第三章/箱①
汐見ユウリは、暗い暗い、闇の中にいた。
ペタリペタリ、暗闇の空間に、何かを触る自分の音が低く響く。
これは、なんなのだろうか。
掌で周囲の空間を触る。
次第にユウリはわかってきた。
これは、箱だ。
黒い箱だろうか? いや、もしかしたら、黒い空間にある透明な箱なのかもしれない。
でも、確かなことは、自分はその箱の中に閉じ込められているということ。
この箱からでなければともがくが、腕や足は壁にぶちあたるだけでうまくいかない。
箱なら蓋があるはずだと飛び上がるけれど、見えないモノにぶち当たるだけで、外に出られそうなところは見当たらなかった。
この箱はなんなのだろうか。このままこの箱に閉じ込められていたら、酸素がなくなって、窒息してしまうのではないのだろうか。――そんなことを考えてしまったからだろうか。
次第にユウリはうまく呼吸ができなくなってくる。過呼吸のように、テンポの速い呼吸を繰り返し、蓋を求めて転げ回る。
それでも箱は開かない。
ふと、暗闇の中、何かが見えた気がした。
それは、箱の外側――遠くのほうにあるようで、でももしかしたら箱の内側にあったのかもしれない。
隈の濃いどんよりとした瞳が、ただ冷たくユウリを見つめていた。深淵を覗き込むような、好奇心にも似た瞳が。
粘っこい空気のなか、重たい瞼をユウリは開いた。
酷く汗を掻いていた。全身がベトベトしているし、喉がカラッカラで、呼吸がうまくできない。それが夢の中で見たような光景に似ているような気がして、だけど夢の記憶はほどんど薄れていたものだから、ユウリはしばらく呆けたように天井を見つめることしかできなかった。
のっそりとベッドから這い出すと、ユウリは朝風呂に入ることにした。このあと喫茶店に行くのに、さすがに汗臭いままだと獏やアスミも不愉快に感じてしまうだろう。
全身さっぱりしてからキッチンに顔を出すと、食器を洗っていた母親が目を見開いてこちらを見た。
「おはよ」
小さな声で挨拶をすると、数秒後に「おはよう」というそっけない声が返される。母親の視線はそのまま食器を洗う自分の手に向けられて、興味はとっくに背けられていた。父親はもう仕事に行ったあとのようだ。時計の針は朝の八時を指している。
汐見家の朝食は基本的にパンが多く、今日のユウリの朝ごはんもパンだった。いつもは焼かずにそのままもそもそと食べている食パンを、トースターでカリッと焼いてからマーガリンをぬって食べることにした。
お腹が満たされると、ふと獏の淹れたミルクティーが恋しくなった。でも汐見家に紅茶の類は存在しないので、今日喫茶店に行ったときにオーダーすることにしよう。そんなことを考えながら、昼頃になるとユウリは喫茶店に向かった。
商店街に向けて、歩いていて気がついた。
空がいつもより晴れ渡っている。それは天気がいいからなのか、それともこれから獏に自分の嫌な記憶を食べてもらえるからなのかはわからないが、ひとつだけ確かなのは、いつも俯いて怯えたように外を歩いていたユウリが、前を向きながら歩いていることだった。
(今日、記憶を食べてもらえたら、また前みたいに自分に自信が持てるのかもしれない)
そんな予感のある日だった。
商店街に辿り着くと、すでに昨日と同じようなお嬢様風の服装をしたアスミが待っていた。今日は白百合のようにおとなしい白いワンピースを着ていた。胸元を彩っている赤く細い糸のようなリボンや、低いヒールのこれまた赤いパンプスが良い味を出している。
彼女はユウリの姿を見つけると、すぐさま駆け寄ってきた。
「待っていたわ。すぐに行くわよ」
どこに、と問いかける前に、ユウリの腕を引いてアスミが歩き出す。その足取りに迷いはなかった。ユウリは口を閉じて、彼女に腕を引かれるがまま歩いて行く。
「ここよ」
ようやく、ユウリの腕を解放したアスミが、錆びついた緑のフェンスの向こうを見つめ、言う。
「ここって」
そこは、近所の高架下にあるグラウンドだった。まだ学生だったころ、高校に通うために毎日のように河川敷を自転車で走っていたのを思い出す。そのころは毎日が楽しくて楽しくってしかたがなくて、高架下にあるグラウンドにまで興味が向かなかったから、今日まで気がつきもしなかった。
どうやらグラウンドでは、少年野球のチームが試合をしているようだ。
どうしてこんなところに連れてこられたのかよくわからないまま、アスミが「あっ」とまるで蝶々を見つけた令嬢のようにふわふわとした笑い声を上げてある一点を指さしたので、ユウリも視線で追う。
「ちゃんといるわね」
そこにいたのは、昨日、ユウリを押しのけて獏に自分の記憶を食べてもらったはずの少年、瑞浪カズトだった。タイミングよくボールが打ちあがり、カズトのもとに飛んでくる。カズトは昨日とは打って変わって溌剌とした笑顔で、落ちてくるボールの下に陣取るとグローブを構えた。
だが、空しいことに、ボールはカズトの構えたグローブの横を通り過ぎ、地面に転がってしまう。
コロコロ転がってきたボールが、柵越しの、ユウリの足元にやってきた。
慌てて走り寄ってきたカズトが、ボールを拾うと不思議そうに首をひねった。まるで自分がどうして失敗してしまったのかわからないような顔で、呆然とボールを見つめている。
そんなカズトと、ユウリの視線が合った。
「カズトくん」
名前を呼ぶと、カズトはますます首を傾げた。
「お姉さん、だれ?」
「え?」
昨日会ったことを覚えていないのだろうか? なぜ?
