壁の向こう(ファンタジー)(1500字)
少年は壁の内側で育った。少年だけではない。誰もが壁の内で生きていた。壁の外に何があるのか、どんな世界が広がっているのか、内にいる者は一人も知らなかった。ひとたび壁を越えてしまえば二度と内へ戻れないからだ。
それでも人々は満足だった。肥沃な土地と温暖な気候が多くの恵みを与えてくれた。何ひとつ不自由のない暮らし。豊かな緑と澄んだ青空と心地良い風さえあれば誰もが幸せを感じられた。
「ねえ、壁の向こうって気にならない」
ある日、幼馴染の少女が冗談めかした口調で言った。
「別に。そこに何があろうとボクらには関係ないもの」
「あたし最近聞いたの。壁を越えれば今とは違う自分になれるんだって」
「今と違う自分になる必要なんかないよ」
「このままいつまでも同じ自分なら生きている意味がないと思わない。ねえ、壁の向こうへ行ってみましょうよ」
「無理だよ。越えようとすれば壁の守護像によって命を奪われるって話じゃないか」
「それも聞いたの。お日様が天頂を過ぎる数分間だけ守護像は目を閉じて休憩するんだって。その隙に越えてしまえばいいのよ」
それは少年にとって初めて聞く話だった。怖れているのは壁自身ではなく壁を見張っている守護像である。今、その恐怖が取り払われたのだ。
「ねえ、行ってみましょうよ」
「う、うん、そうだね」
少女に言われて少年は歩き出した。壁は遠い。歩いて行けばひと月はかかる。そして壁は全て坂の上にある。少年たちは谷底に住んでいるのだ。彼らの住居の周囲はぐるりと山に取り囲まれ、山の尾根に長城のような壁が連なっているのである。
「上り道は疲れるね」
二人は歩いた。森の中の果実を食べ、岩から染み出す湧き水を飲み、ひたすら上り坂を進んで山の尾根を目指した。
やがてある日の夜明け頃、二人は壁まであと数十歩の地点へ到達した。
「ここでお日様がてっぺんに昇るのを待ちましょう」
「うん、でも壁ってずいぶん低いんだね」
尾根に連なる壁は大人の背丈より少し高いくらいだった。思いっ切り跳び上がれば壁の上部に手が届きそうだ。二人は道すがら手に入れたウルルの実で喉の渇きを癒しながら時が来るのを待った。
「そろそろね」
お日様は青空の天頂にある。二人はそろそろと壁に近付いた。守護像に変化はない。
「行くわよ」
駆け出す二人。その勢いのまま壁に向かってジャンプする。ダメだ。二人とも届かない。もう一度ジャンプ。やはり同じだ。指一本ほどの差で壁の上部に手が届かない。
「肩車してあげるよ。そうすれば壁に登れるだろう。そのあと上から手を伸ばしてよ。君の手につかまって勢いをつけて壁を蹴れば、なんとか上によじ登れると思うんだ」
「うん、わかった」
しゃがんだ少年の肩に少女が乗った。そのまま立ち上がると少女の両手が壁の上部に届いた。少年は両手で少女の足を持ち上げる。
「登れた! さあ次はあなたの番よ。つかまって」
壁の上から少女が手を伸ばした。少年はありったけの力を込めて跳び上がった。
――バシュ!
鈍い音がした。同時に少年は背中に衝撃を感じた。何が起きたのかすぐにわかった。守護像が動き出したのだ。
壁の上で手を伸ばしたままの少女の姿がぼやけ始めた。少年は自分の最期を感じた。
「行って、君一人で……」
視界が赤く染まった。声と同時に口から噴き出した血は生温かった。
「行くわ」
少女の顔は喜びに満ちていた。少年を失った悲しみより壁を越えられる嬉しさのほうが勝っていたのだ。それは少年も同じだった。彼女の喜びの笑顔の前では、ちっぽけな自分の死などもうどうでもいいことだった。
「さようなら」
壁から飛びたった少女は青空の中へ消えていった。まるで鳥かごから解き放たれた小鳥のようだ……最後の意識の中で少年はそう思った。
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