慎重ズボラ~僕の先輩はズボラなくせに慎重すぎる(現代ドラマ)(6600字)
1
長いこと居座っていた秋雨前線がようやく南下を始め、大陸からやってきた移動性高気圧に覆われた秋晴れの週末、僕は滅多に利用しない鉄道の駅へ向かっていた。今日は先輩と一緒に紅葉狩りを楽しむ予定なのだ。
先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩が一年浪人してしまったからだ。
同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。
「それにしても先輩の気紛れには困ったもんだなあ。昨日いきなり言い出すんだから」
先輩は出不精なので休日もほとんどアパートで暮らす。にもかかわらず昨日いきなり「おい、明日紅葉狩りに行くぞ」と言い出した。昼に学食で「本日限定特別焼き鮎ランチ」を食べたからだ。
「う、うまい! この世にこれほど美味なる魚が存在していたとは。今日まで知らなかったとは一生の不覚!」
どうやら鮎を食べるのは初めてらしい。大変な感激ぶりだ。無理もない。普段口にする魚と言えばアジの開きくらいだもんな。
かく言う僕も鮎の塩焼きなんて数回しか口にしたことがない。格安で提供してくれた学食の大盤振る舞いに感謝だ。
「おやおや、こんなもので満足してもらっては鮎が気の毒で仕方ないよ」
いきなり隣席の学生が挑戦的な口調で話し掛けてきた。トレッキングサークルに所属している同級生だ。よほど山歩きが好きなのだろう。一年中登山靴を履き泥除けのゲイターを足首に巻いている変人だ。
「気の毒とはどういう意味だ」
「この鮎は青白いし顔が丸い。明らかに養殖物だ。天然物を食せずして鮎の味を語るなど片腹痛いね」
上から目線の物言いをされて少々ムッとする。そんなことは言われなくてもわかっている。ここは先輩に代わって文句を言ってやろう。
「学食で天然物なんか出るわけないでしょう。こっちは美味しいと思って食べているんです。放っておいてください」
「ヤレヤレ貧乏人の
その通りだ。しかし正直に答える必要はない。ここは嘘でも「バカにするな。一度ならず何度でも食べたことがある」と答えておこう。
「バカにしないでください。天然物の鮎くらい……」
「うむ、ない。一度もない。死ぬまでに食ってみたいものだ」
僕の言葉を遮って先輩が答えてしまった。こんな時に限ってバカ正直なんだよなあ先輩は。
「まあ、そうだろうな」
年中足首ゲイター巻き野郎は不敵な笑いを浮かべるとポケットから何やら取り出した。
「私は
恩着せがましい態度を見せられて少々ムッとする。誰が施しなんか受けるもんか「バカにするな。そんな料理、一日バイトをすれば簡単に食べられるじゃないか」とでも言っておこう。
「バカにしないでください。それくらいの料理……」
「くれ。二枚ともくれ。もちろんタダなんだろうな」
「ああ、何の見返りもなしにお譲りするよ。御登荘のオヤジによろしく伝えてくれ」
またも僕の言葉を遮って先輩が答えてしまった。プライドよりも食欲のほうが数倍勝っているからなあ先輩は。
「よーし、善は急げだ。明日の昼食は御登山で食べる。ついでに紅葉も楽しもう。おやつは三百円までだ。はい決定」
こうして本日、御登山で紅葉狩りを楽しむことになったのである。
「えーっと、現在の時刻は九時五分。ちょうどいい頃合いだな」
駅での待ち合わせ時刻は九時。すでに五分の遅刻である。だからと言って僕が時間にルーズな人間だと思われては困る。時間にルーズなのは先輩のほうだ。
小学校の時からそうだった。先輩が約束の時刻に来たことなど一度もなかった。それゆえ常に余裕を持たせて約束の時間を設定し、常に約束の時間よりも遅く到着するようにしている。御登山行き急行は九時四〇分発。これまで蓄積されたデータによって先輩の最大遅刻時間は三五分程度であることが判明しているので、待ち合わせ時間を九時に設定しておけば乗り遅れることはないはずだ。
