第三章/箱⑤
大きく手が降り上げられるのが怖かった。それが振り下ろされると、痛いということを知っていたからだ。体が強張り、動くことも、悲鳴を上げることもできなくなる。動いても腕を引かれて正面に立たされるし、悲鳴を上げると「うるさい」といってよけいに強く平手打ちをされる。だから、ただ泣くことしかできなかった。
その仕打ちが理不尽なものだということを知ったのは、与野山マリが八歳になった頃だった。それまでは母親に叩かれる自分はとても悪い子なのだと、いけないことをしたから自分は叩かれるのだと、そう信じ込んでいた。だから学校の先生に痣のことを聞かれても、なんでもないと答えていた。だって悪いのは自分なのだから。
でもある日。ひどく疲れた顔をして、母親が返ってきた時。「おかえり」と声をかけたマリを見つけた瞬間、お腹を蹴られた。また自分は何か悪いことをしたのかもしれない。謝らなきゃと顔を上げたタイミングで、見下すような視線で母親に言われたのだ。
「その顔で、わたしを見るな」
その瞳には、自分の娘に向けるのには不相応なものが込められていた。憎悪や悪意。まるで悍ましいものを目にしたかのように目と眉は歪められ、マリには悪魔のようにしか思えなかった。マリは呼吸を忘れるほどの衝撃を味わった。咽かえって、正気に戻ってから、マリはやっと気づいたのだ。
母親に殴られたり蹴られたりしていたのは、自分が悪いことをしていたからではないのだと。
母親が自分を殴ったり蹴ったりするのは、ただマリのことを憎らしく思っていたからなのだと。
八歳になったマリは、溢れる涙とともにそれを悟った。
それからの日々は正直覚えていない。
なるべく母親の視界に入らないように、呼吸すら小さな音でするように心がけて、静かに静かに、部屋の片隅で暮らしていた。でも、母親からの暴力は高校生になってもなくならなかった。中学生になって制服がスカートになってからは、素肌などの見えるところに痣をつけられることはほとんど無くなったものの、それでも身体的だけではなく、精神的にもマリは消耗しきっていた。
だから高校生になってバイトができるようになると、家に帰ることなくバイトに全力を注ぎこみ、なるべく家に帰らなくても済むようになんやかんや嘘を並べたてて、ひとり暮らしの大学生の先輩の家に上がり込んで過ごした。その先輩とはその弾みで付き合い、高校を卒業する間際になるとお腹に赤ちゃんを身ごもった。だからそれをいいことに、彼に迫って無理やり結婚して、幸せな家庭を築いていくことを夢に見て、子供を産んだ。
だけど、それが間違いだった――。
「マリィちゃーん。どうしたのー?」
男の猫なで声で我に返ると、マリは営業スマイルを顔面に張り付けて首を振る。
「ごめんなさい、少しボーとしちゃって」
「何か悩みごとなら、おじさん訊くけど?」
「そんなんじゃないですよぉ。ちょっと、寝不足かなー」
「それなら今夜僕と一緒にどう」
このくそ親父が。そしりたくなるその気持ちを抑えて、「もーう。そう上手いこと言ってぇ。家に優しい奥さん待たせているくせにぃ」と営業トークで場を和ませる。
すると六十代の男性客は、まんざらでもないように、家内のノロケトークをし始めた。常連でいつもマリィ(マリの源氏名)を指名してくるこの客は、キャバクラにきては女にデレデレする女好きの癖にして、その実は妻一筋で自分の妻がどんなに素晴らしいかを永遠を話してくる屑野郎である。
そんなことを思いながらも、マリは笑顔で接する。これは仕事で、安月給で働いていたころに比べたら、貰える給金も段違いに多い。だからたとえ嫌な客だろうと、笑顔で取り繕わなければいけない。
またぼんやりとして昔のことを思いださないように、ここ数年で身に着けた営業トーク術で、場を沸かせたり、和ませたり、おもしろくもないのにクスクス笑ったり。
そんなこんなで早朝になると、マリは家に帰った。
玄関の扉を開けると、タイミングの悪いことに娘のマハノが靴を履いているところと鉢合わせた。
