第三章/箱④
「おかわりはいかがですか?」
カランコロンと、扉が忙しなく閉じる音を聞き届けると、落ち着いた声音で訊ねられた。マハノはゆっくりと頷く。
「かしこまりました」
静かな店内には、タン、タタン、と秒針の鳴る時計の音と、店主がココアを淹れる音がBGMのように流れている。
マハノは逃れるように耳を抑えると、また軽くため息を吐いた。
(またやってしまった)
これでは、まるでヒステリックに喚き散らす、あの女のようだ。自分の中にその女の遺伝子があることを告げてくるようで憎らしくて、悲しくなる。
汐見ユウリに対して見せてしまった自分の醜態を思い出し、恥ずかしさと妬ましさと、それから悍ましさから、マハノは椅子の上に体育座りをするように腰かけると顔を覆った。
「ココアです」
マグカップの置かれる音にも、マハノは顔を上げない。
「お客さま、だいじょうぶですか?」
落ち着いた店主の声に、マハノは首だけを横に振る。
「……温かいうちにお飲みください」
それっきり、店主も黙ってしまった。
五分ほどそうしていただろうか、先ほどの店主の言葉を思い出し、そろそろとマハノは体を紐解くように伸ばすと、もうすでに湯気の立ち上っていないココアを一口飲む。冷たくはないものの温かくもない。体が温まらない。
マグカップを置くタイミングを見計らったかのように、黙っていた店主が口を開いた。
「何か悩みごとですか?」
「……そんなものじゃないです」
悩み、と簡単に一括りにできるものをマハノは持っていない。
マハノのなかにあるものは、そんな生易しいものではなく、頭の奥底を黒く塗り固めたような、黒い靄ばかりでできているかのような、言葉に表そうにも陳腐な言葉にしかならないようなものだった。
マハノは小学生のころからいじめられている。
いじめがはじまったのは、彼女が小学三年生になり、周りの子供たちに知恵がつきはじめた頃だった。
それまでマハノは一緒に遊ぶ友だちや、体育の授業で一緒に組むクラスメイトも当然としていた。その日常が終わったのは、ある日クラスで起こった出来事がきっかけ。
マハノには、保育園の頃から一緒に登下校をしたり、遊んだりする友人がいた。友人の名前は角田ミサ。ミサはいまほど堂々としておらず、マハノと同じぐらいおとなしい少女だった。
物心がついたときにはもうすでにいなかった父、女手ひとつでマハノを育てる母。その事情を、ミサは理解したうえで、マハノと親しくしてくれていた。
それが変わったのは、ほんの些細なことだった。少なくともマハノにとってはそうで、きっとミサにとっては重要だったこと。
マハノはお世辞でも綺麗な服というものを着ていなかった。穴が空いていたり、ほつれていたり、貧乏だったからそんな服しか着られなかったし、何よりも週に一回ぐらいしか洗濯をしてくれなかったから、洗濯してない服を連続して着て、ときたま鼻につく匂いがあった。その匂いを、クラスの男子にバカにされた。
『くさいくさい。匂うぞ、匂うぞ』
その男子にミサは言い返したのだが、男子はミサにこう言った。
『おまえもくさいぞ。匂いが移ったんじゃねぇの?』
その次の日から、ミサはマハノを避けるようになった。
そして気づいたときにはもう、始まっていた。
『くっさぁーい。近寄らないでよ、貧乏人』
鼻をつまみ言い放ったミサのその言葉を、いまでもたまに思い出す。
思いっきり奥歯を噛みしめて、湧き上がってくる気持ちを押しとどめる。
その様子を、店主はじっと見つめているようだった。その隈の濃い瞳をマハノは見返した。
しばらく見つめ合っていると、ポツリ、と店主が言葉を漏らした。
「……美味しそうだね」
「え、なんですか?」
