第三章/箱⑨


 喫茶店のなかに入ってきたマハノは、ユウリの存在に気づくことなく、カウンターに近寄ると獏に詰め寄った。その瞳にから確かな怒りを感じたが、その怒りの矛先を向けられている獏は平然としていた。いや、彼の表情はほとんど変わらなかったからそう思っただけで、当の本人は驚いていたのかもしれない

 にっこりとほほ笑んでいた獏の目が軽く開いていく。優に二メートルを超える長身の獏は、女子中学生の平均身長より少し低いマハノと並ぶと、巨体さがさらに際立って見えた。


「あんたも、嘘つきだったんだ」


 ――嘘つき? 

 ユウリには、マハノの言っている意味がわからない。


「人の好さそうな顔をして、あたしの悲劇を腹の底で笑って見ていたんでしょ。嘘つき。どうしてそんなことまでして、あたしの幸せを壊そうとするの?」

「あの、話がみえないのですが……僕は、いままであなたに嘘を吐いたことはありませんよ?」

「それが嘘だって言ってんの!」


 叫び、マハノは獏のシャツの裾を掴んで、思いっきり引っ張った。

 獏の目線が下がり、マハノとそう変わらない高さになる。


「ユメクイってのも、嘘なんでしょ? 人の悪夢を食べる獏? それも人の要らない記憶を食べる? しかも、この喫茶店が夢現のところにあるとか、そんな大嘘までついて。白昼夢だったら、こんなにしっかりとした感触があるわけがないじゃない。どうせその巨体ももとからそうだっただけで、アスミちゃんとか関係ないんでしょ? ねえ、嘘ばかりついて楽しい?」


 にらみつけ、唾を飛ばすような勢いで叫ぶマハノに、さすがの獏を気おくれしたのか、息を呑むように黙り込んでしまった。


「なんとか言いなさいよ!」

「……僕は嘘を吐かないよ、と言っても信じてくれなさそうだからね」


 はあ、と盛大なため息を獏が吐いた。

 その顔からは笑みが剥がれたように消えていて、口調もアスミに対する親しみやすさとはやや違う、ぞんざいな感じになっている。


「ほら。やっぱり。化けの皮が剥がれた」


 勝ち誇ったように、マハノが笑う。ユウリはその顔から目が離せなかった。

 教師時代はずっと大人しいと思っていた生徒の新たな顔を見てしまったからだ。彼女は本当にあの時、角田ミサに腹を蹴られて、怯えたように蹲っていた少女なのだろうか? 別人のように見えてしまう。ユウリは息を呑んで、ふたりのやり取りを見守ることしかできなかった。

 獏は自分に向けられる憤怒の情を、無表情で見つめ返している。その瞳からはなんの感情も読みとることができず、何を考えているのかがまったくわからない。

 獏は口を開くと、自分は嘘を吐いていないのだということを、滔々と述べる。


「君が何を思っていようと、僕は嘘を吐いていないよ。僕は確かに人間ではなく、人の夢や記憶を食べる生き物だ。獏というのはあくまで架空の存在になぞられて名乗っているだけで、ユメクイというのはアスミがつけてくれた渾名だけれどね」


 淡々と、獏は言葉を続ける。


「僕は人間の夢を見ることができる。だから君が見てきた夢も知っている。君は学校で角田ミサにいじめられて、家では居場所がなくとても窮屈な思いをしている。どうしようもなく悔しい気持ちを押し殺して生きてきているから、君の夢には救いようがないほどの闇がはびこっている。君が昨夜に見ていた夢も、教えてあげようか? 君が憶えているかはわからないけれど、君はまだ絶望の夢を見ている。けれどその夢には少しずつ光が差し始めている。もしかしたら自分の生活が変わるかもしれないという強い思いからくる、未来のシミュレーションのようなものだろうね。君は母親と仲良く暮らす夢を見ている。でもそれはすぐに崩れてしまう儚いものだろうとも思っているみたいだね」 


