Kの手紙(バッドエンド現代ドラマ)(4100字)


 Kの骨箱は部屋の片隅に置かれていた。

 細い煙をあげている線香を香炉に立て静かに両手を合わせる。

 しおれ始めた供花が頭を下げて礼を言っているように見えた。


「こんな形での再会となってしまって、本当に言葉もありません」


 背後からKの妻の声。少しくたびれてはいるが昔と同じ透き通る響きだ。


「いや、無沙汰はお互いさまだよ。いつか挨拶に行かなきゃとは思っていたんだけど、新婚の邪魔になりそうな気がしてつい延ばし延ばしになってしまった」

「新婚って……もう1年もたつのに。余計な気の回し方は学生のころと全然変わってないのね」


 彼女の口調が昔に戻った。思い出す。わたしたち3人は大学の同級生だった。

 と言っても在学中の4年間、ずっと親しかったわけではない。むしろ最初はKを避けていた。これはわたしだけでなく彼女も他の学生も同じだったと思う。

 その原因はKの異常なまでの正義感にあった。入学早々、サークルの新歓でKが大暴れをしたというニュースはすぐに広まった。


「未成年者がいる歓迎会で酒を提供するとは何事だ!」


 これがKの怒りの原因だったらしい。飲みたくない者は飲まなくてよいというルールだったようだが、それでもKは納得せず全てのアルコール類を撤去させたそうだ。もちろんそんな振る舞いをしてサークルに所属していられるはずもなく、Kは数日でやめてしまった。


「君、きちんと並びたまえ」


 彼の正義は時と場所と相手を選ばず発動した。列の割り込みは言うに及ばず、おかしな箸の持ち方、乱暴な言葉遣い、口を覆わないくしゃみ、数え上げればきりがない。そして彼に逆らえる者は一人もいなかった。正義は常にKの側にあり、悪は必ず注意される側にあったからだ。


「水清ければ魚棲まずって知っているかい」


 そんな言葉を投げかける者もいたがKは聞く耳を持たなかった。誰もが彼を避け始めた。講義室でも食堂でも廊下でもKは常に一人で行動していた。そうして3年が過ぎた。


「うわ、よりによってKと同じなのか」


 4年になって研究室所属となった。学部生のメンバーはわたし、K、そしてKの妻の3人だけだった。それまでは極力Kを避けていたが同じ研究室になればそうも言っていられない。毎日顔を合わせ、会話をし、実験をする。やがてKに対する印象が変わり始めた。


「こいつ、意外と頼りになるじゃないか」


 教授や院生に対して少しも物怖じしない。疑問点は納得いくまで質問を繰り返す。敵に回すと厄介だが味方になればこれほど心強い男はいなかった。

 それにKの気性は基本的に荒くはない。自分の正義に従わない者には容赦しないが、素直に受け入れる者に対しては聖母のように優しいのだ。やがてKとの付き合いは心地良さすら感じるものになっていった。


「君たち二人とは気が合いそうだ」


 Kもまたわたしたちに信頼を寄せてくれた。自分の時間を削ってわたしたちの実験やデータ解析を手伝ってくれた。おかげで卒論は余裕を持って提出できた。


「あたしはK君と一緒に院に残るから」


 Kと彼女は院へ進学しわたしは就職した。卒業後しばらくは電話をしたり遊びに来てくれることもあったが、二人が就職し結婚してからはほとんど付き合いはなくなってしまった。あの二人ならどこへ行ってもうまくやっていけるだろう、そう思っていたからこそ数日前に届いたKの訃報はあまりにも衝撃的だった。


「交通事故か。慎重なKにしては珍しいミスだな」

「飛び出してきたタヌキをよけようとした可能性が高い、警察はそう言っていました」


 夜間、田舎道を運転中にガードレールを突き破って崖下へ転落、発見時はすでに心肺停止状態、それがKの事故の全てだった。他人を巻き込まなかったことは不幸中の幸いと言えるだろう。葬式は近親者だけで済ませ、初七日が過ぎてからわたしに手紙を送ってきたのだった。


「Kが死んだこと、他の同級生には知らせたのかい」

「いいえ。あなたにしか教えていません。実は言うとあなたにも教えるつもりはなかったのです。でもこんなものが見つかったものですから」


 彼女が差し出したのは真っ白な封筒だった。わたしの氏名が表書きされている。一目でKが書いたとわかる几帳面な筆跡だ。手に取って裏返すと封はきっちりと糊付けされ封蝋まで押されている。


「読んでいいのかい」

「どうぞ。そのために呼んだのですから」


 彼女から手渡されたハサミで封筒の上部を切り、数枚の便せんを取り出した。表書きと同じ几帳面なKの文字が羅列している。わたしは読み始めた。




 S、元気でやっているか。この名を書いただけで懐かしが込み上げる。結婚式以来会っていないが私の中にはいつも君がいた。初めてできた友人、そして結局唯一の友人となってしまった男。そう、君に会うまで私には友と呼べる人間がいなかった。原因はわかっている。私の性格のせいだ。


 とにかく不正が嫌いだった。他人に対してだけではない。私の矛先は家族や親類にも向けられた。今思うとずいぶんと生意気な子どもだっただろうな。誰からも疎んじられていたように記憶している。


