第一章/喫茶店『レーヴ』④
汐見ユウリは、大学を卒業すると、実家からそれほど遠くない公立中学校に就職が決まった。任されたのは一年二組の副担任で、最初の数カ月は平凡に、何事もなく日々を過ごしていた。
そんな日々が一転したのは、ある日の放課後。
教室に忘れ物したことに気づき、取りに戻ったとき。
教室の中から、物音と話し声が聞こえてきた。
もう掃除の時間も終わり、部活動のある生徒以外はほとんど帰っていると思っていたから意外に思いながらも、まだ駄弁りながら残っている生徒がいるのだろうと、ユウリはそう思って教室の扉を開こうとして、でもすぐに手を止めた。
教室の扉には、中を覗くことができる小窓がある。人の顔より一回りほど大きい小窓だ。
その小窓から覗いた光景に、ユウリは一瞬だけ呆然とした。
でもすぐに気を引き締めると、教室の扉を勢いよくあけ放った。中にいる生徒の顔が、一斉にユウリを見て、一部の生徒が「やべ」と顔をしかめる。
教室にまだ残っていたのは、女子生徒が六人だった。六人の内ひとりを覗き、ほかの五人はクラスのなかでも中心となる女子グループだった。残りのひとりは、逆にクラスの中でもおとなしい生徒。中に入ってきたユウリを見て、大きく目を見開いている。
その女子生徒の姿を見て、ユウリは奥歯をきしませる。
彼女は、スカートを床に扇状に広げた状態で尻餅をついていた。それだけだとお尻から転んだだけのようにも見えるけれど実際にはまったく違っていた。彼女は髪の毛を後ろから引っ張られていた。それにより思いっきり転んだのだろう。シューズは脱げてそこらへんに転がっており、スカートは捲れて下着が覗いている。
だけどそれだけではない。リーダーと思われる女子生徒――角田ミサの右足が、少女のお腹に乗せられていた。
偶然そうなったとは到底考えられない光景を見て、ユウリはすぐにこれはいじめなんだと悟った。
副担任としていじめを見過ごすことはできない。
そう思ったユウリは、すぐさま行動に移した。
いじめられている生徒に近づく。いじめっ子たちはさっとユウリから距離をとり、こちらの様子を窺っている。
「だいじょうぶ?」
いじめられていた少女に手を差し出すと、彼女は軽く頷き、ユウリの手を取って立ち上がった。
「あなたたち何をやっているの?」
それからユウリは、遠巻きに窺っている女子五人を見渡した。
「えー、別に、ふざけていただけだし」
明らかな嘘だ。みんな顔が強張っている。
「ふざけていただけでこんなことになるわけがないでしょ!」
思わず声を荒げる。そうだ。当時のユウリは、まだ面と向かって相手と言い合いをできるだけの気概は持ち合わせていた。
「ねえ、ホントだよね? 与野山さん」
いじめられていた少女、与野山マハノがビクッと肩を揺らす。
「あたしらさ、じゃれていただけだよね?」
「……ぁ」
与野山マハノは口を開こうとしてギュッと閉じ、俯いてしまった。
「あーあ、この根倉女、まただよ。もういいや、行こ。別に副担に見られたからって、どうこうなるわけでもないし」
グループのリーダー格の角田ミサの言葉により、五人の女子生徒はユウリの制止も聞かずに、教室から出て行ってしまった。
残された与野山マハノの肩に、いたわるような手をユウリは置く。
「もう、だいじょうぶだからね。あとで担任にも伝えとくから。与野山さんは安心して家に帰ってね。そうだ、送って行こうか?」
「……いいです。ひとりで帰れますから」
よくよく考えると、副担任にも関わらず、ユウリは与野山マハノの声を、そのとき初めて聞いた気がした。授業でも極力発言をしない生徒だからだろうか。女子にしては低いハスキーボイスだということを初めて知った。
――それからだった。
それから一週間。果てしなく暗い闇の中をさ迷い歩くかのような一週間だった。
ユウリを苦しめるためだけに設けられているような、一週間だった。
クラス内で起こっているいじめ。その被害者の名前。
それらを訊いた担任である男性教員の無責任な言葉が、最初にユウリの心に突き刺さった。
「そうですか。クラスでいじめですか。困ったものですねぇ。まあ、汐見先生は新人なのですから、おとなしくしといてください。そっちの方がいいですよ」
その言葉は言外に、「余計なことをするな」と告げているかのようだった。
それに反抗するように、ユウリはまずいじめっ子たちに話を持ち掛けようとした。けれどそれは叶うことなく、その日のうちにユウリの靴がびしょびしょになって下駄箱に入れられていた。次の日担任よりも早く教室に入るために扉を開けると黒板消しが頭の上に落ちてきて全身白や黄色、青色や赤などのチョークの粉まみれの醜態を生徒の前でさらすことになった。
それでも最初の二日間はまだ我慢していた。いじめっ子には負けないと。教師なのだから、いじめられている子は守らなければいけない。そう心に誓っていたおかげで教え子たちからの度重なるいやがらせに、ユウリは耐えた。耐えに耐えた。
