第一章/喫茶店『レーヴ』②

「こちらにどうぞ」


 大男に肩を借りながらフラフラした足取りでユウリがやってきたのは、商店街の片隅にある喫茶店だった。まだ新しい店舗らしく、「『開店セール!』」という張り紙が窓ガラスにでかでかと貼ってある。

 店内に入ると、扉についている鈴がカランコロンと音を立てた。


「どうぞ」


 カウンターに三つ並んでいるうちのひとつの椅子にユウリが腰かけると、大男はカウンターの内側に入った。その様子からすると、彼はこの喫茶店の従業員のようだ。店主なのかもしれない。


「少し待っていてくださいね」


 男性の言葉に力なく頷く。

 先ほどより幾分か気分が戻ってきていたユウリは、そっと店内を見渡した。

 照明は少し暗いぐらいだが、店内の隅まで見えないほどではなく、ほかに客もいないからかよく見渡せる。

 店内の真ん中あたりに腰ほどまでの本棚があった。本棚には雑誌や文庫本、海外の文学などここから見えるだけでもいろいろな種類のものが綺麗に整頓されて並べられている。その本棚の向こう側には丸いテーブル席が三つ、適度な距離が空けられて置かれていた。カウンター席と合わせて、多くても十五人ほどの客がくつろげる空間だろうか。ユウリは壁をもう一度ぐるりと見渡す。見たことのないアンティーク調の装飾が多かった。

 その中でもひときわ異彩を放っているのが、カンターの左側――ユウリから見た左側の壁にある柱時計だろうか。

 焼け焦げた茶色の柱時計には、本来あるはずの振り子がなかった。それなのに、タン、タタン、と音を立てて、秒針が動いている。短針と長針はきちんといまの時刻を差している。

 タン、タタン――その音が、やけに鼓膜を揺らす。


「どうぞ」


 柱時計から顔を逸らすのと、男性から声をかけられたのは同時だった。

 視線を落とすと、両掌に軽々とおさまるぐらいのマグカップが置かれていた。華やかないい香りが鼻につく。


「ミルクティーです。少し甘めに仕上げてあるので、落ち着くはずです」


 落ち着いた男性の声音に促されるように、ユウリはカップに口をつけた。


「美味しい」


 素直な感想が口から洩れる。

 ユウリはいままで紅茶をほとんど口にしたことはなかった。母がコーヒーばかり飲むので自分も飲んだことはあるものの、あの舌に残る苦さが自分には合わず、家で飲むのはミルクか果物ジュース、それかお茶ぐらいだけ。

 だから紅茶が、こんなにも舌触りのいい美味しい味なのだということをユウリは生まれて初めて実感した。

 もう一口飲む。

 体が温まるような心地に浸っていると、カウンターの向こう側――バックルームに続く扉が勢いよく開いた。


「やっと帰ってきたのね!」


 張りのある高い少女の声に、ユウリはカップを持ってない方の手で耳を抑えた。

 キンキン鳴り響く声の主はユウリの存在に気づいていないのだろう、そのままトタトタと足音を立てて大男に近づいていく。


「ちゃんとあたしが頼んだものは買ってきたの? 洋菓子だけど?」

「ああ、これだろ」


 ユメクイと呼ばれた大男が、彼と比べるとまるでおもちゃのように小さい紙袋を懐から取り出して少女に渡した。


「どこから出しているのよ……」


 つぶれてないといいけど、と不満をもらしながらも、少女は紙袋を受け取って中身を確認すると、安堵の息を吐いた。

 それからやっとユウリの存在に気づき、大きな瞳をますます大きく見開いた。


「ちょっと、お客さまがいるのなら、先に言ってよね!」


 恥をかいちゃうじゃないと、ほんのりと頬を染めているのが愛らしい。

 少女は紙袋を背後に回すと、ユウリに向かって軽く頭を下げた。


「あたし、この男の監視役のアスミです」

「あ、汐見ユウリです。……監視役?」


 どういう意味なのだろうと首を傾げるユウリに対して、アスミと名乗ったまだ十歳ほどの幼い少女は胸を張りながら言うのだった。


「この男が粗相をしでかさないようにあたしが監視しているの」

「粗相?」


 たしかに大男は、目の下の黒い隈のせいで不気味に感じるけれど、その落ち着いた声音と、この店までユウリ連れてきたときの態度から考えると、優しい人物なのだとユウリは思った。とても、粗相――過ちなどの危ないことをするような人物には思えない。


「ま、詳しくは言えないけどね。あんたもこの店に来たということは、これからよくわかることになるわよ。この男の怖ろしさが」


 すごみ、驚かすような声音で言ってくる少女。どちらかと言うと、少女の言葉遣いのほうが接客業としてはアウトのような気がする、とユウリは思ったものの相手はまだ小学生ぐらいの少女だ。わざわざ口には出さなかった。

