一分カレー(紀行・グルメ)(5300字)
一
その土地の食を味わう……旅の楽しみのひとつである。
私が特に好むのは名物料理や郷土料理などではなく、どこにでもありながら一風変わっている料理。例えば、おでんをトンカツソースでいただくとか、トンカツを酢醤油でいただくとか、そんなB級グルメが好きなのだ。
「そろそろ昼を取りたいものだが……」
梅雨時にしては珍しく晴れた六月末、川沿いの道を歩きながら私は時計を見た。間もなく午後三時だ。九時過ぎに遅めの朝食を取ったとはいうものの、さすがに腹が減ってきた。都会では滅多に見られぬ清流を楽しんでいるうちに、こんな時間になってしまったのだ。
「んっ、これは面白そうだな」
川のせせらぎが聞こえてくる田舎道の片隅にその店はあった。どこにでもあるような小ぢんまりとした喫茶店。消えかけた字で「蛍の宿」と書かれた看板の横の貼り紙に私の目は釘付けになった。そこには、
「一分カレー。午後三時までのタイムサービス」
と書かれていたのである。
「一分カレーか。こんな地方の村でもやっているのだな」
最近流行っている早出しのカレー屋。よく目にするのは九秒カレー。九秒で提供できなければ返金しますというアレだ。この店では九秒ではなく一分なのがご愛敬である。
「値段は……二千円、高っ! これまた強気の価格設定だな。まあいい、腹も減っていることだし、話のネタに試してみるか」
ドアを開けて中へ入る。
「いらっしゃい」
店主の声が迎えてくれた。客は一人もいない。ティータイムとは言ってもこんな田舎では客も少ないのだろう。二人掛けのテーブルに着くと店主自らが水を持ってきた。従業員を雇う余裕もないようだ。
「どうぞ。お決まりになりましたら呼んでください」
「もう決まっている。一分カレーをひとつ」
「ほほう」
店主がにやりと笑った。意味ありげな表情だ。
「失礼ですが、お客様は旅のお方ですか」
「そうだ。この村には初めて来た」
「そうですか。では、一分カレーとはどのような商品か、分かっていただけておりますでしょうか」
「分かっているよ。一分で提供できなければ無料ってヤツだろ」
私の言葉に店主は首を横に振った。
「いいえ、違います。やはり勘違いされておられるようですね。それでは説明いたします。一分カレーの一分とはお客様に提供する時間ではなく、お客様が完食するまでの時間です。食べ終わるまでに一分よりも長くかかってしまったら、カレーの料金はいただかない、という商品です」
「なんだって?」
聞き間違えたのかと思った。一分以上かけて完食すれば無料にする、店主はこう言っているのだ。
「すまない、ちょっと確認させてくれ。一分以内に完食すれば無料になるんじゃなくて、一分以上かけて完食すれば無料になる、君はこう言っているのかい」
「はい、その通りです」
「それはおかしいだろう。一分なんて口をつけずに待っていればすぐに経過する時間だ。誰だって簡単にできる。これじゃあ、無料で提供すると言っているのと同じじゃないか」
「いえいえ、この店のカレーは大変美味しいのです。その芳しい香りを嗅げば矢も盾もたまらず食べたくなり、一度食べ始めれば一分もかからず食べ切ってしまう絶品料理。なればこそこのような試みが可能なのです」
鼻高々に話す店長。よほど自分が作るカレーに自信があるのだろう。こうなってはこちらも挑まないわけにはいかない。
「了解した。それでもし一分以内に食べてしまったら、こちらには何かペナルティはあるのかい」
「いえ、ございません。消費税を付加した二一六〇円を払っていただくだけです」
むっ、消費税を忘れていた。カレーにしては高すぎるな。しかしのんびり食べれば無料になるのだから関係ない。
「それと注意事項がございます。こちらも二千円が掛かっておりますので、一旦注文された後はキャンセルしないでいただきたいのです。代金は前払い。料理を提供する前に注文を取り消されても返金いたしません。」
「そんなことはしないよ」
