番外編/人殺し
深夜。男がひとり商店街を歩いている。フラフラと酔っ払っているような足取り。もつれて転びそうになっては踏みとどまり、フラフラと前に進む。
そんな彼が通ってきた道には、ポタリポタリ、と足跡のような水滴が落ちていた。
月の光に照らされて浮かび上がったそれは、どす黒い赤色をしていた。
カランコロンと音が鳴って、喫茶店『レーヴ』の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
まるで待ち構えていたかのように、すぐさま声が飛んできて、入ってきた客は目を見開く。
どうして自分はこの喫茶店の中に入ったのだろうか? こんな時間に喫茶店がやっているのがそもそもおかしい。
疑問符を浮かべながらも、喫茶店の店主と思しき人物のいる、カウンターに近寄る。
椅子に座ると、改めてまじまじと、客は店主の全身を見た。
店主は、とても巨大な男の姿をしていた。毬藻のような体は丸く巨大で、手足は細くまるで枯れ枝のよう。ちょこんと乗っているかのような小さな頭が軽くもたげ、客の男を見た。客はかれこれ五十年ばかり生きてきたが、ここまで図体の大きい、奇天烈な姿をした人間を見るのは初めてのことだった。
タン、タタンと、言う音に、誘われた客は壁側にある時計に気づく。そこには振り子時計があった。なにか違和感があると思えば、本来あるはずのところに振り子がない。それなのに振り子時計は、タン、タタンと、耳障りのいい秒針の音を立てて現在の時刻を示している。
(もう深夜一時か)
時計を確認して、改めてどうしてこんな時間にこの喫茶店はやっているのか、と客は驚く。同時に、自分がどうしてこの喫茶店のなかに入ったのかが思い出せないでいた。
自分のわけわからない行動に動揺した客を気遣うように、カウンター越しから声を掛けられる。
「よろしけれはお飲み物はいかがですか? 現在開店セール中で、一杯無料となっております」
客は声を出そうとして、口のなかがやけに乾いていることに気づいた。
それでも無理やり声を出す。
「酒は、あるのか」
しゃわがれた、まるで老人のような声だった。
「ええ。今日は特別にご用意しております」
客はまるで救われたような表情になった。
店主は背を向けると、グラスを取り出している。その様子を見てから、ふと客はすぐそこの床に目をやった。
ポタリ、と床に赤い斑点が垂れている。
液体は生々しく、客は床から視線を上げると、自分の右手に目をやる。
真っ赤になった手と、自分が握りしめている包丁が、そこにはあった。
あ、と気づいたときには全身がぶるりと震え、包丁を床に落としてしまう。カランカランと金属の転がる音が店内に響き、客は啞然とした。
店内には客はひとりと、それから店主がひとり。ほかに人はいない。
いまの金属音は、大きく響く音がした。それに、店主が気づかないわけがないだろう。
だが店主は俯きながら缶ビールをグラスに注いでいる最中で、こちらにはいっさい顔を向けてこなかった。
(気がつかなかった?)
いや、そんなはずがない。自分でも驚いたほど、金属の音は高く響きわたったのだから。客の右手には、よほど強い力で握りしめていたのだろう、包丁の柄の痕がくっきりと残っていた。
床に落ちた包丁に、客は目を向けた。
夥しいほどの返り血にまみれている包丁からは、まだ湧き水のように血が溢れかえっている。実際そんなことはないのだけれど、正気ではない客にはそうとしか思えなかった。
幻覚に抗うように、客は首を振る。
(俺はなんてことをしてしまったのだろう)
手で顔を覆おうとして、自分の手が真っ赤な血で染まっていることに気づいた客は、思わず悲鳴を上げた。
「どうかなさいましたか?」
不思議そうな店主の言葉に、客はブツブツと、なんでもないと答える。
ここに来る前に、手を洗っている暇はなかった。包丁を握っていた手には血が飛び散っているものの、先ほど見えた幻覚ほど血に染まってはいない。
幻覚なんか見ているのも、悪夢のような光景を自分の手で起こしてしまったからだ。
客は、人を殺した。
どうして、そんなことをしてしまったのだろうか。
このまま包丁を放置しておくわけにはいかないと、客は包丁を拾う。そのタイミングで、店主に声をかけられた。
「それは……どうされたのですか?」
