第三章/箱⑦


 ――先生、もう帰って。

 与野山マハノに再会してからもう五日間が経っていた。あれから汐見ユウリは、家から出ることなく引きこもりのような生活に逆戻りしていた。いや、前よりも酷いのかもしれない。部屋からもほとんど出ることなく、ご飯もお腹が空いてから食べて、あとはただ布団の中に潜り昼夜問わずに寝る。まるで体の中から大切なものが出て行ってしまったように、やけに軽く感じる体で、本当に自分は生きているのだろうかと疑ってしまうほどの時間が過ぎていた。

 トントン、と部屋の扉をノックする音で、ユウリは目を覚ました。

 ぼんやりとする視界が復活する間もなく声がかけられる。


「ユウリ。起きてるなら、昼ご飯ぐらい食べちゃいなさい」


 母親の声だ。


(もう昼か)


 何時に寝たのかは覚えていないが、もう昼の十二時を過ぎていた。

 何かに圧し掛かられているかのように重い体を動かし、のっそりとユウリは布団から這い出す。部屋の外が静かなのを確認してから部屋を出る。母親は声をかけに来ただけで、もうとっくに廊下にはいなかった。

 キッチンに入り何か簡単に食べられるものがないかと冷蔵庫を開くと、なかにはラップに包まれた炒飯があった。ラップには白い付箋で、「お腹が空いたら食べて」と書いてあった。母の字だ。父親は仕事で昼間は居ないので、おそらくユウリに宛てたものなのだろう。珍しい、とユウリは思った。引きこもりのような生活をはじめてから約二年間。最初の数カ月こそユウリの体調を心配して昼ご飯などの世話をしてきたが、何もしていないユウリ自身が母親のその行為に罪悪感を覚えて断った。それからは夕飯のおかずはついでだからと用意してくれるものの、朝や昼ご飯はもう勝手に食べちゃいなさいということになっていた。でも、これはたぶん、ユウリのぶんだ。

 電子レンジで炒飯を温めると、スプーンで一口食べた。

 ご飯こそ一回冷蔵している影響でパラパラ感がなくなりベタつきが多くなってしまっているが、塩コショウやガーリックパウダーなどの香辛料がしっかり効いて美味しかった。――いや、これはいささか効きすぎなのかもしれない。

 ちょっとしょっぱい。母親は料理が得意ではなく、たまに味付けをミスることがある。今回の炒飯も塩コショウの量が多く、ちょっとしょっぱかった。


「ははっ」


 小窓が空いているのか部屋のなかは寒い。そんな寒い空間で、温かい炒飯を食べている。しかも、しょっぱいやつ。

 だからきっと、鼻水や涙が出るのだ。寒いところで温かいご飯を食べると、よく鼻水や涙が出ることがあるし、きっとそう。

 最後の米粒まで逃さないように口のなかにかき込むと、お腹いっぱいなったユウリは手を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。


(今日は、久しぶりに、獏さんに会いに行こうかな)


 そう思ったら、すぐに会いたくなったので、食べ終えた食器を洗うと、ユウリは喫茶店『レーヴ』に向かった。



 カランコロン、と頭上で軽快な耳障りの好い音が鳴る。それを聞くのも、随分と久しぶりだ。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの向こう側に立っていた獏が、おやっとした顔になる。


「お久しぶりです、汐見ユウリさん」

「獏さん。お久しぶりです」


 久しぶりに見る獏は変わらずの巨体だった。毬藻のように丸く大きな体に、細い手足。毬藻にちょこんと乗っているかのような小さな顔。優しげに細められた瞳。笑みを刻む唇。それから、落ち着いた男性の声音。


「今日のご注文はどうなさいますか?」

「ミルクティー、いただけますか?」

「かしこまりました」


 注文の用意をするために、獏が背を向ける。

 その背中を見つめていると、バックルームの扉が開き、アスミが顔を出した。今日の彼女は三月にしては少し早い、桜色のワンピースを着ていた。春を先取りしているような服装だ。長い黒髪は後ろでひとつに結ばれている。


「いらっしゃいませ、こんにちは」


 そう言うと、アスミはユウリの傍までやってきた。


「こんにちは」


 ぎこちなく挨拶を返すと、ほほ笑みが返ってきた。

 アスミがユウリの隣の椅子に座る。


「ユメクイに悪夢を食べてもらいに来たの?」

「……」


 そういえばそこまで考えて、今日この喫茶店にやって来たわけではなかった。一度は自分の記憶を獏に食べてもらおうと決心していたユウリだが、間が悪く、記憶を食べてもらうタイミングを逃していた。

 今日こそ、獏に記憶を食べてもらってもいいかもしれない。

 ふっ、と脳裏に五日前に再会した、少女の姿が思い浮かぶ。


(彼女はあれからどうしたのだろうか)


