第三章/箱⑪
――先生って、最低です。たいして何もできないくせに、どうしてあたしにちょっかいをかけるの? もう、学校に来ないでください。
ハッ、と目を覚ました時、頬に濡れた感触があった。
朝の八時過ぎ目を覚ましたユウリは、のっそりとした動作で布団から這い出すと、洗面台に向かった。鏡に映った自分の頬に、乾いた涙の痕が残っていた。
(またあの夢を見ていたのね)
冷たい水でバシャバシャと顔を洗うと、ユウリは台所に向かった。母親の姿はなかった。時間的にベランダで洗濯物を干しているのだろう。
ミルクを電子レンジで一分間温めて、それと焼いていない食パンを二枚、もそもそ食べる。
つけっぱなしのテレビでは、殺人者の男が書類送検されたというニュースがやっていた。本人は「記憶にない」と言っているらしいが、証拠はバッチリと残っているそうだ。
記憶。という部分にユウリは少しひっかりを覚えたものの、テレビの犯人に見覚えなんてないから、そのニュースはすぐに思考から除外された。
ぼんやりと何も考えることなくテレビを眺めていると、戻ってきた母親に声を掛けられた。
「あんた、今日も出かけるつもり?」
「……」
ユウリは答えられなかった。
仕事をしていないニートのユウリが出かける先といえば、あの喫茶店しか思い浮かばない。でも、ユウリはその喫茶店に行くべきがどうか躊躇っていた。
昨日、喫茶店で見た与野山マハノのヒステリックに歪んだ顔。
それから、喫茶店の店主である獏が垣間見せた表情。いや、あれを表情と呼んでいいのかはわからないが、それまで温厚そうな笑みを浮かべていた顔から笑みがひいた瞬間現れた、無機質な無表情。それはどこか人間離れをしていて、怖ろしく感じた。
「どこにも行かないのなら、部屋の掃除ぐらいしなさいよ」
「……うん。わかった」
母親は言いたいことだけ告げると、「買いものに行ってくる」と慌ただしく玄関に向かってしまった。
その後ろ姿を見送り、ユウリは今日の予定を考える。
ピンポーン――と、インターフォンの音が家の中に響き渡ったのはその時だった。
家の中にはユウリがひとりだけだ。布団にこもっているときは無視をするのだが、いまのユウリに出ない理由はなかった。
玄関に向かい扉を開けて、ユウリは驚いた。
「アスミちゃん?」
「おはよう」
長い黒髪が風に踊っていた。彼女はスカートの裾を掴むと、優雅に、恭しくお辞儀をする。今日のアスミは黒を基調としたワンピースを着ていた。肩の部分でふんわりと丸くなっていて、腕から手にかけて細くなっている。スカートの裾は長く、風の揺れ具合で黒いパンプスが見え隠れしている。
ゴシックロリータ、と言えばわかりやすいだろうか。頭につけているカチューシャも黒く、上品なレースであしらわれている。
「お、おはよう」
思わぬ訪問者だった。
どうして自分の家を知っているのだろう。そう訊ねようとする前に、アスミがどこか焦ったような顔で口を開いた。
「すぐ来てもらうわよ」
「え、どこに?」
「与野山マハノのところ」
◇◆◇
(最悪。あのクソ野郎ッ!)
