第二章/エラー①
(おれは、どうして失敗ばかりするんだろう)
土曜日にも関わらずに家でぐうたらしている自分の姿を母親がしきりに気にしているのがなんだかうるさかったので、友だちと遊ぶと嘘をついて家を飛び出してから数刻。
どうしよう、とカズトは考え、たまたま目についた商店街に足を向かわせた。
この商店街は、夏祭りに露店が並ぶ以外にほとんど活気がなく、まだ春先の二月であるいまはポツポツと小さな店がやっているぐらいで、寂れた通りには活気はまったくなかったし、もちろんこの通りにもベンチらしきものも見つからない。
「帰ろうかな」
外出してからもう一時間は経っているはずだ。いま帰っても、何か言い訳でもしたら母親も安心してくれるだろう。
そう思い振り返ったカズトは、すぐに首を傾げることになった。歩いてきた道が、少し違って見えたからだ。
「ここって、こんな通りだったっけ?」
声に出しても、答える相手はどこにもいない。
気のせいだろうと、カズトは歩き出す。
五分ほど歩き、カズトは先ほど感じた違和感が、間違っていなかったことを悟る。
歩けども歩けども、周囲の風景は変わることがなく、もうとっくに商店街を出ていてもおかしくはないのに、カズトはいまだ商店街を彷徨っていた。
次第に歩調が速くなる。
(どうなってんだよ)
走り回ってすっかり疲れたカズトは、両手を両膝ついて立ち止まった。
荒い息を吐き出しながら、ふと顔を上げると、そこには走っている最中は見かけなかった建物があった。
寂れた商店街には似合わない真新しい一軒家ほどの大きさしかないお店。窓ガラスには、「開店セール」という文字が躍っていて、顔を上げると看板が掲げられていた。
「レーヴ?」
舌が上手く回らないからか、いまいち発音がしにくい。
その店の扉が小さく開いていることにカズトは気づいた。
まるで誘われているようだ。
すっかり疲れていたカズトは、もしかしたら座るところがあるかもしれないと、誘われるがまま扉を開いて中に入っていく。
カランコロンと、頭上で軽快な音が鳴った。
タン、タタン――。その音に引かれるように壁を見ると、振り子のない壁掛け時計があった。時刻は、午後一時を示している。
それからカズトは、自分に向いている視線に気づいて顔を上げた。
カウンター席に座っている暗い表情(かお)をした女性とまず目が合う。それから、カウンター席の向こう側にいるやけに大きな男。
もしかしたら、この店に自分が商店街からでられない原因でもあるのではないか。そう思ったカズトは、大男に訊ねた。
「ここは、どこだよ」
だけど彼の問いに答えたのは、目の前にいるどちらでもなかった。
「喫茶店『レーヴ』よ。いらっしゃい、小さなお客様」
そんな声とともに、毬藻みたいな巨体の大男の背後から、カズトと同じ年ぐらいの少女が軽やかに躍り出てきた。彼女はお嬢様のようなワンピースを着ていた。水色のふわりとしたワンピースに、レースがあしらわれた白く大きなリボン。それからくりっとした瞳。日本人のようで、日本人離れしたような黒髪の美少女。
呆然と彼女に見とれていたカズトは、「どうしたのよ」と言う声とともに突然目の前に現れた少女の顔に、プシューと蒸気が抜けるほどの熱さを感じて、気がついた時にはその場に倒れていた。
カッキーン、という音がして顔を上げると、バットに当たったボールがちょうどカズトの頭上に落ちてくるところだった。セカンドフライだ。グローブを掲げて、落ちてくるボールを待つ。つーっと、汗が頬を流れていく。これを取れば勝てる。取れなかったら負ける。緊張感に包まれて、息が荒くなる。
そして――カズトに向かって落ちてきたボールは――。
そこで、カズトは目を覚ました。
知らずのうちに汗を掻いていたようで、額がじんわりと汗ばんでいる。長袖の袖で拭おうとして、ふとカズトは横を見た。
くりっとした瞳の美しい少女と視線が合った。
「っ」
奇声のようなものが、口から洩れた。
しんがいそうに、少女が眉をしかめる。
「あたしを見て悲鳴を上げるだなんて、失礼じゃないの」
そんなことを言われても、しょうがないだろう。だって同じ年頃の、それも美しい少女が至近距離にいるのだから。いままで母親以外の女性はもとより、クラスメイトの女子とすらまともに喋ったことのないカズトにはどう対処していいのかがわからない。
視線をウロウロさせていると、少女とは別の方向から声をかけられた。
「喉が乾いていませんか?」
顔を上げると、やけに大きな大男がいた。
