御歩町の地蔵(現代ドラマ)(1300字)

 学生時代、私は北陸のK市で下宿生活をしていた。

 市街地北東を流れる川を渡って徒歩で数分の場所、三階建て一軒家二階の一室を間借りしていた。

 その辺りは古くからの家が立ち並び、細い路地を歩いていると思い掛けなく時代劇のような土塀や門に出会ったりする。そのたびに私はかつてここを歩いていた武士たちと同調したような錯覚に囚われた。今もまだこの路地は藩政期の時代を生きているのではないか、そんな気さえした。


「今日は早いお帰りだね」


 ある日の夕方、いつものように川に架かった小橋を渡り終えると、一人の老人が話し掛けてきた。初めて見る顔だがどこかで見たような気もする。


「あ、はい。今日は最後の講義が休講だったので」


 答えながら考える。この老人は誰だろう。口振りからすると私を知っているように思われるが。


「そうかね。今どき歩いて通学とは珍しいね。自転車かバイクを使う者ばかりだが」

「歩くのが好きなんです。それに雪が降れば自転車は使えませんしバイクの免許は持っていませんから」


 私の返答がよほど気に入ったのだろう。老人は顔を皺だらけにして微笑んだ。


「この辺りの旧地名を知っているかね」

「いえ、知りません」

御歩おかち町、かつて歩士かちと呼ばれた武士たちの屋敷があったのがその由来と言われておる。歩士は士分ながら身分は低い。騎乗は決して許されず殿様への御目通りも叶わぬ。馬上から見下ろされただひたすら歩くだけの者たち。だがその志は高かった。誰もが胸を張って歩き続けた。今のおまえさんのようにな」

「胸を張ってだなんて……別にそんな大層な考えはありませんよ。それにやがては免許を取って車に乗るかもしれませんし」


 急に風が吹いて夕暮れの日差しが消えた。細い路地が薄暮の中へ沈む。


「そうだな。時代は変わった。当時は一生を歩いて過ごさねばならなかった歩士たちも、今は望みさえすれば誰もが歩くことをやめられる。良き世になったものだ。おまえさんもやがては歩士ではなくなるのだろうな」


 老人の口調に非難めいたものはなかった。諦めと哀愁が言葉になって風に散っていくようだった。


「たぶんそうですね。でもここに住んでいる限りは歩いて通学するつもりです。この路地に自転車やバイクは似合わないと思うので」


 不意に日差しが戻ってきた。細い路地に暮れかけの陽光が降り注ぐ。


「おまえさん、ひとつ良いことを教えてあげよう。明日はこの路地を通らずに帰りなさい」


 老人はそう言うと背を向けて歩き出した。



 次の日、私は老人の忠告に従い小橋の下流にある大橋を渡って下宿に向かった。普段はあまり利用しない路地を歩いていると突然大きな衝突音が聞こえてきた。


「なんだろう。事故かな」


 音が聞こえてきたほうへ走る。人影が見えてきた。いつも歩いている細い路地だ。自動車がとまっている。その前部は土塀に当たって少し歪んでいる。


「すみません。カーナビに気を取られて……」


 運転手らしい男性が力のない声で謝罪している。タイヤの近くには土塀の前に置かれていたらしい地蔵の頭が転がっていた。事故の衝撃で壊れてしまったようだ。


「こんな場所にお地蔵さんが立っていたのか」


 今日までまったく気づかなかった。ほとんど毎日この地蔵に見守られてこの路地を歩いていたのだろう。私はしゃがみ込んで地蔵の顔をまじまじと見た。昨日の老人によく似ていた。


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