 そんな疑問が浮かぶが、頭を振って外に追い払った。きっとユウリは、与野山マハノに嫌われている。だからもう会うことなく、嫌な記憶をすべて獏に食べてもらえば、また一から新たなスタートを切ることができる。だからきっと、そっちの方がいい。これ以上、母親に迷惑はかけられないのだから。


「うん。もうこの記憶は要らないから」

「本当にいいのね?」


 彼女はじっとユウリの目を見つめていた。その瞳は、何かを探っているようにも見えた。


「ユメクイに記憶を食べてもらった瑞浪カズトがどうなったのか、あなたも憶えているでしょう。たとえユメクイに記憶を食べてもらったところで、幸せになれるとは限らない。それでも、本当にいいのね?」


 諭すようなアスミの言葉に、ユウリは頷く。


「ええ、大丈夫」


 それに、とユウリは言葉を続けた。

 あの日。瑞浪カズトの試合を最後まで見ていたユウリには、ひとつの確信があった。カズトの失敗を見届けてから帰って行ったアスミの知らないことをユウリは知っている。

 失敗をして首を傾げたカズトはあの後――再び自分のポジションに飛んできたボールを、きっちり自分でキャッチしたのである。彼は嬉しそうに、野球が楽しくてたまらないといた顔で喜んでいた。そのボールをキャッチしたことにより戦況が大きく変わったのか、そのあとカズトの所属している少年野球チームは、相手に一点差をつけて勝利した。その結末を、ユウリは見ていた。

 だから、確信はある。

 獏に記憶を食べてもらったら、何かが変わる。それだけは、確かなのだから。


「私は変わりたいから」

「そう」


 アスミはユウリの顔から眼を逸らして、呟く。


「でも、それも叶わないわね。あなたはまだユメクイに記憶を食べてもらうことはできない」

「どうして?」


 どうしてそんなことが、彼女にわかるのだろうか?


「あたしはね、毎日、寝ている間に次の日の夢を見るの。予知、のようなものね。と言っても、夢の中で見る明日の記憶は、私の記憶だから、世界中の人間の明日まで見ることはできない。でも、これはあくまでの夢の話」


 アスミは再びユウリに目を向けた。


「こうやってあたしは、目を合わせた人の明日も視ることができるのよ。視られる明日の記憶は、あくまでも昨夜見た夢の延長線上の明日になるのだけれど」

「昨夜見た夢の延長線上? ということは、変わっている可能性もあるってこと?」

「そうね。未来なんてそんなものよ。あたしが視る未来は確定的なものではないから、あたしが少し働きかけたりしたら、簡単に未来は変えられるわ」


 どこか寂しげに、アスミは笑っていた。十歳の少女が浮かべるのには不相応な笑みだった。


「……私の、明日も視えたの?」

「ええ、視たわ」


 彼女のまあるい瞳に、吸い込まれそうになる。

 アスミはいたずらっぽくほほ笑んだ。


「でも、教えてあげない」

「どうして?」

「教えなくてもわかるからよ。どうしてあなたがまだ自分の記憶をユメクイに食べてもらえていないのか。これから五分もしないうちに理解するわ」


 コト、とユウリの前にマグカップが置かれる。湯気が立ち上っているそれからはいい香りが漂ってきた。久しぶりに嗅ぐ、獏の淹れたミルクティーの香り。


「お待たせいたしました」

「……じゃあ、あたしは部屋に戻るから。ユメクイ、今日の夕飯はなんでもいいわよ」

「わかったよ」


 立ち上がったアスミが、ふわりと桜色のスカートを翻しながら、バックルームに戻っていく。その後ろ姿を眺めている獏はどこか呆れたような顔をしていた。


「忙しなくて、すみません」

「い、いえ」

「で、今日は、どういったご用件ですか?」


 獏の言葉に、ユウリは答える前に、一口だけミルクティーを飲む。それから口を開いた。


「あの、私の記憶を――」


 カランコロン。入り口の扉が、勢いよく開く。

 タイミングが悪いことに、アスミが言っていた通り、今回もユウリの願いが叶うことはないらしい。

 振り返ると、そこにいたのはセーラー服姿の、ひとりの少女だった。

 セミロングの髪の毛はバサバサで、先っぽが濡れている。今日は雨が降っていなかったから、どこから水でもひっかけられたのだろうか。例えば、学校とかで……。

 だけどユウリが大きく目を見開いたのは、その濡れた全身を見たからではなかった。

 与野山マハノ。

 再会したあの日、突如目を見開いて叫び声をあげた彼女が、あの時と変わらない表情のまま、激しく獏をにらみつけていた。


「うそつき」


 低く唸るような声で吐き捨てて。


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