仙人は霞を食べて生きている(現代ドラマ)(5700字)
荒涼とした風景がひろがっていた。
私がいるのはアジア最大の領土を誇る国、中国。その広大な領土の西端にそびえる山岳地帯だ。時折硫黄の臭いがするのは近くに温泉でも湧いているからだろうか。
「あそこのようだな」
殺風景な岩場の一角に人の背丈ほどの穴が開いた岩壁があった。事前に調べておいた特徴とよく似ている。どうやら目的の場所にたどりつけたようだ。
「長かったな」
岩に腰を下ろして水筒のお茶を飲む。わざわざ日本から海を越えてこんな辺鄙な場所へやってきたのは仙人に会うためだ。
その存在を知ったのは数カ月前。ネットのとあるサイトでこんな記事を見つけた。
「何も食べずに数年間暮らしている日本人が中国にいる。地元の人々は彼を仙人と呼んでいる……ふっ、くだらん」
最初は鼻にもかけなかった。よくあるフェイクニュースに過ぎないとすぐに忘れてしまった。
しかし同じような記事をさまざまなサイトで目にするようになると、そうも言っていられなくなった。実際にその男に会った人物の手記もあった。画像も動画もないレポートではあったが、どことなく真実味を感じさせる内容だった。ジャーナリストの血が騒ぎ始めた。実際にこの目で見て話を聞き真偽を確かめたくなった。
「行くか」
決断すれば即実行が私の本分。直ちに旅の手配を済ませ、今日、こうして目的の地までやってきたのだ。
一服した私は岸壁の穴に近寄り声をかけた。
「こんにちは。
仙人の姓は千任、年齢は30代、日本人の男性、事前の調べでわかったのはそれだけだ。
しばらく待っていると男が姿を現わした。驚いた。身に着けているのはシャツとスラックス。まるで都会のビジネスマンだ。
「ああ、もしかして取材の方ですか」
笑顔で答える男は健康そのものだった。私は右手を差し出した。
「はい。はじめまして。私は
「構いませんよ。どうぞ」
男は握手をすると岩に腰を下ろした。私も座りカメラのレンズを彼に向けた。が、シャッターを押す間もなく彼の手のひらがこちらに向けられた。
「すみませんが撮影や録音は禁止です。私は構わないのですが当局からの許可が下りていないのです。こっそり隠し撮りしても無駄ですよ。ここへ来る途中のゲートに警備員がいたでしょう。帰る時には厳重な持ち物検査と身体検査が行われます。もし撮影の事実が判明すれば機材は全て没収されてしまうでしょう。カメラを手放すのが嫌ならご遠慮ください」
なるほど。どんなに検索しても仙人に関する画像や動画が見つからなかった理由がやっとわかった。確かにここへ来る途中、こんな僻地には似つかわしくない立派な見張り所があった。
「わかりました。それではメモを取らせてください」
「どうぞ。ただし文字だけにしてください。デッサンなどでもあまりに正確すぎると没収の対象になりますから」
随分と厳重な管理をしているな。この男にそれだけの価値があるとは思えんが。もしや、本当に仙人なのかもしれないな。内ポケットから手帳とペンを取り出す。
「それでは前置きなしで本題に入りましょう。あなたが霞だけを食べて生きているというのは本当ですか」
「う~ん、それは正確ではありません。霞は食べますが水も飲んでいます。口にするのはそれだけです」
「ここに来て何年になりますか」
「三年とちょっとですね」
「その間、水と霞だけで生きてきたのですか」
「はい」
「食べ物を一切口にしなかった証拠となるようなものはありますか」
「いいえ、ありません」
「では、あなたの言葉が真実だと証言してくれる人はいますか」
「いいえ、いません」
「ならば、あなたが仙人であるかどうかを証明できるモノはありますか」
「いいえ、まったくありません」
男はにこやかに返事をする。私は言葉に窮した。これでは男が本物の仙人であるかどうか判断できない。いや、むしろ大嘘つきである可能性のほうが大きい。こんな言葉を聞くためだけに金と時間を費やしてここまで来たのかと思うと情けなくなってきた。
「落胆させてしまったようですね。私の言葉を信じろと言っても無理な話ですからね。お詫びに私の身の上話でも聞いてはくれませんか。少しはあなたの慰めになるかもしれませんよ」
力なく頷くと男は話し始めた。