目が合った瞬間、マハノがあっと怯えたような顔をする。そしてそそくさと荷物を持って、マリの横を通りすぎて家を出ていく。まだ朝の六時だというのに随分と急いでいる様子である。
娘の怯えた顔にマリはイラっとしたものの、奥歯を噛み締めることで耐える。ここで手を出したり暴言を吐いたりすれば、自分の大っ嫌いな母親と同じになってしまう。それだけは嫌だった。たとえマハノがまだ幼い時に、彼女に対して酷い仕打ちをしてしまっていたとしても、いまはもうそんなことをするべきではないと思っている。あの頃はまだ幼いマハノを、頼れる親戚や友人もいないからひとりで育てていかなければいけなかった。子供を育てるにはお金もかかるし、満足な睡眠もとれないまま、育児と仕事に時間を割きながら生きていくので必死だった。家を出て行ったあの男――元旦那から養育費を小遣いばかりもらっていたけれど、それだけで生きていくことなんてとうてい困難だった。
必死で必死で――でもある日、とうとう限界が来て、三歳になっても泣いてばかりいる娘がうるさくて、思いっきり叩いてしまったことがある。あの時はすぐに冷静に戻り、涙をこぼしながらごめんねごめんねとたくさん謝って、娘の頬を優しく撫でてあげたのだけれど、その衝動はそれからも頻発した。
それから自己嫌悪と、自分の母親に対しての猜疑心にかられて、ますます自分を抑えることができなくなっていた。あの頃のマリは正気ではなかったのだ。
汗臭い男の匂いや、自分の濃い化粧、それから香水の匂いをお風呂で綺麗さっぱり洗い流すと、マリは六畳の部屋に布団を用意する。
毎日夜には出勤して朝方に帰ってきて寝る生活をしているマリにとって、この時間の睡眠は当たり前だった。
いつもは心身ともに疲れていてすぐに眠ってしまうのに、掛布団を被って、いざ寝ようと天井を見上げて――マリは目を瞑ることができなかった。
最近見る夢が原因だということは知っている。昔の夢。忘れたいのに、脳裏にこびりついてなかなか離れてくれない夢。幼いころに虐待されていた記憶。
そのせいで、今日も仕事中に昔のことを思い出し、客にいらぬ心配をかけさせてしまった。
夢なんて、目を覚ましたら忘れていることがほとんどなのに、その夢はいまでも思い出すことができる。――隈の濃い瞳とともに。
◇◆◇
与野山マハノは今日も喫茶店『レーヴ』を訪れていた。あれから三日間、学校帰りに店に寄っているのに、汐見ユウリの姿は見かけなかった。店主の獏の話では、ユウリはあれ以来店に訪れていないようである。
言い過ぎたかな、と思いながらも、自分の醜態を晒してしまった彼女に会わせる顔なんてないものだから、安堵しているい自分がいた。
いつも通りココアを頼みカウンター席に頬杖をつきながら、左側の壁にある壁掛け時計を見つめる。その時計は振り子がないのに、今日もタン、タタンと音を鳴らして動いている。時刻は夕方の五時を示しているようだ。そろそろ母の出勤の時間なので、家に帰る頃合いなのかもしれない。
その前に、マハノは今日も今日とて同じようなことを店主に問いかける。
「ほんとに、お母さんのことは上手くいってるんですか?」
「もちろんです。まだあと二日はかかるかと思いますが」
「ふーん。でも、どういうことをしているのかは教えてくれないんですね」
「それは本人の記憶ですから。たとえ家族からのお願いでも、そうやすやすと答えることはできません」
ふーん、とマハノはもう一度口に出して言う。
母親が幼少期に虐待をされていたことを知ったのは、自分が小学校五年生になったころだ。まだパートでお金を稼いでいていた母親は、その頃はいまのように余裕のない顔をしていることが多かったと思う。だからたまに頬を叩かれたことがある。それも一度や二度ではなく、何度でも。そんなある日に、母親がぼそりと言ったのだ。
「自分の時はもっと酷かったんだから。これぐらい、躾けよ」
その言葉で、マハノは自分の母親が親から虐待をされていたことを知った。知ってしまった。
奥歯を噛みしめて、マハノは立ち上がる。ココアは底の黒い部分を残し、もう飲み干していた。
