鉦の音(異聞選集応募断念)(3200字)


 これは私がまだ十代の学生だった頃の話です。


 家を離れて下宿していたのは古い町並みが残る城下町でした。武家屋敷や寺院群が今でも当時のまま残され、観光地として人気の高い地方都市です。

 下宿には風呂がなかったので私は銭湯に通っていました。行きつけは歩いて数分の東湯。そして東湯が休みの火曜日には、少し距離がある梅の湯を利用していました。


「まだ早いし、少し散歩していくか」


 ある夏の夕暮れでした。週に一度の梅の湯に向かう私は、これまで通ったことのない路地へ足を踏み入れたのです。梅の湯は下宿から北西の位置にあります。いつもなら下宿から西に進んで国道に出て、そこから北に進めば梅の湯に着きます。


 かねてより私はこのルートが不満でした。車の往来が激しい国道を数百メートル往復するのは、はっきり言って楽しくありません。せっかく古い町並みが残る観光地に住んでいるのですから、たまには裏通りを歩いてみたい、そんな気紛れがひょっこり顔を覗かせたのです。


「なるほど。確かに寺が多いな」


 タオルや石鹸を入れた洗面器を手に持ち、湯上りに飲む麦茶を入れた水筒を肩から下げて、私は狭い路地を歩きました。

 江戸時代にこの地を治めた領主は城の防備と寺社の管理のために、領内の寺社を三カ所に集めました。私が歩いているのはそのうちの一つ、城の鬼門に当たる場所に集められた寺社群です。藩政期そのままの迷路のような小道、だらだら続く坂道と長い階段。いきなり現れる小ぢんまりとした寺の山門。歩いているだけなのに遊園地のアトラクションのような面白さと興奮を感じます。


「もっと早くこの道を通ればよかったな。これからは国道なんか絶対に歩かないぞ」


 梅の湯への道をこんなに楽しく感じたのは初めてでした。真夏とは言っても空は一面雲に覆われて西日はほとんど差さず、心地よい風が頬を撫でていきます。民家の軒先では一匹の黒猫が気持ちよさそうに夕涼みをしています。


「それにしても遠いな。そろそろ国道に出る頃だが……」


 最初こそ山へ続く東の道を歩きましたが、その後は、北、西、北、西、この順番で路地を進んできました。時間的にも距離的にも間もなく路地は終了して国道に出るはずなのです。しかしどれだけ歩いても路地は尽きることなく私の前に続いています。


「妙だな。この山門、見覚えがある……」


 私は嫌な予感に襲われました。同じ場所に戻ってきているような気がするのです。いや、そんなはずはない、こんな路地で迷うはずがない、そう思いながら歩く私に決定打を食らわせたのは猫でした。先ほど軒先で夕涼みをしていた黒猫が再び私の前に現れたのです。もはや疑いようがありません。


「どうして……間違いなく北西に進んでいたはずなのに……」


 それからは少し歩く道を変えました。今まで西に曲がっていた地点で曲がらず、もう一つ先の路地を西に曲がる、北へ曲がる時も同じく、路地をひとつ飛ばして曲がる、そんな工夫も結局は徒労に終わりました。私の前に再びあの黒猫が現れたからです。


「仕方がない。戻ろう」


 すでに下宿を出てから一時間近く経過していました。夏の日の夕暮れもそろそろ終りに近づいています。辺りが闇に覆われる前になんとしても路地を抜けねばなりません。私は来た道を戻り始めました。


「おかしいな。まるで記憶にない道ばかりだ」


 進んできた道を逆方向から見る、それは完全に別の景色でした。来る時には気付かなった脇道、隠れていた三叉路、そんなものが頻繁に私の前に現れて、どの道を選択すれば良いのか惑わせるのです。南、東、南、東、そうして進む私の前に現れたのは、やはりあの黒猫でした。


「なんてことだ。完全に迷ってしまったみたいだ……」


 途方に暮れた私の頭にある書物が浮かびました。柳田国男著「山の人生」その八話目にこんな一節があるのです。明治十年ごろ、小説家徳田秋声がかつてこの界隈に住んでいた時、隣家の二十歳ほどの青年が行方不明になった、柿の木の下に下駄を脱いだままで……


