第三章/箱③
思い出したくもない記憶が溢れてくる。せっかく過去の記憶を消してもらおうとこの喫茶店を訪れたのに、どうしてこんなところで与野山マハノに再会してしまうのだろうか。
彼女の姿を見ていられなくなった汐見ユウリは、逃げるように喫茶店から出ようとした。
「先生」
呼び止められて、扉を開こうとした手が止まる。
「いま暇でしたら、少し話しませんか?」
ほとんど引きこもりのような生活をしているユウリに、暇じゃない時間なんてなかった。しかも誘ってきている相手がユウリのトラウマの原因のひとつである、与野山マハノである。だというのに、彼女の誘いを断ることがユウリにはどうしてもできなかった。
カウンターに腰かけると、「ミルクティーでいいですか?」と獏に聞かれて、ユウリは小さく頷く。
マハノとの間には椅子がふたつ、ある。
「先生、お元気ですか?」
静かに首を振る。
「与野山さんは、どうなの?」
「あたしは、普通ですね。別に、普段通りです」
それは、もしかしていまも……。
問いは口から出ることなく、ユウリは黙り込んだ。
そのユウリの声なき問いに、マハノは片方の口角を上げながら言った。
「普段通り、前と変わりませんよ。いまも、あたしはいじめられています」
あっさりと告げられた言葉に、ユウリの中に衝撃が走る。
それを知りながらも嘲笑っているのか、マハノは笑みの形に刻んだ口許のまま、あの時ユウリを突き放したような瞳で、目の前にいる何かをにらんでいた。実際にその瞳の先にあるのは机だけで、タイミングよくフレンチトーストの載った皿と、茶色い液体の入ったマグカップが机の上に置かれた。
「お待たせいたしました。ご注文の当店いちばんお安い軽食です。飲み物はセールなのでサービスです」
獏の言葉に、マハノは一瞬だけ笑みを消すと、湯気が立ち上っているマグカップに口をつける。
「ココア、ですか」
「疲れていらっしゃるようですので、甘いものをと思いまして」
「ありがとうございます」
マハノはゆっくりとココアを飲む。
喉を潤してから彼女は顔を上げると、「で、なんでしたっけ?」とユウリの方を向き、会話を再開する。フレンチトーストにはまだ手を付けないようだ。
「ああ、あたしが学校でいじめられている話でしたか。それは、先生もご存知でしょうから、改めていう必要はないですね」
「あれから……まだ学校には、行っているの?」
「当たり前じゃないですか。中学は義務教育なんですよ? まあ、あと一か月もしないうちに卒業だけど」
中学校は三月の中旬に卒業式がある。
マハノは、あと一か月も、あの地獄を耐え抜くつもりなのだろうか。いや、ユウリが退職してから二年以上も月日が経っているのだ。その間、彼女はずっと耐えていたはず。
「角田さんたちとは、クラスは別?」
「三年間いっしょですよ。くだらないほど不運な偶然ですよねぇ」
あはは、と場を和ませるつもりなんて微塵も感じられない乾いた笑い声を上げる、マハノ。
痛々しい笑みからユウリは視線を逸らした。
自分は彼女には何もしてあげられなかった。あの頃、いじめられているこの子を助けようとしたら、ユウリまで生徒たちの標的になってしまった。そのことを思いだし、悔しさと、自身の愚かしさに唇を軽く噛む。
ユウリは逃げ出したのだ。マハノに言われた言葉がきっかけだったとしても、教室に居場所のないマハノをひとり残して、ユウリは学校から逃げた。
そんなユウリを、マハノはどう思っているのだろうか?
「役立たず」
低くささやかれるような言葉に、ユウリはハッと顔を上げる。
「役立たずだと思われているんじゃないかって、考えています?」
マハノはユウリを見ていた。
「先生は、そんなんじゃないですよ」
「それはどういう……」
「だって、先生、あの時あたしを助けてくれたじゃないですか。おなかを蹴られて動けなくなっていたあたしを、先生は助けてくれたんです。アレには、感謝してるんですよ? だってあたし、あの日は少しだけ嬉しかったんですから」
でも、とマハノはやはり片方の口角だけを上げた笑みのまま、冷ややかな眼差しをしていた。
ココアの入ったコップを包み込むようにして持ち、一口飲むと、とうとうマハノは笑みを消した。
「でも、先生は馬鹿だったんです。いじめを軽く見すぎていたんですよ。いじめって、大人が駄目だって言ってもなくならないんですよ? だって子供なんて大人を馬鹿にして生きているんだから、当事者でもない大人が止めたところで、いじめはなくならないんです。実際、先生もそうだったでしょ?」
そうだ。いじめを止めようとマハノを庇ったユウリは、次の日から生徒たちの標的にされてしまった。悪意ある子供の刃は、容易くユウリを傷つけ、立ち直れなくなる傷を与えてきた。
学校を辞めてからの散々な日々を思い出す。
就職先が決まるまでコンビニでアルバイトをはじめたユウリは、中学生ぐらいの女子の笑い声を聞いただけで、拒否反応からの嘔吐をしてしまい、バイトはすぐに辞めることになった。
そのあと接客以外のバイトをしようとしても、道路を歩いているだけで女子中学生とは何度もすれ違う。その度にユウリはトラウマを思い出してしまい、だんだんと外出することに恐怖を覚えるようになった。それ以来、仕事もせずに引きこもりのような生活を続けている。
もしも、あのとき与野山マハノを助けていなかったら、ユウリはどうなっていたのだろうか?
そう何度も妄想したことはある。
けれど、当時のユウリはまだ何も知らなかったのだ。子供たちの怖ろしさを。自分の無力さを。いじめなんて、教師である大人が注意したら、なくなるものだと思っていた。そんなに生易しいものじゃないというのに。
「先生。あたしを助けたこと、後悔していますか?」
「……ッ」
首を振ろうとして、できなかった。
「やっぱり、先生は馬鹿です。あたしなんて、助けなければよかったのに。そうしたら、そこまで先生が苦しむ必要もなかったんですよ?」
「……でも」
言い返す言葉が思いつかない。
どうせなら、役立たずだって言ってくれたほうがましだった。ユウリは彼女に何もしてあげられなかったどころか、彼女をよけいに傷つけてしまった。苦しんでいるのはユウリだけではない、彼女も同じ……いや、彼女のほうが計り知れないほどの苦しみを背負っているはずだ。それなのに、ユウリはひとりで逃げ出した。
「ごめんね」
「謝らないでくださいよ、先生」
「でも、私はあなたに何もしてあげられなかった。だから、ごめんなさい」
「あたしは何も頼んでないじゃないですか。それなのに謝るのはおかしいですよ」
「でも……ごめん、なさい」
「謝るな!」
突然の大声と、頭上に降りかかった温かいものに、ユウリは大きく目を見開いた。
肩で激しく息をしているマハノは、いままでユウリに見せたことのない顔をしていた。
彼女は、中身がカラになったマグカップを机の上に置くと、盛大なため息を吐く。
「すみません。先生、もう帰って」
啞然とするユウリに、獏が白いおしぼりを渡してくる。
ユウリはおしぼりを受け取ると、震える足で立ち上がり、与野山マハノの前からまた逃げ出したのだった。
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