第一章/喫茶店『レーヴ』③

 

 暗闇の中、ユウリは歩いていた。

 一歩一歩、と前に進める足が、まるで重りがつけられているかのように重い。

 重い足取りのまま、ユウリは歩を進める。前に行かないと、この先に行かないと、私は行かないといけない。

 そこで、はたとユウリは気づく。

 どうして、自分はこんなにも一生懸命、歩いているのだろうか?

 この先にいったい何があるというのだろうか?

 いったい、私はどこに向かおうとしているのだろうか。

 そして思いだしたくもない記憶が溢れてくる。


 ――先生が悪いんですよ? ウチらのこと、チクったりするから。

 ――汐見先生は新人なんですから、おとなしくしといてください。

 ――先生って、最低です。たいして何もできないくせに、どうしてあたしにちょっかいをかけるの? もう、学校に来ないでください。


 ぐるぐると記憶が、思いだしたくもない記憶が、溢れてくる。

 いつしかユウリは進む足を失い、地面にうつぶせに倒れていた。

 ふと、暗闇を見上げると、白い光が漂っていた。いや、光ではない。すぐにユウリは気づいた。

 それは、人の瞳だ。それもひどく隈の濃い、感情のないおぼろげな瞳。

 それに気づいた途端、ユウリはなぜか吐き気か込み上げてきた。

 ――――……。



 盛大に咳をして、ユウリは体を起こした。


(また、あの夢)


 二年前に、退職した中学校で起こった出来事。忘れたいはずの記憶が、忘れることを許さないかのように、寝起きの脳裏に容赦なく駆け巡る。

 その記憶に、夢で見た光景が重なった。

 今度こそ本当に吐き気がこみあげてきたユウリは、慌ててトイレに駆け込むと、喉まで上がってきたものを吐き出した。

 酷い後悔を感じながら、ユウリはトイレを出ると洗面台でうがいをする。ついでに顔も水でバシャバシャ洗うと、そこでふとユウリは顔を上げて、鏡を見た。

 暗い瞳と、目が合った。

 それが鏡に映った自分の眼だということに気づくのに数秒を要した。

 ユウリは逃げるように自分の部屋に戻ると、再び掛布団を全身に被り、目を閉じた。

 どうしてなのだろうか。

 どうして自分はまだ、あの記憶を忘れられないでいるのだろうか。

 もう二年前だ。とっくに薄れていてもおかしくはないのに。その記憶は、いまも脳裏にこびりついていて、拭っても拭っても、消えてくれない。

 忘れられるものなら忘れたい。自分を苦しめて病まないこの記憶なんて、いっそすべて跡形もなく無くなってしまえばいいのに。

 十回目の寝返りで、唐突にユウリは体を起こした。

 たまたま昨日訪れた喫茶店の、店主の言葉を思い出したからだ。


「要らない記憶がありましたら、いつでもいらしてください」


 自らを「獏」と称した男。彼の落ち着いた声音を共に思い出しながら。

 もし彼が空想上の生き物であるはずの獏なのであれば、ユウリのこの苦しいだけの記憶も食べてくれるのだろうか。




 寂れた商店街の片隅にある、洋風な雰囲気を漂わせている喫茶店――『レーヴ』。

 その扉を開けると、頭上でカランコロンと軽快な音が響いた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターにいるのは、身長が二メートルは越えている大男。毬藻みたいな胴体に、手足が細くて、ちょこんと乗っかっているだけのような小さな顔というアンバランスな姿をした店主――獏。

 目が合うと、彼は濃い隈の瞳を細めて、にっこりとほほ笑んだ。それはとてもとても嬉しそうなほほ笑みだった。


「またいらしてくれたのですね」

「……はい」


 力ない返事をして、ユウリはカウンター席に座る。店内は土曜日の昼間にも関わらずにユウリ以外の姿がない。先ほどの獏のほほ笑みの意味を、ユウリはひっそりと悟った。


「で、今日は何になさいますか?」

「……昨日と同じので」


 昨日初めて訪れたお店で、常連と言えるほどではないのに、ユウリはそう答えることしたできなかった。

 今朝見た夢が、また脳裏に蘇る。まるで忘れてはならないというように。

 ――昨日はあの後、「今日のところは、偶然の出逢いに感謝して、お代は結構ですよ。もともとセールで紅茶一杯分は無料でしたから。サンドウィッチのほうはサービスです」と言う獏の言葉に甘えて、ユウリは代金を払わずに退店することになった。

 少女からユメクイと呼ばれていて、自らを「獏」と名乗る男。

 あれから少し調べてみたのだけれど、「バク」という動物は実在している。ユウリも昔、動物園で白黒のマレーバクを見た覚えがある。顔が口にかけて長細くとがったような形をしていて、ブタのような鼻が印象に残っている。

 けれど、店主の名乗る「獏」は、動物「バク」とは別のものみたいだった。

 夢を喰う空想上の生き物。それも、寝ている間に見る悪夢を食べてくれると云われている幻想動物――獏。


「あの、獏さんって、本物の、獏なんですか。悪夢を食べてくれるという」

「そうですよ」


 やはり彼はあっさりと、自らの存在を隠すことなく教えてくれた。

 その様子はあまりにもあっさりとしていて、嘘や冗談の類だとは思えない。

 躊躇いつつも、ユウリは続けて獏に訊いた。


「それなら今日は、私の悪夢――記憶を、お代にいただいてくれませんか?」


 隈の濃い瞳をキュッと細くした獏がユウリの瞳に眼を合わせるように身を屈めた。興味深そうに瞳が揺らめいている。


「それはどんな記憶ですか?」


 唇を震わせて、ユウリは重たい口を開く。


「……あれは二年前。私が、初めて勤務した中学校で起こった出来事です」

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