第三章/箱⑧


 泥のような眠りから、与野山マリは目を覚ました。ここ数日きちんと眠れていなかったからだろうか。蓄積された疲れが拭い去られたかのように、すっきりとした目覚めだった。

 カーテンを開くと、昼過ぎの日差しに心地よさを感じる。こんなにもいい目覚めを経験するのは産まれてはじめてのことなのかもしれない。

 そういえば、どうして自分はここ数日ぐっすり眠れていなかったのだろうか。

 思い出そうとしても、頭のなかに靄でもかかっているのか、何も思い出すことができない。

 まあ、どうせ仕事で疲れていたのだろう。マリはキャバクラで働いているのだが、人と接する仕事は何かと精神力を使うものだ。笑いたくなくても笑わなければいけない。たとえ嫌な客だろうと、相手に一時の安らぎを与える仕事で、相手に不愉快な思いをさせるわけにはいかない。

 顔を洗うと、洗濯機を回しながら、部屋の片づけをする。掃除なんてほとんどしないから、部屋のなかはしっちゃかめっちゃかしていて、かろうじて寝るスペースがあるぐらいだった。

 音を立ててかけていた掃除機の電源を消すと、部屋のなかがやけに静かに感じた。

 テレビのスイッチを入れる。音が欲しいだけだから番組は何でもいいと、ニュース番組にチャンネルを合わせた。テレビではひとつの事件が取り上げられていた。

 どうやら一週間ほど前に、殺人の容疑で捕まった男が、意味の解らない発言をしているそうだ。現場からは確かに男のものと思えるDNAが見つかっている上に、現場から逃走する血まみれナイフを持った男の姿を目撃した人が何人もいるのにも関わらず、男は殺していないと言い張っている。しかも言い訳が、その時間帯自分が何をしていたのか覚えていない。記憶にない、と言った類らしい。


(ったく、これで逃げおおせるわけではないでしょうに)


 証拠は十分すぎるほどに揃っているのに、男は自分を無罪だと言い張っている。一視聴者からすると、それはとても馬鹿らしく思える行為だった。

 洗濯物を干してから、マリは顔に化粧を施すと、しばらくぼんやりとテレビを見続けた。

 午後六時には店に向かわなければいけないけれど、まだそれまで三十分ほど時間がある。

 どうしようかと考えていると、玄関の扉が開いた。あ、という声が、玄関のほうから聞こえてくる。

 娘が、学校から帰ってきたのだろう。家から歩いて十五分ほどの中学校なので、もっと早い時間に帰ってきてもおかしくないのに、自分の知らないうちに娘は部活でもやっていたのだろうか。

 二LDKの小さなマンションの一室は、キッチンから扉をひとつ隔てて、二つの部屋が寄り添い合っている。そのうちのひとつを娘用にしてあるのだけれど、その部屋に行くにはいったんマリのいる部屋を経由していかなければいけない。 

 細やかな息遣いが聞こえた気がした。そのあとに何か一言聞こえた気がしたのだが、マリはテレビ画面を見つめたまま訊き返すことはしなかった。とっくに冷え切っている家庭生活で、娘にかけてあげる言葉なんて思いつかなかったから。



    ◇◆◇



 玄関の扉を握る手が震えていた。


(いつもといっしょ)


 与野山マハノは自分に言い聞かせる。これはいつものことなのだと。自分はいつもこの扉を開けるとき、向こう側にあの人がいないことを祈っている。

 でも今日は違う。今日は扉の向こう側に、いつも避けていたあの人――母親がいてくれることを祈っている。だからこそよけいに緊張しているのだ。この扉を開けたら何かが変わっているのかもしれない。そんな祈りもあるのだから。