「ああ、いえ。そのフレンチトースト。すっかり冷めてしまっているので、温めたほうが美味しくなるのかな、と考えていまして」
店主はわざとらしく咳ばらいをした。
「すぐ食べるからいい」
マハノはそこまで食に対して頓着はなかった。床に落ちたパンを食べさせられたこともある。それに比べたら、冷たいだけのフレンチトーストは充分に美味しそうだった。
二切れあるフレンチトーストの一切れをつまみ、口に運ぶ。冷めていて、本来あるはずのバターの香りはほとんどなかったけれど、味はやはり充分に美味しかった。
それからマハノは壁掛け時計を見て、店主に訊ねる。
「あの、ずっと気になっていたんですけど、あの時計はなんですか?」
カウンターの椅子に腰かけているマハノから見て左側――店主から見ると右側の壁にある、振り子のない壁掛け時計を指さすと、店主は人形のように首を折り曲げてから、答える。
「ただの時計ですよ」
「でも、振り子時計のはずなのに、振り子がないのに動いていますよ?」
ああ、と店主は寝物語を聞かせる親のような顔で、絵本でも広げるかのように細い手を広げた。
「あれは特別製の時計なんです。振り子時計に見えますが、普通の壁掛け時計と同様電池で動いているんですよ。だから振り子は必要ないんです」
納得したマハノに、店主はさらに言う。
「それにあの時計は、この喫茶店の外側――あなたたちのいる現の時刻を示しています」
「え、どういう意味ですか?」
店主の言葉づかいだと、まるでこの喫茶店は現実とは違うところにあるということになってしまう。
「この喫茶店は、人間の住む現の世界と、その人間の見る夢の世界との境目にある、夢現の場所にあるのです。だから、現にあるはずの時間は、この喫茶店にはありません」
現の世界と、夢の世界?
夢現? どういうことなのだろうか。
すぐには理解できずに疑問符を浮かべていると、店主はあっさりと自分の秘密(もしかしたら彼にとっては秘密ではないこと)を口にするのだった。
「僕は人間ではなく、獏なんです。人間が必要とする食事が要らない代わりに、人間の夢を食べて生きています」
到底信じられる話ではない。
疑り深い性分のマハノは、獏と名乗った大男の言葉をすぐには信じなかった。
でもいま一度獏の姿を見上げる。
動くのが大変そうな毬藻みたいな巨体に、細く長い手足、それからちょこんと乗っかっただけのような小さな顔。優しそうな笑みを浮かべながらも、目の下に濃く塗り固められたような隈。
一見すると目を剥いてしまう姿も、慣れてくるとその落ち着いた口調から、悪い人ではないのだと思わされる。
「じゃあ、もしここが夢の世界なんだとすると、獏さんのその姿は作り物だったりするんですか?」
夢というものは幻覚のようなものだ。たとえば夢の中で料理をしている人物を俯瞰してみていたと思ったら、次の瞬間その料理をしている人物が自分になっている場合がある。そしてまるで図ったかのように、冷蔵庫の中から卵がなくなり、お玉を落とし、食材が足りないからと買い物に行こうとスーパーに向かったはずなのに、食材とは全く関係のない図書館で本を読んでいたりする。
夢の中は自由だ。自分の姿や形でさえ、いくらでも偽ることができる。
それに獏の姿はあまりにも奇妙で、マハノが訝しむのも無理はなかった。
「……ええ、そうですね。ただ、もうこれ以外の姿を模ることが僕にはできなくなっていますが」
「ふーん。なんで、ですか?」
鼻を鳴らすように、訊く。
「そうですね。正直に言うと、僕のこの姿はとある少女の夢の世界にいた、獏の姿を模したものなのです。いまの僕はそれを借り受けた姿をしているのですが、彼女と長い間いっしょにいる影響が強いからですかね。なかなか別の姿を思い描くことができないでいるんです」
とある少女?