「ここへ来る数年前まで私は平凡な日本人にすぎませんでした。普通に大学を出て普通に会社へ入り普通にサラリーマンとして日々を送っていました。私の仕事は腸内細菌を活用した新薬の開発でした。ご存知のように腸内細菌はさまざま物質を作り出します。大腸菌のように毒素を生成したり、ビフィズス菌のように乳酸や酢酸を作ったり、腸を持つ動物とそこに住む細菌は切っても切れない関係にあると言っていいでしょう。仕事はそれなりに順調でした。このまま定年まで平凡な会社員として生きていく、そんな人生に私は満足していました。しかしある日、衝撃的な出来事が起きたのです。私には学生時代から付き合っている女性がいました。同じ会社に入り、同じ部署で、同じ仕事を任されていました。結婚相手は彼女しかいない、もちろん彼女も同じ気持ちのはず、私はそう信じ込んでいました。ところが違ったのです。彼女が選んだのは私たちの上司にあたる男、会社の重役の息子だったのです。その話を聞かされた時、私は人生に絶望しました。好意を寄せていた女性が他の男と結婚する……今考えれば取るに足りないありふれた出来事にすぎません。が、その時の私にとっては自分自身を全否定されたような衝撃だったのです。
『くそ、もうどうなろうと知るものか。俺の人生は終わったんだ』
ヤケになった私は研究中の細菌にデタラメな処理を施しました。放射線を照射し、劇薬に浸し、高温と低温を繰り返し、高圧を負荷し、真空状態に晒し、研究室で出来得る限りの処理を繰り返したのです。そうして突然変異を起こして変質した細菌をカプセルに入れて私は飲み込みました。そう、死ぬつもりだったのです。ところが、
『妙だな』
死ぬどころか身体には何の異変も起きません。むしろ以前より健康に感じられるくらいです。しかも不思議なことに空腹を少しも感じないのです。何も口にせぬまま一週間が過ぎた時、さすがにこのまま放ってはおけないと感じました。食べ物を摂取せずに健康を保てていられる原因はただひとつ、滅茶苦茶な処理をした腸内細菌の他に考えられません。仕事の合間に私は自分の腸内細菌を調べました。そして驚くべき事実を発見しました。変異した腸内細菌たちが必須栄養素を作り出していたのです」
男はここで話を切ると、ニコリと笑って私の顔を見た。まだ話の続きが聞きたいか、そう尋ねられているような気がした。少し考えて話し掛ける。
「その、必須栄養素でしたっけ、それは何ですか」
「人間が生きていく上で欠かせない物質です。水、必須アミノ酸、必須脂肪酸、ビタミン、ミネラル。これらは人間の体内で生成できないので食物として摂取しなくてはなりません。私の腸内細菌はこれらのうち必須アミノ酸、必須脂肪酸、ビタミンを全種類生成していたのです。ですから空腹を感じなかったのです。必要な栄養は全て体内で作られていたのですからね。ただ、水だけは飲んでいました。ミネラル水ですが」
「いや、待ってください。それはおかしいでしょう」
随分と無茶な屁理屈だと思った。いかに特殊な腸内細菌だとしても、それだけで生きていけるはずがない。
「必須栄養素を作るにしても材料が必要でしょう。それらの材料を腸に送り込まなくては細菌だって作るに作れないはず」
「そう、私もそう思いました。しかし材料は空気中にあるのですよ」
「空気中に?」
「必須栄養素の構成元素はほとんどが水素、窒素、酸素、炭素。そして硫黄です。硫黄はさすがに空気中にはありませんが、窒素も酸素も空気の主成分。そして二酸化炭素の形で炭素も空気中に存在しています。水素は言うまでもなく水の構成元素です。ですから空気を腸に送り込みミネラル水を摂取すれば、あとは腸内細菌がそれらの材料を使って必須栄養素を作り出してくれていたのです。幸いなことにこの地は大気中に硫黄ガスが漂っているので、空気を取り込むだけで硫黄も摂取できます。また山麓から湧き出る地下水には必要なミネラルが全て含まれています。よって意識的に空気を食べ、湧き水を飲むだけで私は生きていけるのです」
ここまで聞いて私の失望は大きな希望へ変わった。彼の話が本当ならまさに仙人だ。
「素晴らしい発見じゃないですか。どうして発表しなかったのです。その腸内細菌を培養して売り出せば大金持ちになるのも夢じゃなかったのに」
「はい。私もそう思いました。しかし二つの理由でそれは実現しなかったのです」
「どんな障壁があったのですか」
「ひとつは変異した腸内細菌があまりにも脆弱だったことです。体外に取り出すと長くは生きていられないのです。温度、湿度、PHなどを調節し腸内と同じ環境に置いても半日も経たずに死滅してしまいました。培養さえ難しい状況でした」
男の顔が曇った。その頃の苦労を思い出したのだろう。
「もうひとつの理由は?」
「上からの中止命令です」
男の顔がさらに曇った。
「当社はこの細菌に関する研究からは完全に撤退する。これ以上その細菌にかかわるな。これまでの関連書類は全て破棄しろ。そして申し訳ないが君はこの部署から身を引いて中国へ行ってもらいたい、そう宣告されました」
「そんな、馬鹿な……」
どうかしている。こんな大発見を闇に葬るなんて正気の沙汰ではない。困惑したまま言葉を失っていると男が悲しそうに笑った。