「帰ります」
ココア代を机の上に置くと、カランコロンと音が鳴る扉を潜って、マハノは外に出た。
◇◆◇
そのマハノの後ろ姿を獏は静かな眼差しで見送った。
バックルームからアスミが顔を出すと、獏の許までやってくる。
「で、どうするの。あんた、あの子の記憶が目当てだったんじゃないの? だからここに来たんでしょ? それなのに、母親の記憶ってどういうことよ」
「それが彼女の望みだからね」
「ふーん。そんなことを言って、まーた悪巧みをしているのでしょう?」
どうだろうね、とユメクイは肩をすくめる。
獏のこととなると疑り深くなるアスミが簡単に自分の言葉を信じてくれるとは思えないが、いまの獏にはそう言っておくことしかできなかった。
「もうすぐ夕飯の時間だけど、何が食べたい?」
「じゃあ、ハンバーグ」
こういうところは子供だと、獏は微笑ましく思う。アスミは獏と一緒に夢の世界で暮らしている影響で、十歳ほどの少女の姿から歳をとることはない。現の世界に出かけている時間は成長に影響を与えるので少しぐらいなら成長しているのかもしれないけれど、初めて会ったときから彼女の姿は変わっていないので、見た目はまだ幼い少女だ。アスミとはかれこれ七十年は一緒に暮らしている。もし、アスミが現にずっと住んでいたら、いまごろ八十歳になっていてもおかしくはない。本人は自分の容姿と年齢について「子供っぽくて舐められるわ」とコンプレックスを持っているようだけれど。
今日はもう来店はないからと扉に錠をかけて、店の電気を消すと、獏は先ほどまでカウンターにいた少女のことを思う。
そして、ぼそりと呟いた。
「人間の家族って不思議だよね」
「何か言った?」
その獏の言葉を目ざとく拾い、アスミが近寄ってくる。
「いや、家族って不思議だよね、って」
「どういうこと?」
「家族って、家庭という箱の中にあるものだろ。それもこぢんまりとした、外側からは見えない鎖でがんじがらめにされて蓋をされている箱。透明なケースでもいいかもね」
獏は少し前に、汐見ユウリの夢の中で見た透明な箱を思い出し、それを家庭と例えることにした。
「その箱の中にいる限り、妻も夫も、それから子供だって簡単に外へ出られない作りになっている。ある種の密室なのかもしれないね。施錠する鎖がなくたって、その箱のなかで世界はいくらでも作り出すことができる」
自分の口角が上がっている感覚に気づいた。
悪い癖だ。自分の顔がアスミから見えないように、暗闇を見据える。
「親もそうだけど、とくに子供はその箱のなかがすべてなんだ。ここから出ても、自分は生きていけない。親がいなければご飯が食べられないし、服もおもちゃも買えない。だからたとえ親が人でなしだったとしても、親の言うことを聞かなければいけない。だれからも教わることなく子供は自然とそう学ぶ。出口のない見えない箱からは逃げられないからね」
暗闇の中、白くうすぼんやりとした、振り子時計を獏は見つめていた。
そうね、と呟くようなアスミの声。
「箱の中でどんなに酷いことが起こっていたとしても、周囲の人間は気づかない。だから何かあった時に、あの家庭は仲が良さそうだったとか、両親は良い人だったとか、そういう当たり障りのないことしか言えないのね。透明でも、家庭の箱の中身を見ることなんて、他人にはできないもの」
笑みを消してアスミを見ると、彼女は俯いていた。その顔はどこか悲しげだった。
「そうだね。そう考えると、人間の家庭というものは残酷なものだよね。こぢんまりとした箱の中に押しこめられて、よく生きていけるなぁ、と僕は思うよ。息苦しくはないのかな」
「……ユメクイ。戯言はそれぐらいにして。あたしはお腹がすいたわ」
「そうだね。すぐハンバーグの準備をするよ」
ニコリと笑い、獏はキッチンに向かう。
(でも、そんな残酷な家庭では、悪夢が良く育つ。僕はそれを愉しみにしているのだけれどね)
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