すぐにマハノは、その少女が誰なのかがわかった。
「それって、アスミちゃんですか?」
「……ふふ、そうですね。ここまで言うと、さすがに分かりますよね。ええ、そうです。アスミは人間ですが、特殊な夢を見るので、それを目当てで一緒にいる、と言った感じですかね」
「正解とは言えないわ」
割って入る声は、幼い少女の声だった。
長い黒髪の美しい少女は、口を尖らせた不機嫌そうな面をして、獏をにらみつけている。
「そいつは確かにあたしの記憶が目当てて一緒にいるけれど、あたしがユメクイと一緒にいるのは、また別の理由よ」
「じゃあ、それは何なの?」
マハノがそう問いかけると、「あなたには関係ない」と言ってアスミはまたバックルームに戻って行ってしまった。
その後ろ姿を細めた眼で眺めていた獏が、マハノに向き直る。
「少し、秘密を話しすぎてしまいましたね」
獏の言葉に、マハノは意地悪く笑う。
「秘密と言っている割に、随分とあっさり暴露してましたよね」
「なかなか隠し事ができない性格をしているので」
獏の人の好さそうな顔をじっと見て、マハノはいまの店主の言葉を信じることにした。
残りのフレンチトーストを口のなかに押しこみ、すっかり冷めてしまったココアをマグカップをぐるぐるさせてかき混ぜて、底に溜まった黒いのを残し、飲む。
それから口を開いた。
「獏さんが夢の世界の住人なんだとすると、なんでこんな夢現のところで喫茶店をやっているんですか?」
「僕は獏――人間の悪夢を食べる生き物ですから。人間の要らない記憶をお代としていただくために、喫茶店をしています」
僕は夢を食べないと死んでしまいますからね、という獏の言葉は落ち着いていて、とても嘘を吐いているようにも、冗談を言っているような口調でもなかった。
「人間の要らない記憶……。獏さんは、悪夢を食べるんですか?」
「ええ。一番多いのは、悪夢です。ですが、悪夢以外でも、その人自身が要らないと思った記憶であれば、なんでも食べられますよ」
「そう、なんだ」
マハノは軽く親指の爪を噛んだ。迷っているとき、マハノは爪を噛む癖がある。
「ほんとに、なんでも食べられるんですか?」
「もちろんです。些細な記憶から、大きな記憶まで。……ああ、でもその人自身が憶えていない記憶は、難しいですね。無意識に憶えていたら可能ですが、もうすっかり忘れてしまっている記憶……そうですね、例えば赤子の頃の記憶とかだと不可能です」
「でも、憶えている記憶なら、なんでも食べられるんですよね?」
「ええ、もちろんです」
目をキュッと細めて笑う獏の目から視線を逸らし、爪のかわりに指先を甘噛みして気持ちを落ち着けると、マハノは視線をカラになったマグカップに落としながら言った。カップの底には黒いのが残っている。
「なら、あたしのお母さんが、虐待されていた記憶とかも、可能ですか?」
獏は驚いたように目を見開き、すぐに元に戻した。
「ええ、本人がお望みであれば、可能ですよ」
「そうですか。それなら、どうにかお母さんを説得して、記憶を食べちゃってください」
「僕にできることであれば。……でも、よろしいのですか? 与野山さんにも、僕に食べてほしい記憶があるのではないですか?」
首を傾げながらの獏の言葉に、マハノは口を噤む。
タン、タタン、と静かになった店内に振り子のない壁掛け時計の針の音が鳴る。
マハノは軽く唇を噛むと、それから口を開いた。
「ありません。たとえあたしのこの嫌な記憶を食べてもらったところで、あたしの境遇が変わるわけではないんですから。あたしの記憶を食べてもらうより、お母さんの記憶を食べてもらうほうが、よっぽどいいです」
それで、すこしでも家での生活が楽になるのなら。
獏は納得をした顔つきになった。
「かしこまりました。では、与野山さんのお母さんの説得に、しばらく時間を頂きます。ざっと五日ほど、ですかね」
「なるべく早めにお願いします」
毬藻の上にちょこんと乗っているような頭をもたげ、頷く獏。
それからしばらく獏と適当な話をして時間を稼ぎ、午後六時になるとマハノは家に帰った。
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