第三章/箱⑥
――もう、どうしてこれぐらいできないの?
――お母さん前に言ったよね。これぐらい自分でやってよ。
――ほんと役立たず。そういうところ、お父さんにそっくりで嫌いだわ。
ヒステリックに騒ぐ女の声が、頭の周りを行ったり来たりしている。耳を塞いでいるのに、その声は頭蓋骨まで震わせるほど激しく、与野山マリを襲ってくる。見えない声から逃れようともがいているうちに、マリは目を覚ました。
呆けたような顔で布団を畳み、仕事着に着替えて化粧をする。朝食は食べる気にはなれなかった。
「おはようございます」
夜にもかかわらず、お店での挨拶はいつもこれだ。先に来ていた自分よりも五歳は若い後輩が、にこやかに挨拶を返してくる。
「あれ? マリさん、眠れてないですか?」
「え?」
鏡に目を向けて、ハッとした。
化粧でうっすらとしているものの、目の下に黒い隈のようなものができていた。家の照明は薄暗いから気づかなかったのだろう。控室の明るい照明の下だと、目立って見える。
「今朝は寝るのが遅かったからかな。ええっと、コンシーラーはどこだっけ?」
鞄の中のポーチをあさる。常に持ち歩いている、スティックタイプのコンシーラーはすぐに見つかった。それでできる限り隈を隠す。
「今日は常連さんも来てるんですから。しっかりしてくださいよー」
ケラケラ笑い、後輩は店に出ていく。その姿は若さゆえの余裕が窺える。
無性にイラっとしたものの、これだとただの八つ当たりになってしまうと自分を戒めて、用意を終わらせるとマリはマリィとなって店に出た。
ここ数日ぐっすり眠れていないからか、出てきそうになったあくびを噛み殺す。
早朝になって仕事が終わると、マリは歩いて家に帰ることにした。いつもはタクシーで送ってもらうのだけれど、今日はいつもよりもお酒を飲んでしまい、早朝の冷たい風で酔いを醒ましたい気分だったのだ。
フラフラとした足取りで、マリは霧が立ち込めたような夜明けの道を、歩いて行く。
マリがいつもよりもお酒を飲んでいるのには訳があった。
ここ五日間、同じ夢を何度も見る。子供の頃、母親から虐待をされていた記憶。殴ったり蹴られたり、ご飯を食べさせてもらえなかったり――散々な思いをしてもう忘れていたと思っていた記憶が、毎日毎日夢に出てきて、こうして酔っているいまも思い出してしまう。
頭を振っても、思考を馬鹿にしても、忘れることができない。
それならいっそ、こんな記憶なんてなくなってしまえばいいのに。
(なんて、そんなことができたら、いままでだって苦労はしていないのよ)
そんなことを考えていたからだろうか。
マリは、気づいたら見たことのない商店街にいた。
(どうしてこんなところに?)
わけがわからないが、きっと酔っていて、道を間違えてしまったのだろう。
とりあえず商店街から出ようと歩き、ふとマリは横を見た。
霧が立ち込めているようなうすぼんやりとした空気のなか、浮かび上がっている喫茶店があった。しかもこんな夜明けだというのに照明が灯っている。
カランコロン、とマリの目の前で扉が開いた。
「あら、こんな早くからお客さまかしら。ようこそ、喫茶店『レーヴ』へ」
ふんわりと黄色いスカートの裾をつまみ、まだ十歳ほどの少女がお辞儀をして、出迎えてくれた。導かれるように、マリは喫茶店に入って行った。
◇◆◇
「獏さん。こんにちは」
「いらしゃいませ。与野山マハノさん」
毬藻みたいな巨体の上にちょこんと乗っているかのような顔が、軽くもたげてマハノを見る。にっこりと人の好さそうな笑みを浮かべているのに、目の下の濃い隈がその笑顔を台無しにしていた。
もったいない、とマハノは思う。
見た目こそ、初めて目にしたらあまりもの奇怪さに目を見開いてしまうかもしれないが、獏は温かく親切な人だ。何よりも獏の落ち着いた声音が良い。いまでこそ叫ぶことはなくなったが、荒れていたころの母親はマハノを叱りつけるとき、黒板に爪を奔らせたかのような金切り声を上げていた。耳の鼓膜を突き破らんとするばかりの叫び声だった。学校では角田ミサをはじめとした女子の、マハノを嘲笑う厭味ったらしい笑い声が常にまとわりついてくる。それらに比べたら、獏の声はとても落ち着いていて、相手を威圧するような感じがまったくないのも良かった。