見られた! と、焦った男は、とっさに包丁を構える。
「う、うるさい。どうだっていいだろ! 余計なことを言うな! 殺すぞ」
低く脅すように言う。それでも店主の顔色は変わることなく、薄らと笑みまで浮かべているように見えた。まるで、「おまえのやったことはすべてお見通しだぞ」とでも言っているかのようで……ただでさえ正気ではない客はますます混乱して店主の男に詰め寄った。
店主は、それでも顔色を変えない。もとより、店主の顔色はお世辞にもいいとはいえず、目の下には濃い隈があった。
「……何かあったのですか?」
落ち着いた男性の声音が、淡々と響く。
「余計なこというなと言っただろ! ……ああ、どいつもこいつも……なぁんで俺の言うことききやがらねぇ。こっちはこんなに頑張ってんのによぉ、それなのに……くそっ」
悪態を吐く客の瞳は、もはや焦点が定まっていなかった。
忙しなく黒目を動かし、客は包丁を持つ手に力を込める。
「それなのに、どうしてこんなことに……っ。これもすべてあいつが悪いんだ! アイツさえいなければ……ッ。ああ、そうか……もう、殺したか……だったら、もう、必要ないよな……。年下のくせに偉そうなことを言って……俺より後から入ってきたくせに、すっかり上司きどりってか。いつも俺のこと見下して、馬鹿にしたりするからこうなるんだよ! あーあ、くそっ。くそっ。人を殺したら、俺も生きていけねぇじゃねぇか……」
客はおもむろに自分に向かって包丁を向けた。
「死のう」
そして客は自分の腹に向かって包丁を突き立てようとして、だけどそれは阻止された。
毬藻みたいな巨体にしては小さな掌が、包丁の刃を強く、強く握りしめていたからだ。
「少し、待ってください」
「な、何してんだよ! 離せよ! 俺は死にたいんだよ。……人殺しで役立たずな俺なんて、もう、要らねぇだろ」
「そうですね」
手から真っ赤な地を滴らせながら、店主は痛みなど感じていないような顔で、にっこりほほ笑んだ。
「でも、それは僕にその記憶を譲り渡してからにしてください。僕は、その記憶を、とても食べたい」
「はあ、なに言って」
「僕は故あって獏、と名乗っているものです。人間ではない僕は、あなたみたいな悪夢を持った人間の記憶が、大好物なんですよ」
だから、ね。
「その記憶、僕にいただけませんか?」
にぃ、と店主が笑った。
◇◆◇
人殺しの男が、人を殺した記憶をなくして喫茶店から出ていくのを見計らうと、バックルームに隠れていたアスミは、カウンターに突っ立って満足そうな顔をしている巨体の男――ユメクイに近づいていく。
「ねえ、ユメクイ。あんた、嘘を吐いたでしょ」
「うそ?」
「汐見ユウリに対してよ。あんたは別に、一日に食べられる記憶の量は決まっていないじゃない。毎朝、あたしの記憶を食べているのだから」
どうしてそんな嘘を吐いたのかは、ユメクイともう何十年も一緒にいるアスミにはなんとなくわかっていた。けれど、ひとつだけわからないこともなくはないが、いまそれを問いただしたところでユメクイは答えないだろうという予感もあった。
「どうせあの男の記憶が、食べたくて食べたくて、仕方がなかったのでしょう? だから、汐見ユウリの記憶は後日に回した」
「それは、どうだろうね」
ふふっと、笑うユメクイ。その表情からは、感情なんて窺えなかった。そもそもユメクイは人間ではないのだから、人間でいうところのまともな感情なんて持ち合わせていない。
この男はいつもそうだ。ユメクイは自分で自分の夢を見ることができないから、他人の夢を覗き見ることにしか興味を持っていない。それも優しさに見せかけた調味料で人を唆して、極上の悪夢に仕上げることを好んでいる。
それでも昔に比べると、彼はおとなしくなっている。アスミと出会った頃のユメクイは、いまとは違いこんな人の良い笑みを浮かべるようなヤツではなかった。
もっと残忍で、残酷に、人の記憶を弄んで、好きなときに、好きなだけ大好きな悪夢を食べる。
ユメクイは寝ている人間の夢の中に簡単に入ることができる。だからあの頃のユメクイは、勝手に他人の夢の中に入って、勝手に記憶を食べたり、いじったりと、好き放題していた。
――それこそ、バケモノのような存在だった。
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