 なおも続けようとした獏の言葉を、マハノは服の裾を引っ張ることで止めた。


「止めて」


 その顔はぐしゃりと歪んでいて、まなじりに涙が溜まっていた。フルフルと、力のない動作で、マハノは首を振る。


「そうよ。そんな夢を、見た」


 獏は無表情でマハノを見て、ふっと表情を和らげると、さっきまでとは一転していつもユウリたちに接するような落ち着いた声音で話はじめた。


「僕は、本当に与野山マリさんの記憶――子供の頃に虐待されていた記憶を頂きました。ですがそれはあくまでも与野山マリさんの記憶。彼女が要らないと言っていたのは、自分が虐待されていた記憶だけです」

「じゃあ、お母さんがあたしのことを嫌っているのは……」

「ええ、きっと与野山マリさんがあなたにしていた仕打ちは、自分が虐待されていた記憶とは関係がなかったということでしょう」

「そんなっ、ならあたしは、どうすればいいの……?」


 沈痛の面持ちで目を閉じて、獏はゆっくりと首を横に振った。


「僕は人間の要らない記憶を食べることしかできません。記憶がなくなったあと、その人間がどう過ごすかまではわからないのです。僕は、未来予知はできませんから」

「……っ」


 獏の服から手を離すと、崩れ落ちるようにマハノが蹲った。顔を深く両足の間に沈める。

 ふたりのやり取りを理解できていないユウリは、そんなマハノを見ていることしかできなかった。

 しばらく静寂な時が過ぎていただろうか。

 ふっと、息を吐くような声を上げてマハノが立ち上がった。


「帰ります」


 弱々しい声でそう言うと、獏やユウリに目もくれることなく、喫茶店から出て行った。遅れて、カランコロンという音が、響いてユウリの耳に届く。呼びかけることすらできなかった。


「汐見さん」

 獏の声に、扉に向けていた視線を戻すと、彼は申し訳なさそうな顔をしていた。


「今日はもうこれで閉店としたいと思います。申し訳ありませんが、お帰りいただけますか?」


 すっかり冷めてしまっているミルクティーを見下ろして、ユウリはゆっくりと頷いた。


「わかりました」



 カランコロンと頭上で鈴の音が響くと、ユウリはすぐに、静かな静寂に包まれた。

 まだ夕方だというのに、この商店街は――いや、この喫茶店の周辺は人の気配がない。

 喫茶店を見ると、照明はすでに消えていた。窓の中には闇しかなく、それがほんの少し薄気味わるく思えた。


(与野山さんは何をしているのかしら)


 頭をかすめた疑問を、ユウリはかぶりを振って気にしていないようなふりをする。

 闇から逃れるように、ユウリは足早に家に帰った。



    ◇◆◇



 もう空も赤らみかけた夕刻。運動場に人の気配はなく、校舎も職員室のある一階に灯りが点いているだけの静けさに満ちた校舎に向かって、与野山マハノは歩いていた。開いていた職員用の出入り口から中に入り、靴を脱ぐことなくそのまま廊下を歩いて行く。

 灯りの点いている一階から、照明の灯っていない二階、三階へと上がって行く。それからマハノたち三年生のクラスのある四階へ。そしてそのまま、ひっそりと隠れたように存在している階段から屋上へ。

 扉の鍵は閉まっていた。あたりまえだ。学校の屋上が簡単に出られる作りになっているわけがない。ここで引き返すことのできないマハノは、職員室から屋上の鍵を拝借してこようと階段を下りようとした。

 そこで、声を掛けられた。


「与野山さん。何をなされるおつもりですか?」


 落ち着いた男性の声音。

 灯りの点いていない暗闇のなか目を凝らすと、そこには優に二メートルは越える巨体の男がいた。毬藻のような胴体に、細い手足。ちょこんと乗っかっているだけのような頭部。その顔にはいつものように人の好さそうな笑みが浮かべられていた。

 でもマハノはその笑みが作り物であることを知っている。咎めるような視線を、彼に向ける。


「何しに来たの?」

「あなたが心配で、追いかけてきたんですよ?」

「嘘。あんたが、そんなことをするように思えない」


 マハノが詰め寄った時、この男は自分の本性を現した。あの時の無でしかない表情をするような男が、人の記憶を食べる人ではない生き物が、そう簡単に人間を心配するようには思えない。

