第二章/エラー③
「ごめんね」
消え入りそうな声でそう呟くと、汐見ユウリはボールとグローブをカズトに押し付けて、喫茶店に入って行ってしまった。その時の女性の表情は陰に影を塗り重ねたようにどんよりとしていて、不満や憤りよりも、彼女はどうしてしまったのだろうかという心配な気持ちが勝っていた。
「ちょっと、勝手に抜けないでよ!」
パタリとしまった扉に向かって呼びかけるアスミの声は、店内までは届かなかったのだろう。それとも無視したのか。応答する声はなかった。
「もう。ユメクイに惹かれてやってきただけはあるわね」
頑固なのだから、とその言葉がなにを意味するのかは分からなかったが、アスミが落胆している様子はありありと窺えた。
「まあ、いいわ。じゃあ、続けるわよ」
「まだやるの?」
「夕方まで、まだ時間あるじゃない」
「……夕方までだからな」
ユウリの使っていたグローブを道脇に置くと、カズトはボールをアスミに向かって投げた。
ボールをキャッチするために軽く飛び上がったアスミのスカートがふわりと一瞬、空中に漂う。
「あなたのボール、しっかりしているのね」
「そりゃ、小一の時から野球してるから、これぐらい余裕だよ」
「へえ、いま何年生?」
「四年生」
「四年間も続けているのね! すごいじゃない」
「べつに、すごかねーよ」
「野球が好きなの?」
「……ッ」
はっと、カズトは口を噤んだ。飛んできたボールを思わず落としそうになってしまう。
(おれは、野球が好きなのか?)
幼いころは、確かに好きだったはずだ。野球好きの父から熱心に進められたこともあったけれど、決定的だったのが小学校に上がる前にみた野球中継だった。父がサポーターをしているのチームが九回裏ツーアウトで、一塁と二塁に打者がいる局面。そのチームは二点差の劣勢に立たされていた。
その一歩間違えれば負ける局面での出来事。打者の打ったホームランが、カズトの世界を変えた。
窮地からの脱却。負けるかと思った試合で、たった一球のボールが勝敗を決めた。
すごいと思った。カッコいいと。おれもこうなりたいと。窮地から勝ち上がって、ヒーローと呼ばれたいと。
けれど実際はそう上手くいかないことを、カズトはこの四年間で思い知った。
カズトはヒーローではない。窮地をうまく抜けだす実力も持っていない。だって、自分は失敗してしまう。憧れだけで勝ち上がれるほど、野球は簡単な球技ではない。
(おれは、いまも好きで野球を続けているのだろうか)
失敗して、失敗して、失敗して――。
カズトは、こんなに失敗ばかり続ける野球を、まだ好きなのだろうか。
(失敗した記憶なんて、なくなればいいのに)
そうしたら、また野球を好きになれるのだろうか? 野球をはじめたばかりの頃のように、ただ一途に、好きな野球に打ち込めるのだろうか?
――夕暮れは、あっという間にやってきた。
春先といえど体を動かせば汗をかく。
カズトは額の汗を拭ながら、向かいに立っている少女を見た。
夕暮れどきの、オレンジ色の夕日のなか、彼女の表情には影が差していた。
唯一見えている彼女の口が、ゆっくりと開いた。
「で、心は変わった?」
カズトは首を振る。
「やっぱりおれは、この記憶があると、また失敗してしまう気がする」
「……そう」
アスミが一歩近づいてくる。不思議と、夕陽に染まっていた表情が、くっきりと見えた。
その彼女の顔を見た瞬間、カズトは息を呑んだ。
彼女はとても悲しそうな顔をしていた。痛まし気に、カズトを見ている。
「ねえ、ちょっとだけ話をしましょうか」
そんな彼女の表情が放っておけなくて、カズトは頷く。
「あなたはどうしてそんなに失敗を怖がっているの?」
「だって、失敗は繰り返すだろ? 二度あることは三度あるっていうし、おれは同じ失敗を何度も繰り返してきた。また、失敗するのは、イヤだ」
「そう。でも、失敗しなければ学べないこともあるのよ?」
「こんなに何度も失敗して、いったい何を学べと言うんだよ」
「まだ、何かが学び足りないのかもしれないじゃない」
「だとしても、こんなにも失敗して……失敗ばかりしているということは、何も学べていないんだと思う。だって学べていたら、失敗は繰り返さない」
「まだあなたは四年生よ。その失敗は、あなたに何かを語りかけているのかもしれない。失敗することに意味があるとは考えないの?」
「意味? だったらさ、その失敗を繰り返すことに意味はあるのかよ」
「……わからないわね。未来がどうなるのかは、いまのあたしにはわからない」
「それに、きみが言ったんだろ。要らない記憶があったら食べてもらえばいいって。それなのに、どうしてそう進めたきみがさ、おれの邪魔をするんだよ。おれは、こんなにも記憶を食べてもらいたいと思っているのにッ」
カズトはわけがわからなかった。
この喫茶店の店主はユメクイという生き物で、人の夢を――それも、人の嫌な記憶を食べてくれるゲテモノ喰いだといっていた。だから要らない記憶があれば、食べてもらえばいいと。
それなのに、なぜいまになって突然、少女は態度を変えたのだろうか。いまの言葉も、いきなりキャッチボールに誘ったのもそうだ。彼女はなぜか、カズトの「失敗の記憶」をユメクイに食べさせないようにしている。いったいぜんたい、どういうことなのだろうか?