与野山マリはイライラしていた。それもこれも、数時間前――マリこと源氏名のマリィを指名してくる、常連に対してだった。
その常連は四十手前ぐらいの、サラリーマンの男だった。独身の男で、初めての来店時は上司の男に連れられてきていて、どこか初々しいところが魅力的だった。でもすっかりマリィのことを気に入り、それからは一カ月に一回は店にやってきて、必ずマリィを指名していた。同僚に、「マリィにぞっこんじゃん」と言われるほどに。マリ自身も悪い気はしていなかった。でも相手は客なので、本気にはならないように気をつけていた。
でも今日、彼はいつもよりも酷く酔っぱらっていて、さすがのマリも止めようとしたのだけれど、彼は「飲まずにやってられるかぁ」と大きな声を上げて、それからキリッとマリの目を見つめて、意を決したように言ったのだった。
「僕と、結婚を前提に、付き合ってください」
ベロンベロンに酔っぱらっての台詞だったのだが、マリ自身悪い気はしていなかった。でも客との交際は店のルールとして禁止されている。だからマリは断った。
「ええー、どうして僕じゃダメなんですか? 年上だから?」
「いや、そういうわけじゃないんですけどぉ。お客さまとの交際は禁止されていて」
「じゃあ、僕があなたを養うから、この仕事を辞めてぼくと結婚してください!」
「でもわたし、バツイチですよ?」
「それでもいいです! 僕はあなたと一緒に暮らしたいだけですから!」
うう~んと、マリは悩むふりをしていた。この仕事は収入が多く嫌いではないが相手は立派なサラリーマンだ。そのうえ、収入も悪くないとある。
それならと考えて、「あ」とマリは自分が結婚するうえで障害となるものがあることを思い出した。
「あ、でもわたし、中学生の子供がいますよ?」
え、と男の顔がわかりやすく固まったのを見て、マリは隠しておけばよかったと後悔した。
この店でマリは年齢を隠している。だから人によってはマリの若々しい見た目から、二十代中盤と思っている客がいることをマリは知っていた。
でも中学生の子供がいるということは、自分はそれなりの年齢だということを伝えてしまったことになる。
しまったな、と思ったのもつかの間、男は顔を曇らせるとさっきまでの勢いとは一転して、「考えさせてください」としょぼんとした様子でソファーに深く腰掛けてしまった。
それからしばらくマリの席に沈黙が満ち、五分もしないうちに男は呂律の回らない口で、
「やっぱり、さっきの話はなかったことにしてください」
そう言って、別のスタッフを呼び止めると、マリ以外の女子を指名して、マリは別の席に移ることになった。
そのことを思いだして、マリはむしゃくしゃしていた。
(ずっとわたしのことを口説いてきたくせに、子供がいるから別の女に乗り換えるの? そんな簡単に諦められるんだ)
同時に、子供を産んですぐに家を出て行った元旦那のことも思い出していた。
(男はいつもそう。女の見た目だけに騙されて、デレデレするやつなんて、地獄に落ちればいいのよ)
だけど騙されているのは自分のほうだ。
どうして自分の人生は上手くいかないのだろう。おそらく子供のころからそうだ。子供の頃の記憶はおぼろげで、大きな出来事もなく高校を卒業して、付き合っていた彼と結婚して、子供を産んですぐに元旦那は家を出て行った。
ひとりで子育てをするのに頼れる相手もいないのは苦しくて、子供に手を上げてしまったことも一度や二度ではない。
「はぁ」
タクシーの中で、マリは大きなため息を吐いた。
(なんだか頭が痛い)
ズキズキと、頭の片隅が痛む。でもその痛みがどこから来るものかわからずに、マリは頭を押さえて、早朝の朝焼けのなか、車の外を流れる景色になんとなしに目を向ける。
「つきましたよ」
「……ありがと」
タクシー運転手の簡潔な声に、代金を払うと、マリはタクシーから降りて、自分が住むマンションのエレベーターに向かった。
玄関の扉を開けると、娘と鉢合わせした。
「あ」
と怯えたように、娘のマハノが体をのけぞらして、たたらを踏み、マリから逃れるかのように背中を向けた。
その背中を見て、フツフツと煮えたぎるようにあった苛立ちが、一気に膨れ上がるのを感じた
あの男のことを思いだす。マリの見てくれだけに騙されて、マリに中学生の子供がいると知った途端に掌返しをしたあの男。
だけどもし、マリに娘がいなければ? いままでマリが子育てや生活に苦しかったのはどうしてなのだろうか?