ああ、もしかして、獏に記憶を食べてもらった影響で、その記憶にまつわる記憶はなくなってしまったのだろうか。
また野球の試合で失敗した彼に、慰めの言葉も思いつかないユウリは、思わず訊ねていた。
「カズトくん。野球、楽しい?」
その問いに、カズトは困ったような顔になった。
「た、楽しいはずだよ。だってさっきまで楽しかったから。こんなに楽しいこと、ないって思っていたから。そのはずなのになぁ……。なんでこんなミスしちゃったんだろ。なんかおかしいんだよなぁ。さっきまでほんとに楽しかったのに、心にぽっかり穴が空いているみたいだ」
まあでも、とカズトはギュッとボールを強く握る。
「まだまだ試合はこれからだからな。おれも、まだまだやれる!」
ちょうどチームメイトに呼ばれたから、カズトは元気に声を上げながら自分のポジションに戻っていった。
その後ろ姿を見送っていると、ユウリの背後に隠れていたアスミが、そっとユウリの隣に並び、柵の向こうのカズトをじっと見つめる。
「どう思った?」
「憂いのあった昨日より、今日のほうが晴れやかな顔をしている。けど」
「けど?」
「なんだか物足りなさそうな顔。私の顔も、覚えていないし。ほんとうに、獏さんはあの子の記憶を食べたのね」
「そうよ。だから、あの子はもう、あたしのことも、ユメクイのことも、あなたのことも憶えていない。彼が消したかった記憶――野球で失敗した記憶は、ほとんどすべてユメクイが食べたのだから」
隣を窺うと、アスミはそのまんまるの瞳を細めていた。光の加減で、空色に見える瞳。風が、彼女の黒髪を弄んでいる。
「ねえ、もし鉛筆で文字を書いたとして、それを消しゴムで消したらどうなると思う?」
突然のアスミからの問いに、一瞬遅れてユウリは答える。
「――消えてなくなる?」
「ええ、それも一生ね。まったく同じところに、同じ文字が蘇ることなんてありえないわ。綺麗さっぱり消えるの。それが紙やノートだったら、また新しい文字を書き足してあたかも最初からそこに存在していたように錯覚させることができるけれど、人間の記憶は違う」
アスミの視線は、ユウリを捉えていた。
「ユメクイの食べた記憶は、綺麗さっぱりとその部分だけ消えてしまうの。鉛筆で書いた文字のように、新しく書き直すこともできない。だからね、人によってはちぐはぐな記憶が、周囲との認識のズレを生んでしまうの。でも本人は憶えていないからそれに気づけない」
「じゃあ、やっぱり」
「瑞浪カズトは、心にぽっかり穴が空いていると言ったわね。そう感じるのも無理はないわ。だって彼は、大切な記憶を、ユメクイに食べてもらったのだもの」
アスミはじっとユウリと目を合わせていた。そのまんまるの瞳は、何かを探っているようにも見え、そっと目を逸らした。
「じゃあ、あたしは先に帰るわね」
アスミはそう言って、ひとりで喫茶店に戻って行ってしまった。
しばらくカズトの試合を観戦していたユウリだったが、試合の決着がついたのを見届けると、再び商店街に向けて歩き出した。
二月の気温は不安定だ。昨日は暖かかったと思ったら、今日は寒い日もある。陽気がサンサンと降り注いでいても、風が冷たいことがある。
家を出るときに、天気が良かったからと薄着をしてきてしまったユウリは、遠くの空に陰りが出てきていることに気づいた。上着を持ってこればよかったと、すこし後悔をする。
カランコロン、と喫茶店の扉を開けると、すぐさま獏の「いらっしゃいませ」という声に出迎えられた。
いつものようにカウンターに向かおうとして、はたとユウリは足を止める。
どうやら今日は先客がいるようだ。カウンターにはセミロングヘアーの小柄な少女が腰かけている。
なぜ少女だということが分かったかというと、学校指定の制服を着ていたからだ。脳紺色のセーラーに脳紺色のスカート。スカートは中学生らしく、膝を覆うほど長い。
その制服を見た瞬間、ユウリは溢れ出してきた気持ちを抑えるので必死になった。
(うそ)
店内に自分以外の客が入ってきたことに気づいた少女が、振り返る。
その瞬間、ユウリは自分の口を手で覆った。
(ああ、なんで)
ただ制服が同じだけだ。だから相手は知らない人だとユウリはそう思い込もうとしていたのに……それは無理なことだった。
制服姿の少女は、ユウリの知っている人物だった。
与野山マハノ。
暗雲立ち込めるとはよく言ったものだ。晴れやかだったユウリの今日に、彼女――与野山マハノが現れたことにより、ユウリのなかにあった晴れやかな気持ちが、一気にどんよりとした重たいものに変わってしまった。
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