第三章/箱②


 与野山マハノは憂鬱だった。

 なにが憂鬱なのかといえば、日曜日は学校がない。だったら友だちと遊ぶなり、家でごろごろするなりすればいい。そう言われてしまうかもしれないが、マハノに遊ぶような友だちはおらず、昼間の家には夜の仕事をしている母が眠っているのでその邪魔をするわけにもいかない。だから学校が休みの日は、暇をつぶすために街の中を彷徨っていることぐらいしかできない。

 マハノは通っている中学校の制服を着ていた。黒に近い濃紺色のセーラーに、濃紺色のスカート。中学に入学したら成長期が着て身長が伸びるはずだからと進められるがまま買ったのだが、あいにくとマハノの身長はほとんど伸びることがなく、スカートの裾は校則で決められた膝下三センチを上回る長さのままだった。

 中学の制服を着ているのに、マハノは学校が嫌いである。それなのにどうして休みの日まで制服を着ているのかというと、マハノは私服を持っていない。小学校の頃から着ているボロボロの幼い服しかなく、外に出るときは基本的に学校の制服を着る以外の選択肢がないだけで、けっしてこの制服に愛着を持っているわけではない。

 ふと、視界にスーパーの看板が目に入った。お腹の空いていたマハノは、そこで適当に昼ご飯を見繕うことにした。

 買い物かごを持つことなく、野菜コーナーや鮮魚コーナーには目もくれず、マハノは一直線に総菜コーナーに向かった。ちょうどタイムセールをしているのか、パックに出来立てというシールの貼ってあるふたつ入りのコロッケがあった。値段もお手頃だ。

 それを手に取ろうとして、近くから響いた幼い少女の声にマハノは動きを止めた。


「ママ、これ買って!」

「もうっ。いつもそう言って、買っても食べないじゃない。こっちにしなさい。こっちなら食べられるでしょ?」

「いーやーだー。こーれーがーいーいー!」

「もう、わがまま言わないの!」


 三十代前半ほどの母親と、三歳ぐらいの娘が言い合いをしていた。母親の少し疲れた顔からは、目に入ったものを欲しがる子供のよくわからないわがままにいつも振り回されているのが伝わってくる。子供とはそう言うものだ。ほしいと思ったものを、ほしいと言う。

 だけど自分はどうだったのだろう?

 三歳と言えばまだ物心づく前だ。だから当然記憶にはなく、自分の一番古い記憶を思い起そうとして、マハノは唇を噛みしめた。

 まだ言い合いをしている母娘(おやこ)を尻目に、マハノは居てもたってもいられずに何も買うことなくスーパーを後にした。


(わがままが言えるだけまし)


 自分にはそのわがままさえ口にすることはできなかったのだから。それに比べたらあの女の子は、わがままを聞いてくれて、諭してくれる親がいるだけましなのだろう。

 あの少女が羨ましい。そんなことを考える自分に、苛立ちが募っていく。


(もう無理なのに)


 マハノは前をにらみつけるように、歩いた。


(どう願ったって、変わらないんだから)


 世界を憎むような眼で、前をにらんでいた。もはやマハノには、視界に映るものすべてが敵にしか思えずに、痛みを刻むようにまた唇を噛んだ。

 くーきゅるる、と自分のお腹が鳴る音で、マハノはハッと正気に戻る。

 昼ご飯を抜くことなんて学校生活で慣れきっているのに、マハノと違ってマハノのお腹は正直だ。休みの日ぐらい、昼ご飯を食べさせてやってもいいかもしれない。

 そう思ったマハノは周囲を見渡して、すぐに「どこ?」と首を傾げた。

 そこは見知らぬところだった。かろうじて、商店街だということはわかる。でも、マハノ以外の人の気配はまったくなかった。しん、とした静けさに、どこか知らない世界にひとりぼっちで取り残された気持ちを味わう。

 それもいいかもしれない、とマハノは思った。ひとりでいたら、煩わしい学校生活とも、ギスギスした母親との生活ともおさらばできる。

 それならそっちのほうが充分、幸せになれる気がする。

 マハノのお腹はいまだに鳴り続けている。ひとりの世界でも、ご飯はきちんと食べないと生きていけなさそうだ。それなら、まずは適当にそこら辺の店をあさって腹ごなしでもしよう。

