浜辺の思い出(恋愛)(1900字)


 砂浜を歩いていた。


 海を見るのが好きだった。何かあればいつもここに来て海を見ていた。何もなくてもここに来て海を見ていた。

 悲しみは潮風に飛ばされて彼方へ消え、喜びは波に乗って空へ舞い上がる。たとえ空が黒雲に覆われようと海の慈愛は変わらず降り注がれていた。


 ――桜貝が好きだったの


 君の声が聞こえる。幼かった頃、まだ泳ぎ方を知らない二人ができたのは砂遊びと貝殻拾い。必ず失くしてしまう貝とすぐに崩れてしまう砂山。どうしてあれほど夢中になれたのか不思議なくらいだ。

 小指のように弱々しい桜貝を大喜びで受け取っていた君。その笑顔を見るために貝を探してやることは、もう二度とできなくなってしまった。


 ――夏休みには毎日のように泳ぎに来ていたわ


 小学生になると仲間と一緒に海で遊んだ。君は誰よりも速くそして遠くまで泳げた。真っ黒に日焼けした顔と手足。Tシャツを着てスクール水着が隠れてしまうとまるで男の子のようだった。

 バレーをするはずのビーチボールを蹴とばしてサッカーをする、子供の頃の自分に戻ってもう一度君と遊んでみたい……決して叶わない願いだとわかっているけど。


 ――いつまでもお転婆だったわけじゃないのよ


 中学の頃から君を避け始めた。膨らんだ胸と丸みを帯びた腰。水着姿を直視するのが恥ずかしかった。恥ずかしさを感じる自分自身が恥ずかしかった。そんな気持ちを察したのか、君自身も次第に距離を置くようになった。

 安堵と寂しさが入り混じった日々。もし君の白い手に触れられるなら、きっと今でもその時の感情が蘇るに違いない。二度と触れることのできない君の手に触れられるなら……


 ――初めて大喧嘩をしたのもここだったわ


 都会の大学へ一緒に行こうと誘う君。進学だけでも親に過大な負担をかけている以上、それはできない相談だった。

 奨学金、バイト、都会へ行けばいくらでも方法はある、せっかく成績がいいのに地元の大学なんてもったいない、一緒に行きましょう、そんな必死の説得を全て跳ね返された君の頬に流れた一筋、それは灰色の空から落ちてきた雨だったのかそれとも君の涙だったのか……もし永久に君の頬を拭えなくなるとわかっていれば、立ち去る君を無言で見送ることなんてしなかったろうに。


 ――そしてここでプロポーズされたの


 四年後、まるで別人のように暗い顔して君は帰って来た。都会で何があったのかは知らない。地元の小さな会社で働く君は時折この浜辺に座って海を眺めていた。海と、海を眺める君を見詰める日々。

 やがて一年が過ぎ、君の視線はようやく海から離れてこちらを向いた。昔のように話し合った。遊んだ。悪ふざけをした。子供の頃から変わらない海に見守られながら君に指輪を渡した。桜貝を受け取る子供のように無邪気な笑顔。あの指輪はどこへ行ってしまったのだろう。


 ――そして今日、またここでプロポーズされたんだね

 ――そうよ。あの日と同じ、早春の夕日の中で


 今、君は目の前にいる。見られていることにも気付かず、二人でお喋りをしている。

 君の隣に座っているのは幼い頃からの親友。彼もまた君に好意を寄せていた男のひとり。そして君の薬指に輝いているのはその男からもらった指輪。君が選んだ男からの求婚の証し。

 よかった、本当によかった。ようやく彼の申し出を受けてくれたんだね。これでもう思い残すことはないよ。


 ――今日でちょうど一年か。アイツは小さい頃から病気がちだったからな。忘れられないなら無理に忘れることはない。オレと一緒になることで君の悲しみが少しでも和らいでくれればそれで十分だ。

 ――……ありがとう


「これで満足したか」


 背後から声。振り向かなくても誰かはわかっている。黒いマント、禍々しい大鎌、不吉な赤光を放つ空虚な両眼。死神だ。


「ああ満足だ。あいつなら彼女を任せられる。一年間も待たせて済まなかったな」


 一年前を思い出す。命が尽きる寸前、君に言った言葉――新しい人を見つけて一緒になって欲しい――君はなかなか見つけようとしなかった。いつまでも思い出に囚われていた。死神に頼んでこの世に留まり、そんな君をずっと見守り続けていた。それも今日で終わりだ。君はようやく新しい伴侶を見つけてくれたのだから。


「なあに構わんさ。人がどう思っているかは知らんが死神は寛容なんだ。この世の未練が断ち切れるまでいくらでも待ってやる。一年くらい待ったうちに入らんさ」

「そうか。そう言ってもらえると助かるよ。じゃあ行こうか」


 死神の手を取る。魂が宙へ浮かぶ。砂浜の二人は夕空を見上げている。まさか気付いたのか……いや、そんなはずはない。きっと輝き始めた宵の明星を見ているのだろう。それでいい。これからは君たち二人、いつも空を見上げて生きていって欲しい。


 夕闇に沈んでいく大海原に見送られながら、これまでの懐かしい思い出が霧のように昇華していく。やがて思い出は雲になり雨となって海へ帰っていくのだ。これまでもそしてこれからも、ずっと一緒に寄り添ってくれるあの海へと……

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