「今日の先輩はどれくらい遅れて来るかなあ、ふんふん」
と鼻歌混じりに駅へ急ぐ。道路の向こうに駅舎が見えてきた。自動販売機も見える。そしてまばらな通行人、駅舎へ消えていく利用客、そして、
「えっ、嘘だろう」
我が目を疑った。入り口に仁王立ちしている男がいる。先輩だ。時計を見る。九時一〇分。バカな、こんなことがあり得るはずがない。先輩が一〇分しか遅刻しないなんて。僕は夢でも見ているのか。いや、夢ではない。先輩もこちらに気づいたのだろう。両手を振っている。急いで走り出す。
「遅いぞ。今何時だと思っているんだ」
「はあはあ、すみません。でもどうしたんですか。約束の時間からまだ一〇分しか経っていないのにもう来ているなんて」
「ふっ、俺は変わったのさ」
乱れた呼吸を整えながら尋ねる僕をドヤ顔で見下ろしながら先輩が答える。
「変わったって、何を変えたんですか」
「生き方だよ。これまでの俺はあまりにも軽率に毎日を過ごしていた。あずきバーの中に黒真珠があると信じ込んだり、中古の中古ケーキを新品の中古ケーキと思い込んだり、中国製のガラクタをパナソニッ〇製と勘違いしたり、そのおかげで随分と損をしてしまった」
うん、先輩もようやく自分の愚かさに気づいてくれたみたいだな。これだけでも大きな進歩だ。訳もなく嬉しくなる。
「そこで俺は生き方を改めることにした。これからは慎重第一を信条として行動しようと思う。今日は遅刻をしないように午前七時からここに来ておまえを待っていた」
「えっ、二時間も待っていたんですか。遅れてすみません」
さすがに遅刻してきた自分が恥ずかしくなる。それにしても一旦決心すると行動が極端だなあ先輩は。
「構わんさ。遅れたと言っても一〇分だ。さあ、それでは電車に乗ろうではないか」
先輩が駅舎の中に入った。僕も続いて中へ入る。そのまま改札へ行くのかと思ったがなぜか先輩は突っ立ったままだ。
「どうしたんですか。ICカードは持っているんでしょう。早く通りましょうよ」
「待て。何事も慎重に進めるべきだ。まずは急行の発車時刻、そして御登山駅までの料金をチェックだ」
そう言われて駅の表示板でチェックする。料金も時刻も先日調べた通り変わりはない。
「大丈夫ですよ。早く行きましょう」
「待て。
「そんなはずないですよ。ほら、あそこに駅名だって書いてあるでしょう」
「うむ。乗車駅は正しいようだな。だが待て。おまえは本当に俺の友人なのか。もしかして別人が変装して俺を騙そうとしているのではないか」
いい加減にイライラしてきた。いくら慎重に行動すると言ってもやり過ぎだ。
「僕は僕で間違いないですよ。それよりも早く行きましょう。乗り遅れたら次の急行は一時間後なんですから」
先輩の背中を押して強引に改札口へ向かう。一時間待ちを指摘されて先輩もマズイと思ったのだろう。渋々ICカードを取り出して歩き始めてくれた。
――ピピピピピ
「おや」
改札口で先輩が立ち止まった。機械がカードを読み取れなかったようだ。もう一度タッチする。同じだ。やはりゲートは開かない。
「変だな。こんなことは初めてだ」
「どうしたんですか。通れないんですか」
困惑する先輩の手元を見る。握られているのはポケモンカードだ。
「先輩、それICカードじゃないですよ」
「おや、本当だ。見ろ、おまえが急かすから間違えたじゃないか。だから慎重に行動せねばならんのだ」
えっ、僕が悪いんですかと言いたいところだがここは我慢である。先輩はポケットを探り始めた。背負ったリュックを下ろし中を確認し始めた。そしてまたポケットを探している。
「どうしたんですか」
「うむ、どうやらICカードを忘れたようだ」
「仕方ないですね。じゃあキップを買いましょう」
「それが財布も忘れたようなのだ。これからアパートに帰って取ってくる」
「そんなことをしていたら急行に乗れないでしょ。お金は貸してあげますからキップを買ってください」
「そうはいかん。財布の中には昨日あいつからもらった今月のお食事券が入っているんだ。それを待たずに山へ行っても意味がない」