カズトはあんぐりと口をあける。毬藻みたいな胴体に、細い手足、それからちょこんと乗っかるようにしてある小さな顔。その目の下には、黒い隈があった。カズトの父親が仕事で忙しそうに何日も睡眠時間を削ったり徹夜をしたりしたときにも見たことのある、黒い隈。だけど大男の隈は、そのカズトの父親とは違いとても濃く、こびりついた汚れのようだった。
不気味だ、とカズトは思った。
返答のしないカズトを見て、大男は困ったように眉を垂れた。
「オレンジジュースでいいですか?」
「こ、コーラがいい」
オレンジジュースなんて小さい子供の飲み物だ。男ならコーラだ、コーラ。
そんなカズトの内心なんて知らない少女が、クスっとかわいらしい笑い声を上げた。瞬間、カズトは耳まで真っ赤になってしまう。
椅子に座っている少女が、足をブラブラさせながら尋ねてきた。
「あたしはアスミ。あなた、名前はなんて言うの?」
「か、カズト」
「カズトねぇ。ふーん」
なにやらジロジロと、アスミと名乗った少女がカズトの全身を眺めてくるのに、カズトは居心地の悪い思いをして身じろぎをする。
「コーラです」
カランと氷が鳴る音がして、目の前にコーラの入ったグラスが置かれた。一口飲むと、ひんやりとした爽やかな炭酸が喉を通っていく感覚に、自分が思っていたよりも喉が渇いていたことを知った。
ゴクゴクとグラスの半分ほどまで飲んでから、カズトは大変なことに気がつく。
「おれ、お金持ってないんだけど」
「開店セール中ですから、飲み物一杯はサービスです」
「ならいいや」
遠慮なく、カズトはコーラを飲もうとして、さっきからジッと自分を見つめてくる視線に気づき、そちらを向いた。
「なんだよ」
カウンターの椅子に座って、こちらを眺めていたのはひとりの女性だった。母親より若くまだ二十代ほどの年齢だろうに、女性の見た目はどんよりと老けているように見えた。髪は手入れをしていないからパサパサだし、カズトの母親と違ってお化粧や服を気にかけている様子もない。
そして何よりもその瞳。明るさをどこかに放り捨ててきたような、暗い瞳。
「ごめんね」
彼女はそう言って、カズトから視線を逸らしてしまった。
「ねえ、あなたは、どうしてこの店にきたの?」
グイっと腕を引っ張られて、カズトは強制的にアスミと視線を合わせることになった。
腕を、触られている、と気づいた瞬間カズトはまた顔を真っ赤にしてしまった。
あはは、とアスミはやはり楽しそうに笑っている。
「ま」
迷ったんだよ、と言いそうになり、カズトははっとする。
一本道のはずの商店街で迷子になったと伝えたら、少女にもっと笑われてしまうのではないだろうか。たとえ自分の不注意ではなく、魔法のような出来事に遭遇して迷ってしまったんだとしても、こんなところで迷うだなんてただの恥になる。
えっと、えっと、とカズトは言い訳を考える。
「た、たまたま……ランニングをしていたら、この店の前を通りかかったんだ。喉が乾いていたし、ちょうどいいと思って」
完璧なる出まかせだった。ただ、商店街を迷子になり、偶然目の前にあったこの店に入っただけ。
キョトンと、アスミがまばたきをする。
「それにしては、お店に入ってきたとき、ここがどこなのかわかっていない様子だったけど」
ギクッとする。そういえば気を失うまえにそんなことを言った覚えがある。それにカズトは手ぶらでお金を持っていなかった。無一文なのに、喫茶店に来るのはおかしいだろう。
しまったな。とりかえしのつかない出まかせをどうしようかと考えていると、ジッとアスミが見てくるのに気づいた。
ゆっくりと、その唇が開く。
「ねえ、白昼夢って知っている?」
「はくちゅうむ?」
なにがなんなのか、カズトはわからない。
「昼間とかに、寝ているわけでもないのに、起きている間に見る夢のことよ。ここはそんな白昼夢のような、夢現の場所にあるの」
歌うような声だった。
「この店はね、たしかに商店街の片隅にあるけれど、ユメクイが道を開かない限り、ただの人間にはたどりつけないようになっているの」
アスミは、まあるい瞳をさらに大きくする。
「ねえ、あなたにもあるんでしょう。要らない記憶が。消したくてやまない記憶が。その記憶は、なぁに?」
要らない記憶。
消したくてやまない記憶。
「その記憶を、いったいどうするっていうんだよ」
ふふ、とアスミは声に出して笑った。
「この大男――ユメクイが食べてくれるわ」
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