第二章/エラー④


「まだ話さなければいけませんか?」


 汐見ユウリは顔を上げて、獏の顔を仰ぎ見た。

 彼は隈の濃い瞳で見返してくると、にっこりとほほ笑みを浮かべた。


「記憶を食べるには、その記憶がどういうものが知らないといけないものですから。つらいことをお話しさせてしまって、すみません」

「……いえ」


 強制的に誘われたキャッチボールを勝手に抜け出してから、ユウリは獏に再び自分の記憶を食べてもらえるようにお願いをした。そうしたら獏は頷く代わりに、ユウリの記憶――どういった記憶を食べてほしいのかを、いま一度教えてほしいと言われて、一時間ばかり喋っていた。

 タン、タタン――。振り子のない壁掛け時計を見ると、時刻は午後五時だった。昼過ぎに家を抜け出してきてから、もう四時間ほど経っている。そろそろ帰らないと、母親にこんな時間までどこに行っていたのか問い詰められるかもしれない。昨日も、コンビニに行くだけなのに一時間もどこをほっつき歩いていたのか責めるように訊かれてしまった。しどろもどろになり、「喫茶店」と答えたユウリに、母親は「ふぅーん」とだけ言ってそれ以上訊いてこなかった。今日家を出てくるときもそうだ。彼女は昼ごはんの片づけをしていて、ユウリに顔すら向けてこない。気づいていないわけではないだろうに。


(……違う。私も、もう二十六だから)


 二年間も引きこもりのような生活をしていたからか子供の頃に戻ったような気持ちがしていたが、ユウリはもう二十六歳である。二十六歳の娘がどこかに行こうとするのに、母親が「どこに行くのか。いつ帰ってくるのか」そう事細かに訊いてくるほうがおかしいのかもしれない。むしろ、はやく家をでて自立しろと思われていてもおかしくはない。

 だから自立するために必要なのだ。

 ユウリを二年間苦しめ続けているこの記憶。

 初勤務の学校で、教え子たちからいじめられた記憶。

 こんな記憶を抱えていたら、まともに生活もできやしない。

 ユウリは再び顔を上げようとして、まるでタイミングを計ったかのように、カランコロンと入り口の鈴が鳴った。

 その音が鳴りやまないうちに、ユウリの横に人影が現れたかと思うと、大きな声が上がった。


「おれの記憶を、食べてくれ」


 獏の小さな首がもたげ、少年を見ると小さな口が開いた。ユウリからはその表情まではわからなかった。


「かしこまりました」


 獏はそう言って、ユウリを見る。


「ただ、あなたの記憶を今日食べてしまうと、汐見さんの記憶はまた後日になりますが、どうしますか?」

「え、どういうことですか」


 カウンターに身を乗り出す。それでも獏の身長は高く、彼の巨体はただ地面を見下ろすかのように、ユウリとカズトの間を行きかっている。


「僕は一日にひとりの記憶しか食べられませんから、今日食べることができるのは、どちらかおひとりの記憶だけになります」

「それでしたら、私の記憶にしてください。私のほうが先に約束しているのですから!」

「そ、それはダメだ!」


 カズトの叫び声に、ユウリは驚いて身を縮こまらせた。


「おれは今日、記憶を食べてもらわなくちゃダメなんだ! そうしないと、明日また失敗する! だからお姉さん。今日は我慢して明日にしてよ」


 目を大きく見開き、真っ赤な顔をしている彼の様子は何かに急き立てられているように、焦燥感にまみれていた。

 怖ろしく思いながらも、ユウリは問いかける。


「ど、どうして、そんなに急いでいるの?」

「し、失敗するからだよ。おれは、何回も同じ失敗を繰り返すんだ。今日記憶を食べてもらわないと、また明日の試合で失敗してしまう! 今日じゃなきゃダメなんだ! だからお姉さん、譲ってよ。お姉さんはまた明日でも大丈夫でしょ?」


 自分の持っているこの記憶は、いますぐ消してしまいたいものだ。

 そう声をだそうとしたけれど、少年の勢いに押される形になってしまい、うまく言葉にできなかった。

 まごつくユウリに、少年はたたみかけるように懇願してくる。


「お願いだよ、お姉さん。おれには、時間がないんだッ!」

「……わ、わかった」


 ユウリはそう口にすることしかできなかった。



 獏はこれから少年と記憶に関して話があると言っていたので、もう今日は記憶を食べてもらえないのだからと、ユウリは帰るために喫茶店から出た。そのタイミングで声をかけられた。


「ねえ、汐見ユウリさん」


 夕闇のなか、かわいらしい声がユウリを呼ぶ。

 そこには空色のワンピースを着たアスミが立っていた。

 彼女はどこか寂しそうな顔をしていて、ユウリと視線を合わせようとしない。


「あなたも、アイツ――ユメクイに夢を食べてもらいたいのね」


 ユウリは声に出さずに頷く。


「そうよね。みんな何かしら抱えていたくない記憶を持っているものだもの。とくに、自分を苦しめ続ける記憶なんてなければいいって、そう思うものだものね」

「……」

「でもね、ひとつだけ忠告をしとくわ。あのユメクイは、あたしやあなたみたいに人間ではない別の生き物なの。だから必要以上に気を許したりしちゃダメよ?」

「……でも、とても優しそうでした」

「そうね。たしかにアイツは優しいヤツよ。でも、その優しさはあくまでも食材に対するもの。あなたたちだって料理をするときに、出汁や調味料を使ってどうにかこうにか美味しくなるように味付けをするでしょう? 美味しくなりますように、と愛情を込めたりもするでしょう? それと同じよ。アイツは、ただ美味しい記憶を食べたいだけ。それも、あたしからするとゲテモノな類の記憶をね」


 彼女はまあるい瞳でユウリを見上げると、にっこりほほ笑んだ。


「ねえ、汐見ユウリさん。どうせ明日もここに来るのでしょう?」


 頷くユウリ。


「なら、明日の昼すぎに、この商店街の前で待ち合わせをしましょう。ついてきてほしいところがあるの」


 その誘いに、迷いながらもユウリは頷いた。

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