 ガチャ、とドアノブを回して扉を引く。

 靴を脱ぐ前に部屋の中を覗くと、机に肘をついてテレビ画面を見つめている母親を見つけた。まだ出勤前だから思った通り家にいた。

 靴を脱ぐと、邪魔にならないようにと靴を端のほうに並べて置く。

 一歩一歩、足を進めて、母親に近寄る。


「……ただいま」


 掠れた小声だった。

 返答はない。

 もしかしたら聞こえなかったのかもしれない。マハノはもう一度口を開く。


「お母さん」


 呼びかける。わずかに、肘をついているほうの腕が動いた気がした。


「お母さん。た、ただいま」


 ゆっくりと緩慢な動作で、母親が顔だけをこちらに向けた。心臓の鼓動がバクバクとやけに大きな音で耳まで届く。

 思わず視線を下げてしまい、マハノは母親の顔を直視できなかった。


「マハノ」


 久しぶりに呼ばれる名前に顔を上げると、母親は眉を寄せて、煩わしそうな顔をしていた。


「そんなところにいたら、邪魔」


 立ち上がると、母親はマハノににじり寄ってきた。


「通り道に立たないでよ。仕事に間に合わないじゃない」


 その目は実の娘に向けるものにしてはあまりにも冷めきっていて、マハノは反応が遅れてしまった。


「ちょっと聞いてるの? ……もう、まただんまりして。お母さんを困らせないでよ」

「お母さん」


 咄嗟に呼んで、母親の腕を掴む。

 だが、すぐに腕は払われてしまった。


「これからお母さんはお仕事なの。わたしの邪魔ばかりしないで」


 そのまま洗面所に消えて行く母親の背中を呆然と見つめていると、すぐに母親が部屋に戻ってきた。マハノの姿を見ると、まだそこにいるのか、という顔つきになった。


「ほんと、いつもいつもお母さんの邪魔ばかりして、困らせて、何が楽しいの?」


 マハノの真正面に立ち、丁寧に化粧をして、ひとりの子供がいるとは信じられないほど若々しく取り繕った顔を近づけてくる。

 その顔をまともに見るのはあまりにも久しぶりすぎて、これは本当に自分の母親の顔なのだろうか、とマハノは他人事のように考えていた。

 だから反応が遅れてしまった。

 右手が降り上げられると、マハノの頬に掌が落ちてくる。

 パチン、という音で、マハノは我に返った。


「もういい加減いうこと聞いてよ。あんたもうすぐ高校生でしょう!」


 勢いで、畳の上に尻餅をつく。

 叱りつけるだけ叱ると、母親の興味はすぐにそれ、部屋の脇に置いてあった高そうな鞄を手に取り、そのまま玄関に向かっていた。その動作の中に、マハノを気に掛ける様子は微塵もなかった。


(……どうして)


 マハノは自分の生活が何も変わっていないことに気づき――衝撃のような激情が、胸に込み上がってきた。



 それからマハノはご飯も食べずに寝ると、朝早く起きて、母親が帰ってくる前に家を出た。

まだ早朝六時。これから学校に向かうには早すぎるけれど、どこかの部活が朝練でもしているだろうから、裏門ぐらいは開いているだろう。いつもは公園で時間をつぶしてから学校に向かうのだけれど、今日のマハノは一刻も早く時間が過ぎてくれることを祈っていた。

 裏門は思った通り施錠が開いていたためそこからするりと中に入り、下駄箱で靴を履き替えて校舎の中に入る。三月だというのに、運動場ではサッカー部の部員たちがランニングをしていた。三年生は引退しているので、活動しているのは主に二年生と一年生だろう。

 そういえば自分ももう三年生だ、とマハノは思った。

 高校の受験は先生に勧められた公立高校を適当に受験して、受かることができたのだが、まだ高校の制服の準備をしていないことを思いだす。母親にメッセージでも残しておけば、制服代ぐらいはくれるだろうか。

 子育てなんてまともにできない母親も、さすがにマハノを飢え死にさせるわけにはいかないと考えているのか、毎週お小遣いは欠かすことなく机の上に無造作に置いてくれている。それをマハノは少し遣い、少し貯めてある。だからそこから制服代を出してもいいかもしれない。

 マハノは教室に入ると、前から二列目、一番窓側の自分の席に座る。頬杖をつき、授業の開始を待った。ただ今日の授業が早く終わってくれるのを、待った。

 今日のマハノは不機嫌だった。角田ミサや、その取り巻きたちから何をされても、平気な顔をして、ただだんまりを決め込んだ。どうせ根倉女と思われているし、何をしゃべっても角田ミサたちはマハノ言葉をまともに訊こうとしない。だからマハノはトイレに閉じ込められても、バケツの水を浴びせられても、何もない空間をにらみつけることにより、平気な顔をすることができた。


「もう帰ろー」


 今日のマハノの態度があまりにもつまらなくてすぐに飽きたのだろう。角田ミサたちは、マハノをトイレに置き去りにするとさっさと帰って行った。

 全身水浸しのまま教室に戻るとまだ残っていたクラスメイトの視線が自分に集中する。マハノは周囲の視線を気にすることなく、鞄を持って教室を出た。

 やっと、放課後だ。と、マハノは逸る歩幅で、家ではなくあるところに向かった。

 昨夜から胸の中にある激情がそうさせていた。その激情は水を浴びせられても冷めることなく、いまもフツフツと煮えたぎっている。

 マハノの中にあるモノは、あの喫茶店の店主に対する、怒りだった。


(あの男は、大嘘つきだ)


 思えば、そもそも人の夢を喰う生き物なんているはずがないのだ。

 だからきっと、あの男はマハノに希望を見せて、絶望に突き落とそうとしたのに違いない。好い人そうな顔をして、腹の底はあの濃い隈のように黒く塗り固められていて、せせら笑っていたのだ。いままでマハノのいじめを見て見ぬフリしてきた担任や、クラスメイトたちみたいに。性質の悪い醜い性格をしているのだろう。

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