 それでも私は平気だった。自分の言動は正しいと思っていたし、私を論破できる人間など一人もいなかったのだから。

 わかっていたよ。君も最初は私を避けていたのだろう。その点では他の学生たちと同じだった。それでも君と友人付き合いができたのは、君の正義と私の正義が似通っていたためかもしれないな。

 君の正義が私への気遣いによるものなのかそれとも本心からなのか、それは今でもわからないが、とにかく君に注意を与えることはほとんどなかった。それは私の妻に対しても同じだった。正義を振りかざす必要がなかった。これほど気を置けずに付き合えたのは君たち二人が初めてだったよ。


 もっとも君にとって私は大勢の友人たちの一人に過ぎなかっただろう。それは卒業後の君の態度を見て理解できた。連絡をするのは必ずこちら側から。会いに行くのも必ずこちら側から。同級生でなくなってしまえばもう付き合う必要はない、そう言われているような気がした。君との友人付き合いは卒業と同時に終わってしまったのだね。


 それでも私は以前の寂しい私ではなかった。これからの人生の伴侶となってくれる妻がいたのだから。たった一人でも私の理解者がいてくれる、それだけで私は十分満足だった。そう、あの日までは。


「すまない……」


 それは私が人生で初めて口にした言葉だった。他人への謝罪。それまでの私は一切ミスを犯さなかった。だから私は他人に謝ったことは一度もなかった。正義は常に私の側にある。正義が謝ることなどあってはならない。謝った瞬間、それは正義ではなくなるからだ。しかしその時の私はそう言うしかなかった。


「これは祖母の、そして母の形見でしたのに……」


 妻はそれを赤子のように胸に抱いていた。つい今しがた私が壊したものだ。もちろんわざとではない。不注意で破損してしまったのだ。私は激しく動揺した。故意ではなく過失だったとしても他人の財産を損ねるような行為をしたのは初めてだった。


「本当に、すまない」


 そう言うしかなかった。他に何と言えばいいのか思いつかなかった。

 妻は何も言わなかった。何も言わずに私を見ていた。妻の沈黙とその眼差しは私をいっそう苦しめた。妻の瞳は正義に満ちていた。普段の慈悲深い光は消え、鬼を踏みつける毘沙門天の如き激しさを放っていた。そして私はようやく悟ったのだ。それは私が正義を振りかざす時に放っていた眼差しであり激しさだということに。


 これまで私は他人を誹ることに何の躊躇も抱かなかった。厳しい言葉も高圧的な態度も悪の前では許されると思っていた。だがそれは必ずしも正しくはなかったのだ。過失による悪と故意による悪を同等に扱ってよいのだろうか。いや、たとえ故意だとしてもそれしか選択肢がなかったとしたらどうだろう。

 私は間違っていた。全ての悪は糾弾されるべきという考えは間違っていた。許さねばならない悪もこの世には存在するのだ。


「……」


 妻は口を閉ざし続けた。悲しみと憎しみと非難に満ちた目で私を見つめていた。

(こんな目で私は他者を批判してきたのか)

 胸がキリキリと痛んだ。まるで鏡を見ているような気がした。今日まで私はこんなにも残酷な視線で他者の心を踏み潰してきたのだ。

 許せなかった。これまでの自分が許せなかった。私は紛れもなく悪だ。無差別に正義を振りかざす悪漢だったのだ。ならば罰を与えねばなるまい。


「どんな償いでもする。何をして欲しい」

「何もしなくて結構です。同じものは二度と手に入らないのですから」

「それなら何か罰を与えてくれ」

「その必要はありません。悪意を持って壊したのでないのならそれは罪にはならないのですから」

「しかしそれでは私の気持ちが……」

「この話はこれで終わりにしましょう」


 妻は居間を出て行った。悪である私を罰するつもりはないようだ。しかしそれは私の正義が許さなかった。誰も罰してくれないのなら自分の手で罰するしかない。今の自分を、そしてこれまでの自分を罰することこそが正義である。私という存在は社会にとってずっと悪だった。物心ついた時から正義の名のもとに他者の心を踏みにじってきた私は常に悪だったのだ。これだけの巨悪を罰するには極刑をもって臨むしかない。それが私の結論だった。


 君がこの手紙を読んでいる時、その罰はすでに執行されているはずだ。それについては微塵も悔いはない。しかしひとつだけ心残りがある。妻だ。カンのよい妻は私の死が事故でないことも、その理由を自分が作ってしまったことも気づいているはずだ。一人残された妻の傷心を思うと胸が痛む。君も知っているように妻は一人っ子。母はすでに亡く、離婚した父とはほとんど交流がない。こちらに越してきてから親しい友人もできていないようだ。しかし君なら任せられる。少しでいい、妻を慰め力づけてやってほしい、その願いをこめてこの手紙を書いている。虫のいい話であることはわかっている。だが今の私には君しか頼れる友人がいないのだ。どうか私の最後の願いを聞き届けてほしい。そして無様な生き方しかできなかった私を腹の底から嘲笑し軽蔑してほしい。それこそが今の私がもっとも欲している君からのご褒美なのだから。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る