第二章/エラー②


 食べる? 記憶を? どうやって?

 カズトはまだ混乱していた。無理もないだろう。少女の話は小学四年生のカズトからしても荒唐無稽な夢物語だ。現実世界に、人の記憶を食べる生き物なんているはずがない。

 そっと、ユメクイと呼ばれた大男を見る。彼はカズトの視線に気づくと、にっこりと笑った。たしかに笑顔を浮かべているのに、その目元の濃い隈が合わさって得体のしれないモノのように見えてきて、ぶるりとカズトは身を震わせた。


「おかわりですか?」


 何気ないユメクイの問いに、カズトはぶんぶんと頭を横に振る。


「い、いらない」


 不思議そうな目になったユメクイだけれど、彼は視線をすぐに手元に落とした。

 この男が記憶を食べるユメクイだとして、ほんとうにカズトの要らない記憶を食べてくれるのだろうか。


「本当よ」


 その言葉は、カズトの心の内を読んだかのように、正確に耳に届いた。


「この男はね、人間じゃなくって夢を喰う生き物だもの。しかも人の悪夢を好んで食らうゲテモノ喰いだったりするのよ」

「ゲテモノ……」

「あなたも要らない記憶があったら、こいつに食べてもらうといいわよ」

「要らない記憶、か」


 カズトにも忘れたい記憶がある。

 その記憶は、いまもカズトを苦しめている。

 野球の試合で失敗してしまったこと。それも一回ではない。何回も、何回もカズトは失敗を繰り返してきた。でも、自分はできる。失敗しても、次がんばればいい。そう言い聞かせてきたのだけれど、先日チームメイトに告げられたひとことが、カズトに致命的な衝撃を与えてきた。

 曰く――「おまえは、野球の才能も、実力もないよ」という言葉だった。

 幸いなのは、カズトの所属している少年野球チームの人数が少ないことだった。まだ始めたばかりの小学一年生の子供もいるし、中にはカズトよりも運動のできない子供もいる。だからカズトは小学四年生だということもありレギュラーチームに入ることができていた。才能のないカズトも試合に出ることができた。それは救いであり、同時にカズトを苦しめている原因になっているのだけれど……それは本人にもわからないこと。

 失敗しても次がある。だから頑張れる。そう思っていたカズトを傷つけた、チームメイトの何気ない言葉。

 それが、ぐるぐると、頭の中で回っている。


(どうしておれは、失敗ばかりなんだろう)


 失敗しなければ、実力があれば、もっと才能があれば、チームメイトとして認めてもらえるはずなのに。

 失敗は記憶として残って、おぞましいほどの後悔としてカズトを責め立ててくる。

 連鎖するように繰り返す失敗。それを忘れられずに挑んで、また失敗する。

 その失敗の繰り返しは、いつになったら終わるのだろう、と。


(失敗しなければ、おれはもっとできるはずなのに)


 そんなことを考えていたからなのだろうか。カズトが、この喫茶店にいざなわれたのは。

 カズトは再びユメクイを見る。


「ほんとに、おれの記憶を食べてくれるのか?」

「ええ。その記憶が本当に要らないものであれば、喜んで食べさせていただきます」

「なら、さ」


 やけに喉が渇いていた。

 自分を苦しめるだけの嫌な記憶。それを消してもらえるなんて、願ってもいない好機である。

 それをみすみす逃すだなんて、それこそあとで後悔に変わってしまいそうだ。


(いま言わなければ、いつ言うんだ)


 舌で唇を湿らせてから、再びカズトは口を開く。


「おれの記憶を」

「べつにいま決めなくてもいいのよ。だって記憶というものは大切なものなのだから。その記憶がどうしてあるのか。それをよく考えてから返答したほうがいいと思うの。……そうね、今日の夕方まで時間をあげるから、その時間が来るまであたしと一緒に遊ぶわよ」


 カズトの言葉を遮ったアスミの言葉に、カズトはあっけにとられて首を傾げる。


「遊ぶ? なんで?」


 混乱するカズトをよそに、アスミは続けて言う。


「キャッチボールをするわよ! こう見えてもあたしね、運動は得意なんだから!」



    ◇◆◇



(だからといって、なんで私まで)