 ユメクイが大きくため息を吐いた。


「お客さまに失礼だろ。あとで紅茶持っていってあげるから、その洋菓子をおやつにでもしたら?」

「まだ昼の十二時よ。ティータイムじゃなくって、ランチが先だと思うのだけど」

「だったらランチも用意しとくよ。とにかくアスミは裏にいなさい。お客さまの迷惑になるのだから」

「こういうときだけ子ども扱いするのやめてよね。あたしはこうみえてもモガモガ」


 なにらや声を張り上げていたアスミだったけれど、ユメクイにより口を押えられて、大きな巨体からは考えられないほどの素早さで、バックルームに連行されてしまった。

 音を立てて閉まった扉の向こうからまだ何か言い合いが聞こえてきている。少女の発言が少し気になったユウリだけど、せっかく淹れてくれたミルクティーが冷めてしまうのがもったいなかったので、そっとマグカップに口をつけた。



「改めて。僕はこの喫茶店――『レーヴ』の店主、獏と申します」

「獏? 変わった名前ですね」

「そうでしょ? アスミは僕のことを、ユメクイと呼びますけどね」


 ハハッと笑い、頬を掻く店主の獏。


「あの。この店に入る前、窓ガラスに開店セールって書いてあったのですが、もしかしてこの店はまだできたばかりなんですか? 商店街には子供の頃によく遊びに来てたけど、この店は見たことがなくて」

「ええ、そうなんです。先日オープンしたばかりなんですよ。……ただ」


 獏は悲しそうに眼を伏せた。


「お客さまは、あなたが初めてです」

「ここ、商店街の隅で分かりにくいから、新聞の折り込みチラシとかもっとつかって宣伝してみると良いかもですよ。紅茶、美味しいですし」

「……ありがとうございます」


 丁寧にお辞儀をする獏を見ていると、先ほどアスミと言う少女が口走っていた「粗相」という言葉は、やはり彼には似合わないな、とユウリは思った。


「ところで、お身体はもうだいじょうぶですか?」

「ええ。すっかり、めまいはなくなりました」


 めまいと、吐き気。自分が彼の前で無様にも倒れ込んでしまった理由は、病み上がりだということにしておいた。ほんとうは別の理由があるのだけれど、気軽に話せるような内容ではない。


「それは良かった。あ、よろしければランチもいかがですか? アスミの分を用意するついでですので」


 さすがにそこまで厄介になるわけにはいかないと断ろうとしたユウリだったが、その前に正直なお腹が「ぐぅぅ」という声を上げてしまった。

 苦笑する獏。

 ユウリも苦笑いをすると、「それじゃいただきます」と小声で答えた。



 ツナとレタス、卵にハム。出来立てのサンドウィッチを頂いたユウリは、口元を紙ナプキンで拭うと、ゆっくりと手を合わせた。


「ごちそうさまです。美味しかったです」


 カウンターの内側では、獏が新しい紅茶を淹れているところだった。

 一人分の紅茶を見て、ユウリは首を傾げる。

 そういえば、獏はユウリをこの喫茶店に連れてきてから一時間弱、お昼どきだとうのに先ほどのサンドウィッチどころか、水すら一滴も飲んでいないはずだ。ほとんどカウンターのユウリの見える範囲にいたからおそらくそのはず。いま淹れている紅茶は、ついっさっきアスミがおかわりしたものである。彼は飲まないのだろうか?

 そう訊ねると、獏は言いにくそうに言葉を濁してしまった。


「僕はまだ喉が渇いていませんので」

「そうですか」


 納得すると、ユウリは掌サイズの小銭入れを取り出した。いつまで経っても戻らないと、母親が心配してしまうだろう。連絡を取ろうにも、コンビニに行くだけのつもりで出てきたユウリは、携帯を持っていなかった。


「あの、いくらですか?」

「ああ、お代は結構ですよ」


 さすがにただで紅茶やランチをごちそうになるわけにはいかない。

 小銭入れの中を確認すると、五百円玉が入っている。これで足りるといいけれど。

 そんなユウリの心配をよそに、獏は隈の濃い瞳を細めると、なおも首を横に振った。


「お金はいりません。もとより、ここは喫茶店ですが、紅茶や軽食にお金は頂いていないのです」

「え? 喫茶店ですよね? 食事にお金がかからないってことですか?」


 もしそれが本当だとすると、だいぶ変な店なのではないだろうか。いまどき慈善だけで店が儲かるとも思えない。


「ええ。お金はね、僕には必要ありませんから。……ああ、でも、そうですね。もし可能であればですが、お金のかわりに『記憶』とか頂けると助かりますね」

「記憶? それは、いったいどういう……?」


 困惑するユウリに構うことなく、獏は何食わぬ顔であっさりと告げた。


「僕は人間ではなく、獏、ですからね。人間の記憶をお代としていただくために、この喫茶店をやっているのです」

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