第三章/箱⑫


 休日の学校と行っても、部活の練習のために教員用の出入り口は開いている。そこから誰にも気づかれずになかに入り、職員室から屋上の鍵を盗み出すのは思いのほか簡単だった。もし見咎められたとしても、どうせ死ぬのだし、あとのことなんてどうでもいいと思っていたからかもしれない。

 与野山マハノは夜と違い電気がついていなくても日の光で明るさが保たれている校舎の階段を四階まで上がると、施錠された屋上の鍵を開けて、外に出た。そこでどうして屋上が施錠されているのかを知った。


「なんだこの学校、フェンスないじゃん」


 屋上には人が落ちないようにフェンスがあるものだと思っていたのだが違ったみたいだ。いい意味で宛てが外れたと、マハノは軽くほくそ笑む。


(これなら助走をつけて、飛び出せる)


 死ぬのなら一瞬がいい。そっちの方が苦しくも、痛くもなくて済む。そしてできれば、血生臭いマハノの死体が、誰かにとってのトラウマになるのなら、なおのこといい。

 これからこの苦しい世界から解放されるからか、マハノの頭は冴えわたっていて、いつもよりも気分が良かった。ああ、死ぬにはいい日和だと、そう思ってしまうほどに。

 だから突然背後に現れた人物に声を掛けられたことに、マハノは激しく眉を歪めた。


「与野山マハノ」

「なに?」


 声でもうすでに察していたが、振り返ると思った通りの大男がいた。

 毬藻のような巨体に、細い手足、それから小さな顔。マハノと相対しているからか、その顔には笑みが浮かべられておらず、無の表情。口調も、淡々としていて感情が感じられない。


「本当に、死ぬつもりなのかい?」

「だったら、何?」


 マハノの剣幕にも、獏は眉ひとつ動かさない。


「もしよかったら死ぬ前に」

「あんたに記憶なんかあげない。前にも言ったでしょ? あんたに記憶を食べられるぐらいなら、死んだほうがましだって」


 詰め寄りながらそう言うと、獏はやっと表情を変えた。

 悲しげに眉をひそめて、解りやすくしょんぼりした姿が、マハノの瞳に憐れに映る。


「それは残念だね。……なら、しかたないか」


 無表情で、獏が一歩、近づいてくる。

 マハノは警戒して、一歩、後退った。


「なに? 止めようたってそうはいかないんだから。あんたに何を言われても、あたしは死ぬ。死ぬんだから」


 すると、マハノの言葉を聞いた獏は、キョトンとした顔をして、「ああ」と静かな声を上げた。


「君が死ぬのは、どうでもいいんだよ。僕は、人間の死には興味はない。僕が興味あるのは、人間の記憶……それも悪夢に似た、美味しい記憶だけだからね」


 にぃ、と降格を上げて、獏は笑った。その笑みは営業スマイルと違い、見ているこちらの背筋を震わせるような、怖ろしいほほ笑みだった。


「人間の同意をなしに、人間の記憶を食べてはいけない、ってアスミと約束をしているから、君の記憶を食べるのは良そうと思っていたんだ。でもアスミが、夢を見たって言っていた。アスミの夢は現実に起こりえる未来の夢だ。そのアスミが、死のうとした君の夢を僕が無理矢理食べる夢を視た、と言っていたんだ。だったら、本当に死ぬはずの君の夢を、アスミの視た未来を叶えるために、食べてもいいんじゃないかって思ったんだよ。君ほど魅力的な記憶を持つ人間は、そうそういないからね」


 滔々と語りながら、獏が近づいてくる。


「うるさいッ。くるなッ!」


 ヒステリックに叫び、マハノは獏が近づいてきた分だけ、うしろに下がった。


「だから、ね、君の夢を、僕に食べさせてくれないかな?」

「嫌だ」

「そう、それは、残念だね」


 獏の姿が、一瞬揺らぎ、

 同時に、高い少女の声がこの場に響き渡った。


「待ちなさい、ユメクイ!」


 ハッとした顔をして、獏が背後を振り返る。その視線を、マハノは辿り、ハッとした。

 そこには黒いゴシックロリータに似た服装に身を包んだ、少女がいた。

 彼女は真剣な眼で巨体な獏をにらんでいる。

 だけどマハノの視線はアスミではなく、その背後に向けられていた。


「先生」


 ジッと踏ん張りながら、マハノを見ている汐見ユウリがいた。その全身は震えていて、冷汗まで掻いている。


「どうして、こんなところに」


 死んでも会いたくないと思っていた人物に、再会してしまった。



    ◇◆◇



 土日でも、教員用の出入り口は開いていると知っていたから、ユウリはそこから校舎の中に入り、アスミが教えてくれた夢のとおり、屋上に向かった。

 普段は閉まっているはずの鍵が開いていて、ひやりと背中を嫌な汗が伝った。全身の震えが止まらない。いや、校舎に入る一歩前から、ユウリの全身は震えていた。吐き気も覚えていた。

