ユメクイ獏は必要ですか?
槙村まき
第一章/喫茶店『レーヴ』①
足元で、プチと何かが潰れる音がした。足を上げてみると、それは虫だった。黒く、小さな虫。どんな虫だったのかはわからない。
全力疾走だった。体は震えていた。ガチガチ、と歯まで打ち鳴らしていた。
脇目もふらずに走っていたはずのユウリは、ハッと足を止めると一歩後ずさる。
これ以上は無理だ。これ以上は行ってはならない。この先には、アレがある。
ユウリの足は前には動かなかった。
回れ右をすると、ユウリは今度こそ本当に自分の意志で逃げだすのだった。
――これで何回目だろうか。コンビニまで行くだけだというのに、どこにも行けずに家に帰ることになってしまうのは。このまま家に帰ったら母親からまた小言を言われてしまうだろう。「二十六歳にもなって引きこもっているなんて情けない」とは母親の口癖だ。それに加えて、今日もまた「コンビニにも行けないなんて」とよけいに憐れまれてしまうかもしれない。
そう思うと、自宅に向ける足も重くなる。
引きずるようにユウリは歩を進めていた。
その時。
「すみません」
落ち着いた男の声とともに、ユウリの頭上に大きな影が差した。
ハッと顔を上げて、ユウリは大きく口を開いた呆けた顔のまま固まってしまう。
大きな男だった。身長は優に二メートルを超えていて、毬藻みたいに膨らんでいる胴体に、ちょこんと乗っているだけのような顔、細い手足の奇妙な男。
「道を探しているのですが」
その言葉を聞いた瞬間――いや、もうすでに大男の顔を見た時から、ユウリは怯えていたのだけれど――とうとうユウリは悲鳴を上げた。
全力で、その場から駆け出した。
なんだろう。今日は、よく走る日だ。引きこもっていた体が重く、怠い。
こんなことになるのなら、勇気を出して買いものに行こうとなんてしなければよかった。
そんな後悔が押し寄せてくる。
◇◆◇
昼過ぎだというのに布団を頭まで被り、眠っているフリをしていたユウリの布団が、ガバッと開かれる。そこには、どこか冷めきった瞳の中年女性――ユウリの母親がいた。
「ちょっと、ユウリ。コンビニで、これ、買ってきて。今日こそだいじょうぶよね?」
ずいっと、目の前にメモ用紙を押し付けられる。それに抗うすべもなく、ユウリはそのメモ用紙を素直に受け取った。
「じゃ、よろしくね」
ひらひらと手を振り、母親が部屋から出ていく。取り残されるような形となったユウリは、とりあえず布団から出ることにした。クローゼットのなかから適当服を選び、着替える。それから部屋を出ると、洗面所の鏡に目を向けることなく、水道の蛇口をひねり、バシャバシャと顔を洗った。
「化粧は、いらないか」
どうせコンビニに行くだけだ。ユウリはやはり鏡を見ることなく、玄関に向かった。
靴を履いていると、背後から母親に声をかけられる。
「がんばって行ってらっしゃい」
コンビニに行くだけなのに大げさな母親だ、なとどとユウリは思わなかった。むしろ引きこもり生活一年の自分に、いまだに励ましの言葉をくれる母親には頭が上がらないぐらいである。
外に出ると、ユウリはコンビニのある方角とは真反対の道に向かった。いつも使う道の近くにはアレがある。いままでの反省を生かして、なるべくアレには近づかないようにしたいがためだった。遠回りになってしまうのは仕方ないだろう。
住宅街の道から大通りのある道まででると、ユウリは足を止めた。この道から右に曲がると夏の祭り以外では活気のない小さな商店街があり、左に曲がると通学路がある。
気持ち的には右に曲がりたいユウリだったが、右に曲がるとコンビニにたどり着けなくなってしまうので、深呼吸を数回してから意を決すると、左に曲がった。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。そう、自分に言い聞かせる。確かにこの道は通学路だ。ユウリの家の近くには小学校と中学校がある。それが小さな通りを挟んで連なっているため、この一本道の通学路を通るだけでそれぞれの学校に行くことができる。
だけどユウリが行きたいのは学校ではなくコンビニ。コンビニは、通学路の途中の少し曲がったところにある。
コンビニに行くために、彼女は重たい足取りで、おそるおそる通学路を歩いていた。昼前の時間だからか、学生はもちろん人通りもほとんどない。それなのに緊張して足がうまく進まない。時たま通り過ぎていく自由奔放な猫にさえ驚かされている。生きた心地がしない。
一度足を止めて、ユウリは深呼吸をすることにした。
息を吸って、吐いて――「わっ!」と、ユウリは突然の出来事に大きな声をあげた。
「あ、ああ、すみません。驚かせるつもりはなかったのですが、前回ともどもご迷惑おかけします」
一瞬だけだ。ユウリは一瞬だけ、目を閉じていた。その一瞬の間に、いつのまにやら目の前にどこかで見たことのある大男が現れていた。
毬藻みたいな体と、何よりも昨日ユウリを恐怖させた彼の顔。人の顔が怖いなんて失礼も甚だしいのだけれど、彼の場合はどうしようもないほど濃い隈が、その闇が、ユウリを恐怖させていた。
喉元まで、悲鳴がせり上がってくる。
落ちつけ、落ちつけ。
自分に言い聞かせる。
ユウリはまだ相手のことをよく知らない。それなのにまた悲鳴を上げて逃げ出してしまったら、それこぞ相手に対して失礼になるだろう。
闇のように濃い隈を極力見ないように視線を落として、ユウリは地面を見ながら口を開く。
「あ、あの。その、昨日は、私も……」
その時、「あはは」と和やかな笑い声が遠くから聞こえてきた。
視線を上げると、ちょうど大男の隣を、その笑い声の主たちが歩いて行くところだった。
あはは、と、くだけた笑い声を上げている二人組の女子中学生たち。
なんで、とユウリは呆ける。
まだ昼過ぎ。二月と言えど、中学校はまだ授業があるはずなのに。
中学生二人組は大男にも、ユウリにも目もくれることなく、楽しそうに笑い合いながら、遠ざかっていく。
その中学生の後ろ姿に、知らずのうちに彼女の姿が重なった。
いや、彼女たちの姿だ。
あははははっ、あはははははっ――と、ユウリを嘲笑ってきたあの笑い声が。
うっ、と喉もとまで込み上がってくるものがあった。
口を押えてうずくまったユウリに、驚いた大男が声をかけてきた。
「だいじょうぶですか?」
気を失いそうになりながら、その落ち着いた男の声音を、ユウリは確かに聞いていた。
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