第三章/箱⑩
どうして自分はお母さんに叩かれるのだろう? 悪いことをしたから? それとも、あたしが要らない子だから?
――どうしてこんなこともできないの。いつも泣いたら許してもらえると思ってるんでしょ。もう小学生なんだからしっかりしてよね。
違う。泣いているのは叩かれるのが痛くて悲しいからで、許しを乞うているわけではない。
――もうっ。何かあるとだんまりするのもやめてよね。いつも言ってるでしょ。言いたいことがあるんだったら、しっかり口に出して伝えてよ。
そんなことを言ったって、自分の意見を口にしても、それは違うでしょ、とすぐに否定する癖に。お母さんが求めているのは自分に都合のいい返答だけなんでしょ?
――黙っていてもお母さんわからないよ。
どうせ何か言っても、無駄なんでしょ? ――そう、マハノが気づいたのは、小学三年生の時、それまで仲のよかった角田ミサがマハノを除けはじめた時だった。
どうしてミサはあたしのことを避けるの? ずっと友だちでいようと言ったのは嘘だったの? あたしが臭いから? でも、どうして? どうして、そんなことをするの?
何度問いかけても、ミサはマハノのことを無視した。
ミサは誰とでも気軽に会話することができる気さくな性格をしていた。マハノの傍から離れて行ったミサにはすぐに新しい友だちができたのだが、マハノには新しい友だちはできなかった。もとよりマハノの友だちは角田ミサひとりだけで、彼女がいれば十分だとマハノは思っていた。だから自分の傍から離れて行ったミサに無視されても話しかけ続けていたら、ある日いきなり始まったのだ。
それはミサの友だちのひとりからだった。
ミサがほかの友だちと話していても気にすることなく話し続けていたマハノの存在を疎ましく思ったのだろう。マハノの足を払い、派手に転んだマハノを見てミサの友だちはケラケラと笑った。最初はあっけにとられていたミサだけれど、次第に顔に笑みを浮かべて友だちと同じようにケラケラと笑ってきた。何が面白いのだろうか、とマハノは思ったのだけれど声がでなかった。
それからだった。
廊下を歩いていたらいきなり後ろから突き飛ばされたこともある。教室を歩いているときに伸びてきた足に引っ掛けられたこともある。教科書やノートが切り刻まれていたり、サインペンで落書きをされていたこともある。教科書がなくなったこともある。机に落書きをされていたことも……たくさんある。
そのたびに、角田ミサは笑った。
――あははっ、あはははははっ。
声を上げて、友だちと一緒に。
――あははっ、だっさ。根倉。ノロマ。
たのしそうに、楽しそうに、心の底から愉しそうに、笑っていた。マハノはいつも笑われる側で、なんでそんなに楽しいのだろうか、と疑問に思ったことも一度や二度ではない。
――あはははっ。
その笑い声を聞くだけでつらく、悲しく、苦しくって、でもマハノは何もすることができずに、ただ縮こまって時間が経つのを耐えることしかできなかった。
それが小学校を卒業するまで続き、そして中学に入学してからも、また続いた。
地獄のような日々だった。
明らかに気づいているはずのクラスメイトも、生徒の目すらまともに見ない担任も、教師になる夢が叶ったと語りキラキラとした顔をしていた副担任も、誰も、マハノを助けようとはしてくれない。
そう思っていたから、あの瞬間、マハノはとても驚いたのだ。
――だいじょうぶ?
そう言って差し出された手が、光って見えた。だから握り返した。温かく久しぶりに感じる感触に、安堵しながら。
だけど、それが早計だったと気づいたのは、それからすぐのことだった。
マハノを助けた副担任は、それから間もなく、角田ミサたちの次の標的になった。副担任の授業中はほとんど喋ったりふざけ合ったりして妨害行為を繰り返したりするのはもちろんのこと、いままでマハノにしてきた仕打ちよりはまだおとなしいものの、それでも生徒が教師にする行為としては最低なことを繰り返し、繰り返し、角田ミサは言ったのだ。
――あんたのせいで、先生はいじめれているんだよ? 先生がいる限り、あたしは先生にヒドイことたくさんするから。先生がいなくなるまで、これはぜったい終わらないよ。
あははっ、あはははははっ。
笑い声がこだまして、頭がおかしくなりそうで、ちょっとしたきっかけで決壊する思いが溢れそうで、それで気がついたらマハノは口走っていた。
――先生って、最低です。たいして何もできないくせに、どうしてあたしにちょっかいをかけるの? もう、学校に来ないでください。
副担任の顔が絶望したように歪み、崩れ、彼女は次の日から学校に来なくなった。
――あーあ、あんたも大概だよね。
角田ミサが鼻で笑った。
――そういえば汐見先生って、教師になるのが夢とか言っていなかった? それなのに学校に来ないでって、先生の夢は、あんたが壊したことになるんじゃない?