 喫茶店の外にユウリたちはいた。ユメクイはいない。彼は運動は苦手だと、困ったように笑っていた。


(あの巨体なら仕方ないだろうけど。でも、だからといってどうして私まで――っと)


 考えごとをしていたから動くのが遅れてしまった。飛んできたボールはユウリのグローブに挟まれることなく、地面にバウンドをして転がってしまう。


「なにやってんだよ」


 ため息を吐くようなその声に顔を上げると、カズトと名乗った小学四年生の少年が、つまらなそうにこちらを見ていた。


「ごめん」


 囁くように、ユウリは謝った。


「べつに。お姉さんも、嫌ならやらなきゃいいのに」


 そうしたいのは山々なのだけど、とユウリは口に出そうとして、やめた。

 ユウリがこうして少年とキャッチボールをしているのには理由がある。その理由は本当に些細なことで、でも半ば強制的だった。

 その強制的にユウリをキャッチボールに誘った主、アスミにユウリはボールを持ち上げるようにして投げた。

 コントロール悪く飛んだボールを、アスミは楽しそうに飛び上がりながらもきちんとキャッチした。


「ヘロヘロなボールね!」


 うるさい。こちとら二年間引きこもりをしているんだ。運動なんて、もう二年もやっていない。そんな私がまともなボールを投げられるわけがないだろう。――そう言いたくなる気持ちが湧き上がってきたけれど、ユウリは口に出さなかった。

 アスミの投げたボールは綺麗に弧を描いて飛びあがり、ポスンとカズトのグローブに吸い込まれた。

 驚いた顔をするカズト。ワンピース姿のアスミがここまで正確なボールを投げられるとは思っていなかったのだろう。どうやらアスミが口にした「運動が得意」というのは間違いではなかったらしい。

 そこから約一時間ほど。特別な繋がりなんてない、ほぼ初対面の三人のキャッチボールは続いた。




(ここ、ほんとうに商店街?)


 ボールを投げるのにも慣れてきて、なんとかまともなボールを投げられるようになったころ、ユウリはあたりを見渡しながら先刻のアスミの台詞を思いだしていた。

 ――この店はね、たしかに商店街の片隅にあるけれど、ユメクイが道を開かない限り、ただの人間にはたどりつけないようになっているの。

 あとは何と言っていただろうか。


「白昼夢」


 そうだ。彼女はそんなことを言っていた。夢現のような場所に、この場所はあるのだと。

 それが本当かどうかをユウリはそう疑っていた。だってユウリが今日この店に来ようとしたとき、商店街の片隅にこの店はたしかにあったのだ。昨日と同じ姿、同じ場所に。

 でもこうしてキャッチボールをしながら商店街の方角を窺うと、なにか違うような気がする。

 その理由は、「人通りのなさ」だった。

 この商店街はたしかに寂れているけれど、だからといってどの店もやっていないわけではない。商店街には、ユウリが産まれる前からある八百屋や花屋、呉服屋などはいまでも健在だ。この商店街に住んでいる人もいる。そのうえ今日は土曜日である。この一時間、まったく人を見かけないどころか、八百屋や花屋、呉服屋の店主の姿すら見かけないのはおかしいのではないだろうか。


(でも、たまたまよね。いくらこの喫茶店の店主が獏という生き物だからと言って、いくらなんでも現実世界とは違うところに店があるわけがない)

 

 ――でも。

 ふと不安に思い喫茶店を見ようとしたユウリの頭に、何かが落ちてきた。それはユウリの頭をバウンドして、地面に転がっていった。

 コロコロ転がるボールをぼんやりと眺めていると、不満そうな声が投げかけられた。


「ちょっとお姉さん、ボーっとしてんなよ」


 カズトがめんどくさそうな顔をしてこちらを見ていた。

 まったく似ていないはずのその顔に、二年前のクラス担任の男性の顔が重なる。億劫そうに、面倒ごとを持ち込んできたユウリに呆れている顔。思わず、「ごめんね」とユウリは謝っていた。


「ごめんね」


 同じことを呟きながらボールを拾う。

 ギュッと握りしめたボールを眺めながら、ユウリは悟っていた。

 この記憶がある限り、自分は何もできないのだと。

 前に、足を踏み出すことすら、できないのだと。

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