を落とすと、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「楽しみにしてるよ」

「あ、そんなことよりも、ユメクイ、あんた、あたしとの約束破ろうとしたでしょ?」

「……それは、君が夢に見たとか言うから」

「ならなおさら、約束を守るために動こうとは思わないわけ? 毎朝あたしの記憶を食べる代わりに、人間の記憶は相手の同意なしに食べないこと。その約束を、食い意地の汚いあんたでも、六十年は守ってこられたでしょ?」

「……」

「ほら、都合が悪くなると黙って。いくらあんたが優しさを取り繕えるようになったからと言っても、人間の気持ちを理解しようとしないところと、食い意地の汚さは変わらないってことね」


 栞も挟まずに文庫本を閉じると、ユメクイは巨体を動かして立ち上がり、隈の濃い瞳を細めながら言った。


「僕は人間ではないからね」


 彼はそのままカウンターの裏側に入って行く。


「ちょっと逃げるつもり?」


 詰め寄るつもりで一歩、足を踏み出したアスミだったが、背後からカランコロンという音が響き、中途半端な姿勢で振り返る。

 昨夜の夢で、今日の来店予定はないと思っていたのだけれど……。

 はっと、アスミはユメクイを見た。

 彼はにっこりと営業スマイルを浮かべている。


「いらっしゃいませ」


 そこでアスミは思い出した。汐見ユウリと与野山マハノのことでバタバタしていたから忘れていたのだけれど、今朝もアスミは彼に記憶を食べてもらっていたのだった。それが、毎日の日課だから。

 不思議そうに店内を見渡していた新たなる客が、ユメクイの姿を見つけて、目と口を大きく開いたまま固まっている。

 アスミはそんな客に、華麗に微笑みかけた。


「ようこそ、喫茶店『レーヴ』へ」

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ユメクイ獏は必要ですか? 槙村まき @maki-shimotuki

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