 そんなマハノの気持ちが通じたのだろうか、獏は表情を曇らせると、顔から笑みを消した。


「……僕も、随分と嫌われたものだね」


 その声は淡々としている。本性を現したのだ。


「ほら、仮面が剥がれた」


 笑みを消した獏とは反対に、それまで暗い表情をしていたマハノの顔に、笑みが現れる。その笑みは歪んでいた。

 ハハッ、とマハノが引き攣ったように笑う。

 無表情の獏が、淡々と、言葉を返してくる。


「君にはこっちのほうがいいと思ってね」


 獏は四階へと下りる階段の途中にある踊り場にいた。対してマハノがいるのは、屋上側の階段。屋上の鍵は施錠されていて、逃げ道を塞がれたような形になってしまっている。

 こうして改めて相対して、マハノは獏への認識を改めていた。

 この男は、本当に人間ではないのかもしれない。

 相手を傷つけることに楽しみを見出した角田ミサや、娘のことをなんとも思っていないマハノの母親、それから自己保身にしか興味のない担任たちとは全然違う得体のしれなさが、この獏とかいう男にはある。それは不気味さと呼ばれるものなのかもしれない。

 もしこの男が口にしたこと――自分が人間ではないということが本当なのであれば、感じる不気味さにも納得がいく。だけどマハノはやはりまだ、この男はただの嘘つきだと、マハノのことを騙しているのだという、疑心を抱いていた。……いや、疑心だけではない。そうあってほしいと。もしこの男が大嘘つきで、人間の記憶を食べる生き物ではなかったとすれば、母親はこの男に記憶を食べられていないということになる。そうだとすれば、まだ納得ができた。

 だけどもしこの男が本当に人の記憶を食べる生き物で、母親が子供の頃に虐待されていた記憶を食べたのだとして――それでもマハノに対する仕打ちが変わっていないのだとすると――それはもう……。

 淡々とした男の声が暗い階段に静かに響く。


「何度でもいうよ。僕は嘘を吐かない」

「……なら証拠を見せなさいよ。あんたが嘘を吐いていない証拠」

「証拠、ね」


 獏が困ったように頭を掻いた。


「ほら、ないんでしょ? 証拠なんて」

「そうだね。嘘っていうのは真実があって成り立つものだ。だけど僕が食べた記憶はもう本人の記憶からは失くなってしまっている。だから証拠なんてどこにも残っていない。だけど、そうだね。もうすぐ夜だから、見せてもいいかな。アスミには怒られるだろうけど」


 獏がボソボソと何かを呟いた。

 そして、姿が変わった。

 え、とマハノは思わずまぬけな声を上げる。

 それまで二メートルを超えるほどの巨体があった空間が、一瞬で歪み、陰りを帯びはじめた。いびつに、黒い空間を、さらに黒くして。


「君には前に言っただろ? 僕のこの姿は、アスミが夢に見た生き物の姿を模っているって。大男の姿でいる期間が長すぎて、別の姿になることはできないって。でもそれは形を変えられないということではない。僕はもともと躰のない存在なんだ。だからこうして姿をことはできる。まあ別の姿になることはできないから、体が欲しくなったらアスミの夢を模ることになるのだけれどね」


 うようよと、霧のようなものが、マハノに向かってくる。

 その霧のなかから、声が聞こえてくる。


「そしてこうして崩された姿は、夢という概念と同じになる」

「いや、こないで」


 全身を悪寒が走っていた。これは本当の不気味さに相対し時に感じる、震えだ。

 怖ろしい。怖ろしくって、いますぐ逃げ出したい。

 だけど屋上の鍵が閉まっている限り、マハノに逃げ場はない。


「ねえ、君の夢を見せてよ。どうせこれから死のうとしていたんだろう? 君の悪夢はとても食欲をそそるんだ。ずっと、ずっと、見てきたんだよ。だから僕はこの土地に来たと言ってもいい」


 屋上の扉の近くには掃除道具入れがあった。その扉を開くと、なかには掃除用具が詰められている。そのうちいちばん柄の長いモップを掴むと、マハノはそれを大きく振り上げた。

 だけどその抵抗は虚しく、黒い淀みのような霧がマハノの全身を瞬時に覆う。

 そもそもこの霧に物理攻撃なんて効くはずがないのだとマハノが気づいたのは、泥のような眠気が全身に満ちはじめたときで。

 その時にはもうすでに彼女は深い眠りのなかにいた。

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