「それから食べ終わるまでは席を立たないでいただきたいのです。食欲をそそるカレーの匂いを嗅がず、その美味しそうな料理を見ないで一分を経過されては、こちらもたまったものではありません。一旦注文されましたら、決して席を離れず、カレーの姿を凝視して一分を経過していただきたいのです。もし料理提供から一分を経過する時刻前に席を立たれましたら、その時点で完食したとみなし、やはり返金はいたしません」
「それも了解した」
店主がこれだけ用心するところを見ると、以前にそんな行為に及んだ客がいるのだろう。一体どんなカレーが出て来るのか、少し楽しみになってきた。
「では最終確認です。一分カレー、注文されますか」
「注文する。一分カレー、ひとつ!」
私は財布から千円札二枚と百円玉二枚を取り出した。店主はにっこりと笑いながらそれを受け取ると、既に用意してあったらしい十円玉四枚を私に渡した。
二
私は少々苛立っていた。時計を見れば午後四時になろうとしている。朝食後は正午頃に自販機のお茶を飲んだだけで何も口にしていないのだ。かなり腹が減ってきた。
店主はと言えば、最初あちこちに電話をしていたが、その後、料理をする様子もなくカウンターの向こうにぼんやり座っている。カレーの匂いすら漂ってこない。
「待たせたな。持って来たぜ」
店のドアが開いて一人の男が入って来た。小さな袋を担いでいる。
「ああ、ごくろうさん」
店主は出迎えると袋を受け取り、言葉を交わす。その後、男は私の顔をチラリと見ると、すぐに店を出て行った。
「ようやく米が来ました。では、これからご飯を炊きますね」
この店主の言葉は私を驚かすに十分だった。
「おいおい、待ってくれよ。今から飯を炊くのかい」
「はい。一分カレーは特別料理ですからね。注文が入ると米屋に頼んで脱穀から始めるのです」
「脱穀からだと! じゃあ、野菜や肉やカレー粉はどうなっているんだ」
「野菜は注文が入ると畑から収穫します。肉は、さすがに屠殺からというわけにはいかないので、冷凍肉を二時間ほどかけてゆっくり解凍します。カレー粉は専門店でスパイスやハーブを粉に挽き、調合していただきます」
「おいおい、それじゃあ、いつになったらカレーが出来上がるんだ」
「そうですね、二時間、いや、三時間後くらいでしょうか」
「冗談じゃない。そんなに待てるものか」
「ではキャンセルなさいますか。代金はお返しできませんが」
一杯食わされた、と私は思った。うまい話には必ず裏がある。キャンセルをすれば代金没収という条件はこの為だったのか。そこまで考えが至らなかった自分が恨めしい。しかも当分食えないと分かると空腹がよりひどくなる。
「店主、悪いが私は腹ペコなんだ。カレーはそのまま作ってもらって構わない。別の料理を頼んでもいいか」
「構いませんが、そうなるとカレーが出来上がるのも遅くなりますよ」
「簡単に作れるものでいい。何か作ってくれ」
「そうですね、カキ氷なら作れます。一分カレーを注文された方は特別に一杯百円で提供しています。ああ、それからドリンクも一杯百円ですよ」
「両方注文だ。イチゴ味とアイスコーヒーを頼む」
かき氷を食べコーヒを飲んでなんとか腹の虫を抑える。時間に余裕を持たせておいて良かった。ホテルへ帰るバスの最終便は午後九時。いくらなんでもそこまでずれこむことはないだろう。
「新鮮野菜、到着ぅ~!」
「肉はもう少し寝かせておいてくれ」
「スパイス完成! はいどうぞ」
かき氷を食べ終わった頃から次々に人がやって来た。客ではない。電話で注文した食材を持ってきた業者だ。きっと長い付き合いなのだろう、店主と親し気に話し、一人しかいない客である私をしげしげと眺めて帰っていく。
「さて、調理にかかりますか」
ようやく店主が働き始めた。野菜を切る音、炊き上がるご飯の湯気。そして香ばしいカレーの匂い。もう五時を回っている。私は二杯目のかき氷とアイスティーを頼んで時間を潰す。よく我慢できたものだ。自分の辛抱強さに感服してしまいそうになる。
「この調子なら六時には食べられそうだな」
目途が付いた事で少し気が楽になる。が、思わぬ事態が私を襲った。じわりじわりと尿意を催してきたのである。店は寒いくらいにクーラーが効いている。しかもかき氷を二杯も食べてしまったのだ。起きて当然の生理現象である。