呆れて腰が抜けそうになった。慎重に行動しても肝心なところはズボラなままだ。
「何やってるんですか。生き方を改めたんでしょう。全然変わってないじゃないですか」
「う、うるさいな。早起きに気を取られて持ち物まで気が回らなかったのだ。そもそも生き方を変えてからまだ数時間しか経ってないんだぞ。約束の二時間前に来ただけでも称賛に値する行動だ。忘れ物くらいでガタガタ文句を言うんじゃない」
相変わらず困った先輩だなあ。こんなことなら待ち合わせ時間を八時にしておくべきだった、と後悔しても後の祭りである。
結局、先輩はアパートへ財布を取りに戻り、僕たちは一〇時四〇分発の急行で御登山へ向かった。
2
山道は思ったよりキツイ。歩き始めて二〇分もしないうちに汗が噴き出してきた。
「何をチンタラ歩いているんだ。ただでさえ遅れているのにそんなペースではランチの時間が終了してしまうだろ。歩け歩け」
遅れた原因は全て先輩にあるのにいい気なものだ。
ようやくアパートから戻ってきて電車に乗る段になっても「待て。これは本当に御登山行きの急行なのか」と言い出して危うく乗り遅れそうになったし、
終点に到着した時も「待て。ここは本当に目的の駅なのか」と言い出してなかなか降りようとせずそのまま車庫まで送られそうになったし、
ようやく山道を歩き始めた時もそこにある石段を見て「待て、この石段、崩れたりはしないだろうな。石橋は叩いて渡れと言うだろう。叩いてみよう」と言い出して、リュックから取り出したハンマーで一段ずつ叩いて登っていたし、
そんなこんなで本日の予定は大幅に遅れてしまっているのだ。その遅れを取り戻すために早歩きした結果がこのザマだ。明日は太腿の筋肉痛に苦しみながら一日を送ることになるだろう。
「はあはあ、そうまで言うならおぶってくださいよ。体力無尽蔵の先輩なら僕一人くらい背負っても楽勝でしょう。はあはあ」
「バカ者。自分の足で登ればこそ山頂のランチはおいしくいただけるのだ。甘ったれたことを抜かすんじゃない」
先輩の呼吸は少しも乱れていない。性格がズボラでも体力はキングコング並みだからな。その元気、少し分けて欲しいよ。
「おっ、分かれ道だぞ」
前方を見ると標識が立っていた。右に紅葉滝、左に山頂と書かれている。
「確か予定では紅葉滝で休憩しておやつを食べるんだったな」
「そうです、はあはあ。でももう一時間以上遅れていますから紅葉滝に寄るのはやめて頂上へ向かいましょう。はあはあ」
僕が左へ行こうとすると先輩が腕をつかんだ。
「待て。この標識は本当に正しいのか。間違っていたら大変だぞ。どれ、少し調べてみよう」
先輩はハンマーを取り出して表示板の表面を叩いた。標識は簡単に半回転して裏がこちらを向いた。今度は右が頂上、左が紅葉滝になっている。
「なんてことだ。だれかがイタズラをして裏表を逆にしたんだ。危うく騙されるところだった」
「いや、イタズラしたのは先輩でしょう。前の表示に従って左へ行きましょうよ」
「待て。そこまで言うなら地図で確かめてやる」
リュックから取り出した地図を標識の前で広げる。驚いた。先輩の言うように確かに地図の右側が頂上になっている。
「どうだ。俺の言ったとおりだろ」
「はい、今回ばかりは先輩の慎重さが役に立ちましたよ。感謝です」
と言った舌の根が乾かないうちにこの感謝は失望へ変わった。前方に紅葉滝が見えてきたからだ。
「どういうことですか、これ。どうして頂上じゃなく滝があるんです」
「……はて、どういうことかな」
「どういうことかなじゃないですよ。ちょっと地図を見せてください」
先輩から地図を取り上げて目を凝らす。すぐわかった。分かれ道まで僕らが進んでいた方角は南だったのに分岐点では北を上にして地図を見ていたのだ。だから左右が逆になったのだ。迂闊だった。疲れていてそこまでチェックできなかった自分が口惜しい。
「どうして地図の北を上にして見せたんですか。上下逆なら左右も逆になるでしょう」