マハノはその言葉に頷いた。角田ミサはつまらなそうにまた鼻で笑った。
自分の人生の中、唯一味方になってくれた副担任の汐見ユウリ。
彼女を突き放してしまったことを、マハノはとても後悔していた。
「……先生……ごめんなさい……」
自分の言葉と、頬を滑りおりる濡れた感触に、マハノは長い夢から目を覚ました。
目を空けると、そこはまだ暗闇だった。その暗闇に、ふっと明かりが灯る。その光がすぐそばにあることに気づいたマハノはそちらを見た。
大きな男がいた。とてもとても大きな男だ。彼は懐中電灯の明かりを頼りに、文庫本を捲っていた。まだマハノが目を覚ましたことには気づいていないようで、隈の濃い瞳が、じっと、無表情のまま文庫本に向けられている。
ふと、その視線が動き、目を覚ましたマハノに向けられた。
「おはよう」
淡々とした挨拶にマハノは反応することなく、周囲の暗闇を見渡した。
「ここは、どこ?」
「僕の喫茶店だよ。君はよく眠っていたから、灯りを点けたら悪いと思って電気を消していたんだ」
落ち着いた声音とはいいがたい声に、マハノの頭が徐々に覚醒していく。
(そうだ、あたしはこいつに……)
勢いよく体を起こす。かけられていた毛布がひんやりとした床に落ちて、そこでマハノは並べられた椅子の上に寝転がっていることに気づいた。獏は余った椅子に腰かけて、閉じた文庫本をカウンターの上に置き、こちらを見ている。その目は濃い隈で彩られていて、暗闇の中、怪しく光っているようにみえた。
その目をにらみつけ、マハノは低い声を出した。もともとマハノの声は女子にしては低めだったが、それ以上に低い声を。
「あたしに、何をしたのよ」
「夢を見てもらっていただけだよ」
けろりとした顔で、獏が言う。
でもマハノはその言葉を信じなかった。
「嘘」
「僕は嘘を吐かないって、何度も言ってるだろ」
「それは信じるわ。あと、あんたが人間じゃないってこともね。でもあんたが本当に人間の記憶を食べる生き物なら、寝ているあたしの記憶を勝手に食べていてもおかしくないじゃない」
軽くため息を吐き、獏が言う。
「食べてないよ。僕は人間に無断で記憶を食べないことにしているんだ。だから僕は、人間が要らないといった記憶しか、食べない」
それが、アスミと交わした約束だからね、とどこか面倒そうに、獏が告げた。
その言葉は嘘を言っているようには思えなくて、ひとまずマハノは信じることにした。
そして暗がりの中、振り子のない壁掛け時計を探す。
いまの時刻を知りたかったのだが、暗すぎて何時なのかはわからなかった。
「いまは深夜の四時だよ。君は十時間ばかり寝ていた」
「……そんなにも?」
いつも母親が家に帰ってくる前に家を出るようにしていた。十時間も寝たのは随分と久しぶり……いや、記憶にある限り、初めてのことだ。
ぐっすり眠れていたのか異様に軽い体を動かし、床に足を置いたタイミングで、また獏に声を掛けられた。
「君はこれからどうするんだい? 家に、帰るのかい?」
「家……」
このまま家に帰っても、母親は二時間ばかりで帰ってくる。母親に顔を合わせるのはもう嫌だった。それに今日は土曜日で学校の授業はない。マハノには、どこにも行く宛てがなかった。だから首を振った。
「帰るつもりはない」
「じゃあ、どうするんだい?」
「……どうしよう」
昨夜、マハノは学校の屋上から飛び降りて死ぬつもりだった。母親からは愛情がないどころか嫌われていて、学校では角田ミサからいじめられて、唯一マハノの味方になってくれた汐見ユウリには冷たい態度しか取れない。こんな自分なんて無意味だから、せめて学校に迷惑をかけて死んでやろうと、そう衝動的な決意を胸に、命を捨てようとした。