彼の声をもっと聴いていたい。思わず、そう酔いしれてしまいそうになるような、声。
マハノは適当な話題でも振ろうと頭を悩ませていると、思い出したかのように、獏のほうから話を振られた。
「そういえば、今朝がた、与野山マリさんがこの喫茶店にいらっしゃいましたよ」
「え?」
突然のことに目をしばたたかせることしかできない。
パチパチと瞼どうしを打ちあわせているマハノをよそに、獏はそれはもう嬉しそうな顔で言った。見ているこちらがほっこりとするような笑みだった。
「与野山マハノさんがお願いしていた、記憶をお代としていただいたのです」
「え、本当ですか?」
「ええ、それはとても美味しい記憶でした」
「それって、ほんとに、お母さんが虐待をされていた記憶?」
「もちろんですよ」
願ってもなかった返答に、マハノは目を見開き、次第に口許に笑みを落としていく。
(これで、少しは変われるかもしれない)
マハノはいままで家で窮屈な生活を強いられていた。それは、いつ爆発するかわからない爆弾のような感情を持った母親が原因だった。
マハノは物心がつく前から、何かがあるたびに、ヒステリックに怒鳴った母親に叩かれたりご飯を抜きにさせられたことが何度かある。それでもマハノは何とか母親のご機嫌取りをしようと躍起になっていたのだが、それもあの日――小学三年生の頃、親友だった角田ミサから学校でいじめられるようになってから、自分の世界が――いや、自分の考えが変わったのだ。
いくら仲が良い親友だったとしても、たとえ血の繋がった家族だったとしても、そこにあるモノは一生ではない。
ヒステリックになった母が、荒く息を吐きながらブツブツと呟いていた言葉がいまでも耳に残っている。
「わたしは悪くないわたしは悪くない。だって、わたしの時はもっと酷かった。お母さんはわたしのことが大嫌いだったんだから。もっと酷くわたしのことをぶったし、丸一日ご飯を食べさせてくれないこともあった。わたしの時はもっと酷かったんだから、これぐらい平気よ」
いまになって思い返すと、それはなんと憐れな言葉だったのだろう。
自分が実の親からやられて嫌だった仕打ちを、自分がやられたことよりもたいしたことないと自分勝手な言い訳をして、自分の娘に同じことをする。もしかしたらマハノに対するものはマリが受けたものよりも優しかったのかもしれない。
けれど、それがどうしたというのだろうか。
マハノだって痛かった。嫌だった。お腹が空いた。
何度やめてと泣いても、マリはやめてくれなかった。
マリが落ち着いてきたのは、マハノが小学校五年生になった頃。それまでやっていた夜勤のパートを辞めたマリが、知人の紹介によりもう三十近いにも関わらずにキャバクラの仕事をはじめた。パートをしていたころよりも給料が良くなって生活が安定してきた影響により、マハノに対する仕打ちも少なくなった。けれどそれで生活が良くなったとは言えない。
夜の仕事をはじめてから、マリは酒に酔って帰ってくることが多くなった。特に嫌な客に当たったときは尋常ではないほど酔っていて、マハノの顔を見つけるとにらみつけてきたり、誰かと間違えているのか、暴言を吐いてきたり。ぐずぐずに泣き喚いたりすることが多くなった。
それでいつしかマハノは、なるべくマリの視界に入らないように、朝は早い時間から家を出て、マリの出勤時間を見計らない家に帰る生活をするようになった。
どうして自分はこんな生活をしているのか。
そう何度も考えて、ひとつだけ確かな原因があった。
それは、マリが自分の母親から虐待をされていたこと。
もし、マリが虐待をされていなければ自分の生活はいまとは全然ちがったのかもしれない。学校でいじめられることはなく、家で居心地の悪い思いもしていなかったのかもしれない。
だから、マハノは獏に頼んだのだ。
母親――与野山マリが虐待されていた記憶を食べてください――と。
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