「そう、おかしいと思いますよね。私も最初はそう感じました。この細菌があれば食料問題は一気に解決するのですから。でも、それこそが撤退の大きな理由だったのですよ」
「と言うと?」
「考えてみてください。この細菌を体内に取り入れれば、人は食料を必要としなくなります。空気とミネラル水だけで生きていけるのですからね。そうなれば食料関連の産業は完全に崩壊するでしょう。農業、漁業、畜産業だけでなく、流通業、小売業にまでその影響は及びます。世界の経済は大混乱に陥るでしょう。この研究を闇に葬ったのは会社の一存だけではありません。政府、それも日本だけでなく世界中の政界、財界からの要請があったのは間違いありません。この腸内細菌の唯一の保持者である私は命を奪われても仕方ない立場にあったのです。今、こうして中国の奥地で生かされているだけでも儲けものだったと言えるでしょう」
男の話を聞いているうちに何とも言えぬやり切れなさが湧き上がってきた。天才を潰さざるを得ない世の中の理不尽さ、しかしそれはこの男に限ったことではない。権力者の都合だけで様々な分野の天才たちが不遇な境地に追い遣られている例は、これまでにもたくさん見てきた。彼もまたそれら多くの者たちの一人にすぎないのだ。
「しかしこれまでにもあなたに会いあなたの話を聞いた人物は大勢いたのでしょう。なのにそんな細菌の話は聞いたことがありません。どうして彼らは公表しなかったのでしょう」
「監視されているからですよ。あなたもそうです。ネットも実生活も通話も、ここに来て私の話を聞いた瞬間、あなたは24時間監視の対象となり、細菌に関する情報は全て封じられてしまうのです」
「いや、それはおかしい」
さすがに話が大げさすぎる。私のような無名な男にそれだけのコストをかける価値はない。
「情報を封じたいのなら、あなたを完全に隔離すればいいだけの話でしょう。どこかの施設に閉じ込めて外部との交流を一切断ってしまえば、それで済む話ではないですか。そのほうが来訪者を監視するより簡単だ」
「そうですね。それなのに私をそんな風に扱わないのは、たぶん、まだ利用価値があるからなのだと思います」
「利用価値?」
「彼らは定期的に私の腸内細菌を摂取しているのですよ。それを使って新薬のようなものを作っているのかもしれません。実はここに来た当初、私は施設内に閉じ込められていました。しかし慣れない環境と誰にも会えない精神的不安定さから、ある日、体調をひどく崩しましてね。数カ月ぶりに食欲を感じ、食べ物を摂取してしまったのです。恐らくその時、腸内細菌の数が激減したのでしょう。その出来事を契機にして私はこうして施設の外に出され、あなたのようにここを訪れる方々と話ができるようになったのです。私の心身の健康を保つために多少の情報漏洩は容認することにしたのではないでしょうか」
あながち間違っているとは言えない推論だ。消化器官は精神の影響を受けやすい。ストレスが溜まると胃痛を感じる者もいるのだからな。
「そうは言ってもにわかには信じられないな。24時間監視だなんて」
「まあ、実際に元の生活に戻ればすぐにわかるでしょう。あまり無茶なことはしないほうがいいですよ。長生きしたいのならね」
男はまた笑った。不吉な笑顔だった。
彼とは小一時間ほど話をして私は帰路についた。帰り道でのゲートでは念入りに調査された。カメラもスマホも専用の機器でメモリの内容を調べられ、鞄の底からパンツの中まで徹底的に検査された。その念の入りようは彼の話の信ぴょう性を高めてくれた。やはりあの男は仙人なのだ、あらためてそう感じた。
日本に戻った私はさっそくツイッターに投稿した。が、すぐに彼の言葉通りになった。細菌に関するツイートはネットに反映されないのだ。ブログや掲示板でも同様だ。ネットの中の私は完全に監視されていた。結局、これまで流布されている情報しかネットには反映されなかった。
「ならば出版社に直接持ち込んでみてはどうだろう」
懇意にしている編集長に話をしたがにべもなく断られた。他の出版社も同様だった。新聞社やテレビ局も同じ反応だった。この話は聞くのも嫌だ、みな、そんな態度だった。
「だが人の口を封じることはできないだろう」
ある日、私はメガホンを持って駅前に立った。街を行く人々に直接伝えるのだ。
「皆さん、聞いてください。私は中国の奥地で仙人に会いました……」
そこまで喋った時、目の前に大型のドローンが舞い降りた。小型カメラの下に装備されている銃口は私に向けられていた。
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