「どうしてって、地図は北を上にして見るものだろう。おまえも左右ではなく東西で判断すべきだったんじゃないのか」
先輩だって東西じゃなく左右で判断したくせに、などと反論しても仕方がない。すぐに元来た道を引き返し、裏表になった標識を元に戻し、僕らは予定の時間を大幅に遅延してようやく頂上へたどり着いた。
「はあ~、やっと着きましたね。なんとかランチの時間には間に合ったし、あの見晴らし台で少し休みましょうよ」
頂上の見晴らし台からの眺めは絶景である。眼下には豊かな水をたたえた御登渓谷が広がり、深緑色の川面に紅葉が散っていかにも秋の気配を感じさせる。
「う~ん、いろいろあったけど来てよかったなあ。先輩もこっちへ来て眺めませんか」
見晴らし台の柵にもたれて声を掛けると先輩はまたもハンマーを取り出した。
「待て。その見晴らし台の柵、体を預けて大丈夫なのか。ここは慎重を期して点検するとしよう。石橋は叩いて渡れ、柵は叩いてからもたれよ、だ」
先輩は柵の土台になっているコンクリートを叩き始めた。
――ピシッ
不気味な音がした。よく見るとコンクリートに亀裂が入っている。慌てて柵から手を放す。
「よし。大丈夫のようだな」
「い、いや、先輩、少しも大丈夫ではない気がするんですけど」
「おいおい、俺が叩いても壊れないんだ。大丈夫に決まって、う、うわあー!」
先輩が柵に体を預けた瞬間、コンクリートの亀裂は大きく広がり柵もろとも崩壊した。
「先輩ー!」
手を伸ばしたが遅かった。先輩は柵と砕けたコンクリートとともに見晴らし台の下を流れる御登渓谷へと落ちていった。
「おーい、助けろー! 鮎を食わせろーーー!」
『助けてくれ』ではなく『助けろ』なのがいかにも先輩らしい。最後に小さく水音が聞こえた。
――ばちゃん!
「おい、人が落ちたのか」
騒ぎを聞きつけて人が集まってきた。
「あ、はい。でも大したことないので忘れてください」
「バカ、何を言っているんだ。警察に連絡、いや消防か。管理事務所にも知らせないと」
不本意ながら大騒ぎになってしまった。まあ普通の人間なら騒ぎになって当然ではあるが、落ちたのはキングコング並みの体力を持つ先輩である。心配無用だ。
「あ~、お腹空いたな。これからどうしよう……おや、あれは」
崩壊した柵の近くに先輩のリュックが置いてある。中を探ると財布があった。開くと今月のお食事券が入っている。
「ラッキー! さっそく食べに行こう」
直ちに御登荘へ向かい、一人でランチを済ませ、食後のお茶を飲んでのんびりし、店主のオヤジと雑談していると生存者発見の報が届いた。見晴らし台の下流五〇〇メートルの地点に流れ着いたらしい。
山道から容易に下りられる川辺だったので救助隊の方に案内されて現地に向かうと、先輩は焚火をして焼き魚を食べていた。
「はふはふ。うむ、やはりこの時期の落ち鮎は美味いな。川に落ちて良かった。こんな美味いものが食べられたのだからな」
もちろん救助の皆さんが呆れて帰ってしまったのは言うまでもない。そう、先輩は昔からこうなのだ。心配するだけ無駄なのである。
「おい、おまえも一匹食うか」
「はい、いただきます」
食べると確かに美味い。やはり獲れたては一味違う。
「ところで今日から改めた生き方なのだが、やはり止めておこうと思う。どうも俺には慎重という言葉は似合わないようだ」
「そうですね。僕も賛成です」
やはり先輩にはズボラが似合う。いつまでも変わりなく粗忽者でいて欲しいものだ。
このお話とよく似た題名の作品「この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる」は、
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881165840
アニメ化されて2019年10月よりAT-Xほかにて絶賛放映中!
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