 そう決めたマハノは、さっそく視界に入った建物に眼をつけた。もしかしたらマハノは空腹から頭がおかしくなっていたのかもしれないが、このときのマハノにとってこの世界は何をしても許されるところだった。例えば、お腹がすいているのだから店からご飯を盗み出すことも許される。

 でも、そこハッとマハノは過去の記憶を思い出していた。

 小学一年生の頃、一晩経っても母親が返ってこないで丸一日何も食べなかった日があった。その日に限って家には食べられそうなものがなく、あまりもの空腹からマハノはコンビニでパンを万引きしようとした。でもすぐに捕まってしまい、母親の仕事場に連絡を入れることになった。そうしたら慌てて飛んできた母親に、怒鳴りつけられながら思いっきり頬をぶたれたのだ。酷い空腹よりも、その痛みのほうが鮮明に記憶に残っている。いまでもぶたれたときの感覚が思い起こせる。


(でもここには、あたしがひとり)


 ほかに見ている人なんて誰もいないのだから、何をしても咎められることはない。

 マハノは過去の記憶に負けじと、建物に近づく。近づいてから、そこが喫茶店だということに気づいた。まだ真新しい建物には、「開店セール」とでかでかとしたポスターが窓ガラスのいたるところに貼られてある。店名には興味がないので、マハノはすぐさま扉を開けた。

 カランコロンと、頭上で入店を告げる小気味好い音が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 続いた男性の落ち着いた声に、マハノは一気に現実に引き戻される。

 大きな男がいた。毬藻みたいに真ん丸な巨体に反して、手足は細く、小さな顔はまるでただ胴体にちょこんと乗せているかのような、奇妙な姿の男が。

 でもその姿に驚くよりも、自分がいるのがひとりの世界ではなかったことを、マハノはとても残念に思った。

 けれどすぐに思考を切り替える。この店にきちんと店主がいるのなら、自分はきちんと客としてふるまおう。喫茶店なら、何か安く食べられるものがあるかもしれないし。

 マハノは迷うことなくカウンターの椅子に腰かけた。


「ご注文は?」


 巨体の店主を見上げ、マハノはそっけなく小声で言った。


「安くて、美味しいのを」


 店主は隈の濃い瞳を細め、にっこりと笑う。


「かしこまりました」


 それにしてもここはどんな店なのだろうか。マハノは店内を見渡して、カウンターから見て右――マハノから見て左側の壁にある壁掛け時計に気づいた。本来振り子があるところには何もないのに、タン、タタン、と音を立てて秒針が動いている。時刻も、ぴったりといまの時間を示しているようだ。


(まだ十二時半か)


 夜の仕事をしている母が出勤するまで、まだ十分すぎるほどの時間がある。

 ひとりの世界ではなかったけれど、この喫茶店で数時間ぐらい過ごしてみてもいいいかもしれない。

 カランコロンという来店を告げる合図に、店主が顔を上げる。


「アスミ。おかえり」


 いらっしゃいませではない言葉に、マハノは首だけで振り返った。


「あ、新しいお客さまがいるのね。いらっしゃいませ」


 かわいらしい少女だった。無地の白いワンピースに、糸のように細く赤いリボンが躍っている。赤いパンプスを揃え、彼女はスカートの裾をつまむと、どこか遠くの国の令嬢のようなお辞儀をした。マハノも、軽く頭を下げる。

 アスミと呼ばれた少女は、そのままカウンターの中に入っていくと、店主に「飲み物をちょうだい!」と言ってからバックルームに入っていった。先ほどの店主の言葉から察するに、ここは少女の家でもあるらしい。

 タン、タタン、とオーダーがくるまで、マハノは時計の音を聞く。

 しばらくして、カランコロンと、入り口の鈴がまた鳴った。


「いらっしゃいませ」


 店主の言葉に、今度こそ自分以外の客が入ってきたことに、マハノは気づく。

 この変わった店主のいる喫茶店に来る客はどういう人なのだろうか、とちょっとした好奇心からマハノは振り返り、そこで息を止めた。


「先生?」


 呼びかけると、あの頃浮かべていたはずの笑顔をどこかに失ってしまったのか、すっかり暗い表情かおをした女性が、ハッと口に手を持っていき、震える声を出した。


「与野山さん」


 マハノは逸る鼓動を落ち着けながら、彼女にぎこちない笑みを向ける。


「お久しぶりです、先生」


 会いたくて、でも、会いたくなかった人。

 思わぬ再会に、マハノはどんな顔をすればいいのかがわからないでいた。

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