そんな疑問と、これまで娘を見るたびに頭を過ぎっていた苛立ちを、マリは思い出していた。
それに娘のどんくさい行動。マリの言うこともまともに訊きやしない。
「おかえりは?」
え、という顔で、マハノがこちらを見た。
その顔に、マリは詰め寄った。
「お母さんが帰ってきたんだから、おかえりぐらいは言ったらどう? 挨拶もまともにできないの?」
「お、おか、えり」
娘の震える声にも、イライラする。
「もっとちゃんとしてよね。あんたも、もうすぐ高校生でしょ!?」
大きく叫ぶと、娘はさらに縮こまり、その姿にさえイライラする。
ああ、とマリは頭の中を熱く焦がすような衝動に身を任せていた。
「わたしの人生は、もっとうまくいっていたのよ。あんたさえいなければ。あんたさえいなければねっ」
震える娘に、もっと近づいて、マリはその手を振り上げた。
(ああ、そういえば、なんだかこういうこと、前にもあった気がする。……でも、しょうがないわ。悪いのは娘なんだから)
◇◆◇
「ちょ、ちょっとそんなにも引っ張らないでよ」
「良いから、早くきなさい」
齢十歳ほどの少女に腕を引かれながら無理矢理歩かされているユウリは、周囲からどう見えているのだろうか。非常に滑稽な姿に違いない。
意外と強い力と、歩くスピードの速さに、ユウリはついて行くので必死になっていた。
だけど周りの景色が徐々に見覚えのあるところに移り変わっていることに気づき、ユウリはハッと息を呑んで、足を踏みしめるとアスミの手に抗った。
「ご、ごめんね。これ以上はついて行けない」
「どうして?」
「どうしてって……」
アスミの進んでいた道の先には、懐かしくも一生見たくないと思っていた校舎がある。二年前にユウリが教員を務めていた、公立中学校の校舎が。
今日は土曜日で学校の授業がないからか、野球部が運動場で練習をしている。その張り上げた声が、ユウリの耳まで届いてきた。
「あの中学校は、無理よ」
「どうして? あそこに、あなたのトラウマがあるから?」
的を射ているアスミの言葉に、ユウリは頷く。
「ええ。あの中学校で、私は教え子にいじめられたの」
思い出すだけで、いまにも喉元まで胃液が上ってきて、吐きそうになる。
酸っぱくも苦いそれを飲み込んで、ユウリは必死に耐えた。
「だから、ごめんね、アスミちゃん。あそこにはひとりで行って」
「それは無理。あたしが視た今日の記憶に、あなたは居なかったわ。だから、少しでも未来を変えるためには、あなたが必要なのよ」
どういう意味、と呟きのような声を漏らすと、アスミは鋭い視線でユウリを見据えて、言った。
「これから、与野山マハノは死ぬつもりよ」
「っ!」
「そしてユメクイがその与野山マハノの記憶を食べるために、あたしとの約束を破って、勝手なことをするの」
「それは……でも、私なんかが行っても意味なんてない。役になんて立たない、ただの馬鹿なんだから」
マハノに言われた言葉が、頭のなかで再び響き渡る。
――先生って、最低です。たいして何もできないくせに、どうしてあたしにちょっかいをかけるの? もう、学校に来ないでください。
自分は甘い夢を見て教師になって、そして教え子すら助けられないまま、教師を辞めて逃げた。その事実は、消せることなく記憶として残っている。
今更マハノに会ったところで、ユウリにできることなんて何もない。
「本当にそうかしら」
張りのあるアスミの声は、チリリンと軽やかに訪れを告げる鈴の音のように、ユウリの耳朶を叩いた。
「本当に、与野山マハノは、あなたのことを馬鹿な役立たずだと、思っているのかしら」
息を呑むユウリ。
アスミはそんなユウリの目をじっと見て、言葉を続けた。
「よぉうく思い出して。与野山マハノが、あなたに向けていた表情を。表情はね、受け取り手によってさまざまに変わるものなの。目は口ほどに物を言うとかいうけれどね、それは受け取り手がこう思っているに違いないっていう思い込みで、勝手に解釈できたりもすの。だから、よぉうく思い出しなさい。受け取り手のあなたの感じた彼女の表情ではなく、彼女が本当にあなたに向けたかった、隠れた表情があったはずよ。それを、よぉうく思い出すのよ」
彼女の表情を思い出す行為は、同時に、自分のトラウマを抉る行為だ。
それでもユウリは、アスミの言葉に誘われるように、与野山マハノがユウリに向けていた表情を、ゆっくりと記憶の底から浚ってこようとして――。
ふと、思い出した。
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