だけど。
露骨に現れるいやがらせ。それを見て見ぬフリする担任。そしていじめっ子の主犯格の女子生徒の嘲笑。
「先生が悪いんですよ? ウチらのこと、チクったりするから」
あはは、あははっ、という甲高く頭を狂わせてくる笑い声に吐き気を覚えながらも、ユウリは耐えに耐えて毎日学校に向かった。
それでも、暗い闇が、一週間という短くも長い間、ユウリを苦しめ続けた。
そのとどめが、彼女の――いじめられていた少女の、冷たい言葉だった。
ユウリの目の前で、角田ミサの足に引っ掛けられて、与野山マハノが転んだ。そんな彼女を助けなければいけないと伸ばした手を、与野山マハノは払いのけたのだ。
「先生って、最低です。たいして何もできないくせに、どうしてあたしにちょっかいをかけるの? もう、学校に来ないでください。」
彼女は唇を噛み締めて、ユウリをにらみつけていた。
おそらくその時、何かが切れた。
どうして自分は学校にきているのだろうか。担任は生徒のことには無関心で、教え子のクラスメイトたちにはこんなにも惨めな思いをさせられて、それに耐えてまで、どうして自分はこの学校にきているのだろうか。
自問自答に、明確な答えがないということに、ユウリは気づいた。次の日から学校に行けなくなった。無理に学校に近づこうとすると、吐き気がこみあげてきて、最悪な場合は嘔吐してしまうときもあった。次第には家から出ることすら億劫になり、朝布団から出ることもできない。だから学校には、退職届を出した。
――あれから二年間。いまだにユウリは一歩を踏み出せないでいる。家から出られるほどには回復しているものの、あの黒い淀みの中を足掻いていたような一週間は、ユウリの脳裏にこびりついている。
たとえば昨日、ユウリが勤務していた中学とは別の女子中学生の姿を見ただけで、吐き気が込み上げてきたときのように。その記憶を忘れることはできなかった。
「もう、嫌なんです。この記憶に縛られて、自由を奪われるのは。私はもっと前向きで生きていきたいのに、この記憶のせいで私は何もできずに引きこもっていることしかできない」
叫び声が出そうなほど早口で捲したてると、ユウリはギュッと目を瞑った。
コト、と何かが置かれる音とともに、落ち着いた男性の声音が聞こえてくる。
「ミルクティーです」
瞼を持ち上げると、ぼんやりとしていた視界が、次第にはっきりとして、目の前に置かれたマグカップを映しだした。
温かそうに湯気が立ち上っているマグカップをぼんやり眺め、ユウリはそっと手に取った。
一口飲んだだけで、温かいものに全身を包まれていく感覚に、心が安らいでいく。
顔を上げると、変わらない笑みの獏が静かにユウリを見ていた。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
答えると、獏は軽く頷いた。
「それでは、その記憶を、お代にいただいてもよろしいですか? その記憶を僕がいただいてしまうと、あなたはその記憶を一生思いだすことができなくなりますが、それでも本当によろしいのですか?」
暫しの逡巡。
でも、答えは決まっているも同然だった。
獏の毬藻のように大きな胴体に、細く伸びる手足。それから、ちょこんと乗っかるような小さな顔。その隈の濃い瞳を見つめて、ユウリは口を開こうとして、だけどできなかった。
獏の問いに答える前に、カランコロンという音が邪魔をしてきたからだ。
「いらっしゃいませ」
獏の落ち着いた声により、ユウリはそれが来店を告げる合図だということに気づく。
首だけで振り返り背後を窺うと、入ってきたのはまだ十歳ほどの小学生の男の子だった。彼はキョロキョロと周囲を見渡して、驚いたような顔をしている。まるでここはどこだと言っているような様子で、まだユウリたちの存在には気がついていないようだ。
喫茶店の真ん中あたりにある本棚の近くまで歩いてきてから、やっと少年はユウリと大男の存在に気づいた。
「ここは、どこだよ」
「喫茶店『レーヴ』よ。いらっしゃい、小さなお客様」
いつの間にそこにいたのか、獏の背後からアスミが現れる。昨日は普段着のような特徴のない服を着ていたのと違い、今日は変わった格好をしていた。
水色の落ち着いた色合いのふんわりとしたワンピースに、白いフリルがあしらわれた白い大きなリボンが特徴的な、どこかのおとぎ話から出てきたようなお嬢様風の服装。ロリータファッションに似ているけれど、どこかが違っているように見えた。
自分と同じ年ほどのアスミを見て、少年が目を大きく見開いたまま固まる。
アスミが少年に近づいていき、「どうしたのよ」と彼の顔を下から覗き込んだ瞬間。
一瞬で顔を真っ赤にした少年が、ぐるぐると目を回して後ろに倒れてしまった。
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