それをこの、獏とか名乗っているユメクイに邪魔をされた。マハノは死ぬ機会を逃した。
暗闇のなか、頼りない灯りをふらつかせ、獏が言った。
「もし君がまだ死のうと思っているのなら、その記憶はもう要らないだろ。だから僕に食べさせてくれないかな?」
淡々と、悪意も、善意もない、むしろ無邪気とすら思えてくる獏の言葉。
マハノは獏に対する認識を、少し変えた。
(この男は、食い意地が悪い)
そういえばマハノが深い眠りにつく前に、この男は言っていた。
マハノの悪夢のような記憶は、とても興味がそそるのだと。
(意地汚い)
軽蔑するような眼で獏を見れば、獏は困ったように肩をすくめた。
「無理みたいだね」
「あんたに食べられるぐらいなら、死んだほうがまし」
「……そうなんだね。でも、死なれると、人間は夢を見ないで、無の状態になってしまう。それはとてももったいないことだろ? だから、出来れば君が生きている間に、その悪夢のような記憶を食べさせてほしい。要らなくなったら、いつでも言うんだよ」
マハノは頷かなかった。頷く意味もなかった。
この自分勝手な男の思い通りになんてなりたくないと、そう思った。
「やっぱり家に帰る」
このままこの男と一緒にいることは嫌だ。
獏はやはり淡々と、表情のない顔で言った。
「そう。気をつけてね」
◇◆◇
早朝。
喫茶店『レーヴ』のバックルームの一室で目を覚ました、長い黒髪の美しい少女――アスミは、跳ね起きると同居人の姿を探すために喫茶店に出た。
アスミは毎日、九時間眠っている。それが自分の体に必要な充分な睡眠だということを、アスミは理解していた。いくら六十年以上生きているからと言っても、この体は成長することなく子供のままなのだ。必要な睡眠時間も一般的な成人よりも多い。
そしてアスミはその九時間の睡眠の間に、明日の夢を視る。
その夢は自分が明日経験する夢だ。それはあくまでも不確定な未来。アスミの視る未来は、変えようと働きかければ変えることができる。
「ユメクイ!」
叫び越えに、朝日の差し込む店内で、明かりも灯さずに文庫本を読んでいた獏が、顔を上げる。その目の下には相変わらず濃い隈があった。不気味で、見方によっては怖ろしく感じる隈。
「おはよう」
「挨拶をしている場合じゃないわよ!」
いつもなら寝起きのコーヒーをせがんで、いつものように夢を食べてもらうアスミだけれど、今日のアスミはそんなことに構っていられなかった。
夢を見た。
いつも通り、明日――いや、もうすでに日付が変わって朝がやってきた、今日の夢を。
アスミは明日を視る能力の特質上、一度見た夢は忘れることができない。だから毎朝、夢に見た明日の記憶のなかから、要らないと思った記憶をユメクイに食べてもらっている。
だが今日は違う。寝起き早々だというのに、アスミは怒っていた。
怒りの矛先を向けられているユメクイは、きょとんした顔している。その顔にも、アスミはむしゃくしゃした。
いつもよりも強い口調で詰め寄ると、ユメクイは軽く目を見開いた。
「いったい、どんな夢を見たんだい?」
それは好奇心にも似た瞳だった。ユメクイは食べ物のこととなると、こうやって人間みたいに無邪気になることがある。
「今日の夢よ。あんたが……あんたが、あたしとの約束を破る夢!」
ユメクイが大きく双眸を開いた。これは好奇心に駆られている顔ではなく、純粋に驚いている顔。
瞳を細めると、ユメクイは口元に営業スマイルではない笑みを浮かべた。
「それで僕はどうして君との約束を破ってしまうんだい?」
「それは……っ」
アスミは一呼吸を挟み、夢で見た明日の記憶を話しはじめた。
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