アスミがまた一歩、カズトに近づいてきた。その顔は再び夕闇に支配されて、表情が窺えない。
「……夢に見たのよ」
少女が、囁くように言った。
「夢?」
「ええ、そう。夢。あたしも、毎日夢を見るの。そしてその夢はあなたたち人間が見るような奇想天外だったり、ファンタジーだったり、愁いを含む夢だったりはしないの」
アスミがまた一歩、カズトに近づいてくる。
いつしか彼女は、カズトの真ん前――顔面すれすれに自らの顔を近づけていた。
まあるい空色の瞳が、カズトをジッと見ていた。
「あたしの見る夢は、明日の記憶。あたしは、あなたが今日ここに、訪れることを知っていたのよ」
「なっ……どういう意味だよ」
「あたしは毎日、毎日、明日の記憶を夢に見るの。昨夜も見たわ。あなたが、ユメクイに自分の記憶を食べてもらっている夢」
「……それで、おれはどうかなったのか?」
アスミは静かに首を振る。
「それはわからない。あたしが見るのは、明日の記憶だけだから。あなたがそれからどうしたのかは、わからない」
「じゃあ、どうして?」
「でも、いまならわかるの。あなたの目を見たら、よぉうくわかるわ」
もはやカズトの視線は、彼女のまあるい瞳に釘付けだった。
「あたしは、目を合わせた人間の明日も、見ることができるのよ。あくまでも、昨日の夜に見た明日の記憶の延長線上の、今日から見た明日のあなたの記憶だけどね」
だからわかるのよ。少女は淡々と、静かに告げた。
「失敗の記憶を食べられたあと、あなたは明日もまた同じ失敗をする。忘れた失敗からは何も学べないのよ。だから、失敗は繰り返す」
フイッと、少女がカズトから顔を話した。一歩一歩、うしろに下がっていく。
「で、どうするの? いくら失敗の記憶を食べてもらっても、あなたの失敗は繰り返される。それでも、あなたはユメクイに記憶を食べてもらいたいの?」
「……それがどうしたんだよ」
カズトは獣が唸るような声を出していた。
「もしこのまま記憶を捨てないで、明日の練習試合に出たとしても、また失敗するかもしれないんだろ? 二度あることは三度ある。繰り返す失敗に、これ以上翻弄されるのは嫌なんだ。おれは、もうこんな思いはしたくない。失敗した記憶がなければ、たとえ明日失敗するんだとしても、また失敗したという後悔を感じないですむじゃんか。だったら、おれはユメクイに記憶を食べてもらいたい!」
ギュッと拳を握りしめ、カズトは叫んでいた。
「そう」
静かな声に、カズトは顔を上げる。
その時のアスミの顔はやはり夕闇に支配されていて、表情は窺えなかったけれど、もしかしたらあの痛まし気な、悲しそうな表情をしていたのかもしれない。
だけどカズトは彼女の目を見ないまま、踵を返すと喫茶店に入って行った。
カランコロン、と頭上で軽快な音が鳴る。
カウンターには暗い表情をした女性が俯き、ユメクイと話をしていた。
カズトはそんなことに構うことなくカウンターに近づくと、ユメクイの巨体を見上げながら言った。
「おれの記憶を、食べてくれ」
毬藻みたいな巨体にちょこんと乗っているかのような小さな顔が軽くもたげ、隈の濃い目を細めて、ユメクイはにぃっと口を三日月型に開いた。
「かしこまりました」
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