 それでも、無理やりにでも足を動かした。動かさないといけなかった。

 ユウリは思い出していた。

 初めてマハノがいじめられている現場を見たときのこと。角田ミサの足がマハノのお腹に乗っかっていたのを、教室の扉の小窓から見つけたときのマハノの表情。それらかユウリに助けられたときに向けられた、安堵に似た表情。そして、ユウリを突き放したときに浮かべていた、表情。

 記憶の底から浚ってくる行為は、簡単にユウリを圧迫した。それをユウリは耐えた。ぐるぐるとした眩暈と引き換えに、ユウリはマハノが本当に伝えたいと思っていた表情を思い出していた。

 アスミに続き、屋上に踏み出す足も震えている。


「待ちなさい、ユメクイ!」


 耳鳴りもする。でも、アスミの声はしっかりとユウリの耳に届いていた。

 アスミの声に反応したマハノが、ユウリの姿を見つけて、目を大きく見開く。


「先生……どうして、こんなところに」


 一歩、マハノが後退った。


「与野山さんっ」


 彼女にどうしても伝えたいことがある。

 ユウリは震える足でマハノに近づいた。


「こ、来ないで……」


 首を横に振りながら、マハノがまた後退って行く。

 どんどん、どんどん、後退って行く。

 そんな彼女を追うように、立ちすくむ巨体の横を通りすぎるとき、ユウリはチラリと獏の顔を見た。その顔には表情がなく、無しか映していない瞳が一瞬、ユウリを捉えた気がした。

 ゾッと悪寒が背筋を走り抜け、逃れるようにユウリは再びマハノを見る。

 そして、「あ」と声を上げた。


「与野山さん! きいて! いますぐ」

「来ないでって言ってるじゃん! 先生には会いたくなかったのに、どうして……どうして……あ」


 呆然と見開かれた目が、虚空を泳ぐ。

 とっくに屋上の縁にいたマハノの体が後ろに下がり、一瞬、宙に浮いた。


「え」


 と、叫ぶ間もなく、マハノの体が、落ちていく。

 ユウリは必死に手を伸ばした。屋上の縁にへばりつき、落ちていくマハノに向かって。

 突然のことで助けを求めるように伸ばされていた手を腕ごとユウリは掴んだ。


「与野山さん!」


 マハノの体重が、ユウリの腕に圧し掛かってくる。

 歯を食いしばり、ユウリは耐えた。いまここで手を放してしまったら、取り返しのつかないことになる。彼女を助けられなくなる。せっかく、やっと思い出したのに。


「与野山さん! きいて! いままで助けられなくて、ごめんね! せっかく助けを求めていたのに、私はあなたの前から逃げだしてしまった! ほんとうに、ごめん! 役立たずで、馬鹿で、あなたのこと、救ってあげられなくてッ。護ってあげられなくって!」


 ユウリの掴んでいる腕がうごめいた。マハノが、あのときユウリの手を振り払ったときのように、またこの手を振り払おうとしている。

 必死に、ユウリは今度こそ離すまいと、その手を腕ごとしっかりと握りしめる。女子中学生で小柄な体型をしているとはいえ、女性の腕力だけでひとりの少女を支えのにも限度がある。


(でも、手を離すもんか)


 もう、嫌なんだと。同じことを繰り返すのは。また与野山マハノの前から逃げ出すのは。彼女を、助けられないのは。

 だから今度こそ、ユウリはマハノを助けるつもりでいた。

 ずりっ、と屋上の地面に横たわりマハノを支えていたユウリの体が、前にずれる。


「先生ッ。手を離して!」

「いや、離さない!」

「このままだと、先生まで落ちちゃう!」

「ぜったいに、離さない!」

「どんなけ、無謀なのよ」


 すぐ横からした声に顔を上げると、そこには黒いワンピース姿のアスミがいた。

 アスミは眉を下げて、困ったように笑い、ユメクイの名前を呼んだ。


「ユメクイ」

「……わかったよ」


 面倒そうに、ため息を吐く声がユウリの背後から響く。それと同時に、ユウリの体が引っ張り上げられた。ユウリはただ、マハノの手を離さないように必死に握りしめていた。

 浮遊感とともに、再びユウリの体は屋上の床に寝転がされる。


「だいじょうぶかい?」


 獏の無表情が、すぐ真ん前にあった。巨体な獏が身を屈めて、ユウリの顔を覗き込んでいる。

 ハッとユウリは体を起こすと、握っている手の先を探る。


「……先生」


 手を掴んだままになっている与野山マハノは、目に涙を溜めて、ユウリを見上げていた。


「ごめんなさい。酷いことを言って。あんなこと言うつもりなんてなかったのにッ。あたし……あたし……ッ」

「いいのよ。私も、逃げてばかりで、ごめんね。あなたを護ってあげられなくて、ごめんなさい」


 マハノの手を再び軽く握り、ユウリは言った。

 マハノは溢れ出してくる涙をせき止めるように腕で顔を覆ったが、その横から涙はとめどなく溢れている。


「ありがどうございまず」


 鼻水をすする音が、しばらくの間、屋上に響いていた。

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