「まさか、神隠し……」


 私の嫌な予感は更に深刻さを増していきました。考えてみればこの路地に足を踏み入れてから一度も人影を見ていないのです。それどころか人の声すら聞いていません。風の音、かすかな葉擦れ、物悲しい蜩の鳴き声。それらは確かに聞こえています。

 けれども、夕餉の支度の物音、網戸から漏れてくるテレビの音声、さほど遠くない国道を走る車の騒音、そういった生活の営みを感じさせる音は一切聞こえてこないのです。そして木々や道端の雑草以外に私が目にした生き物と言えば、今、目の前で夕涼みをしている黒猫だけです。

 ここは尋常ならざる空間ではないのか、そんな疑念が湧き上がってきました。


「オレ自身が神隠しにあったと言うのか……」


 黒猫は鳴き声ひとつたてず私をじっと見ています。その瞳はまるで何かを試そうとしているかのようです。私は黒猫に近付きました。水筒の蓋を取り、中の麦茶を左の手の平に注ぎ、黒猫の鼻面に差し出しました。黒猫は舌を出してそれを舐め始めました。全て舐めてしまったのでもう一度注ぐと、やはり同じように舐め尽くしてしまいました。


「にゃー」


 満足げにひと鳴きした黒猫はいきなり身を起こすと歩き始めました。慌てて水筒の蓋を閉めて後を追います。既に日は暮れ周囲には残照だけしかありません。私は何も考えず闇に紛れそうな黒猫をひたすら追いました。


「……聞こえる」


 どこをどう歩いたかも覚えていません。私の耳に誰かを呼ぶ声と鉦の音が聞こえてきたのです。言葉は不明瞭で聞き取れず、鉦の音は途切れがちで弱々しい、それなのに不思議な安心感を抱かせる響きです。何かに導かれるように私は鉦の音の聞こえる方へ進みました。


「うわ!」


 突然でした。目に映ったのは行きかう車のヘッドライト、商店の灯り。耳に響いてきたのは車の騒音、横断歩道の青信号の曲。知らぬ間に私は路地を抜け国道に出ていたのでした。



 * * *



 後日、この話を長年この町に住んでいる指導教官に話したところ、道に迷って当然だと笑われました。城下町の町並みは侵入する敵を欺くために、曲がり角を直角にせず鋭角や鈍角にしてある、そんな歩き方をすれば同じ場所に戻って来るのは当たり前なのだ、と。

 そう言われた私はもう一度あの路地に足を踏み入れ、今度は極力角を曲がらずに進みました。すると呆気ないほど簡単に国道に出られました。


「単なる迷子だったってわけか……」


 しかし私は釈然としませんでした。ならばあの堂々巡りを再現してみようと、あの日と同じように何度も角を曲がりながら路地を進んでみたのです。けれども決して同じ場所には戻らず国道に出てしまうのです。それだけでなく黒猫が夕涼みをしていた民家の軒先にたどり着くことすらできなかったのです。


 なにより気に掛かったのは国道へ出る直前に聞こえた声と鉦の音でした。昔、迷子を探す時には鉦や太鼓を打ち鳴らしながら通りを歩いたそうです。柳田国男著「妖怪談義」の「山男の家庭」の中にも、ある按摩から聞いた話として、


 ――この土地も大きに開けました。十年ほど前までは冬の夜更けに町を歩いて、迷子の迷子の誰それと呼ぶ声と、これに伴なう淋しい鉦の声を聞かぬ晩はありませなんだ云々……


 と書かれています。私が聞いた呼び声と鉦の音は、かつてこの町に鳴り響いていた、迷子を探す哀れな親たちが発したものではなかったのでしょうか。


 やはり私はあの時この世ならぬ空間にいたのです。人と魔の領域が重なり合う黄昏時、寺院群の路地で現世の端境を越え、神域である常世に紛れ込んでしまったのです。そしてもし私が黒猫に出会わなければ、麦茶をあげなければ、親たちの呼び声と鉦の音が時を越えて私の耳に届いていなければ、私は今もあの常世を彷徨っていたのかもしれない……そう考えるとなにやら得体の知れぬ空恐ろしさに襲われるのです。







 ※この話は当初、カクヨム異聞選集に応募しようと書き始めたのですが、あまり怖くないし、迷子になったこと以外は創作なので断念しました。ホラーって難しいですね。

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