「店主、すまないがトイレを貸してくれ」
「トイレは右奥のドアの向こうです。ただ、トイレへ行くには席を立たなくてはなりません。それでも構わなければどうぞ」
「席を立つのに何か不都合でもあるのか」
「最初に申したはずです。一旦注文したら席を離れないでください、席を離れたらその時点で完食したことになる、と。まだ料理提供一分後の時刻ではないので、今、席を離れれば代金はお返しできません」
「あっ……」
絶句。そうだ、そうだった。離席の禁止、その目的はこれだったのか。料理が来てからではなく注文した時から席を離れてはいけないという条件の不自然さに、どうして気付けなかったのだ。そして百円のかき氷とドリンクをどうしておかしいと思わなかったのだ。安い料金で水分を取らせ、尿意を催させ、席を立たせるための策略だったのだ。最初から無料にする気なんかなかったのだ。
「くそ。なんてこった」
下腹部が鉛のように重い。限界は近いようだ。一刻も早くトイレに行かなくては大変なことになるだろう。だがここで席を立ってはこれまでの努力が無駄になってしまう。どうする、いっそここでお漏らししてしまうか。駄目だ、社会人としてそんな恥ずかしい真似はできない。ならば限界まで耐えるか。いや、恐らく店主は私がトイレに立つまで料理を出さないに違いない。相手はこのままの状態を何時間でも維持することが可能なのだ。一方の私はそれに異議を唱える事もできない。完敗だ。
「負けたよ、降参だ。二千円は諦める」
私は席を立った。漏れないようにそろそろと店の奥へ行きトイレへ入る。
「無駄な三時間だったな……」
悔しくないと言えば嘘になる。しかし放尿と共にそんな気持ちもなくなってしまった。元々カレーの代金を払うのは当然のことなのだ。それを払わず済まそうとした自分の浅ましさを思い知らされた気分だった。
「お待たせしました。用意できております」
トイレから戻るとテーブルには料理が置いてあった。やはり私が諦めて席を立つのを待っていたのだろう。
「これは、随分豪勢だな」
テーブルに置かれていたのはただのカレーライスではなかった。カレールーを入れたソースポット。二枚の平皿にはライスとナンが盛られ、ツナ、コーン、チーズなどのトッピング小鉢。トンカツ、チキン、海老などの大型トッピング容器。スープ、サラダ、種々のピクルス。私の予想を超えたカレー料理がそこに存在していた。
「ライスとナンはお代わり自由です。食後にはデザートとドリンクを用意しております」
にこやかに笑う店主。三時間待たされたことも無料にならなかったことも、もうどうでもよくなってしまった。
三
「すっかり暗くなってしまいましたね」
店主が窓から店の外を眺めている。昼食のつもりだった夕食をゆっくりと味わった頃には七時を回っていた。その間、店にはひとりの客も来なかった。いくら平日だと言ってもこれだけ流行っていないと、経営は大赤字だろうなと余計な心配をしてしまう。
「随分長居してしまったな。これで失礼するよ」
「ああ、少しお待ちください」
私が席を立とうとすると、店主が慌てた様子で声を掛けた。
「これから何か予定でもおありですか」
「いや、ホテルに帰って寝るだけだ」
「では、コーヒーをもう一杯いかがですか。お待たせしてしまったお詫びにサービスさせていただきます」
そう言われて断る理由はない。それに安っぽいホテルのラウンジよりこの喫茶店の方が居心地が良い。私は店主の好意に甘えることにした。
私がのんびりとコーヒーを飲んでいる間、店主は窓の外を気にしている様子だった。まるで何かを待っているかのようだ。そうしてサービスのコーヒーを飲み始めてから三十分ほども経った頃、店主が嬉しそうな声で言った。
「ああ、始まりましたね。お客さん、店の外へ出てください」
「外へ? 何かあるのかい?」
「出てみればすぐに分かりますよ」
どちらにしてもそろそろ帰ろうと思っていた頃だ。私は荷物を持って席を立ち、店の外へ出た。
「こ、これは……」
驚いた。とっぷりと日が暮れた暗闇の中に無数の光が舞っていたのだ。
「これは、蛍か」
「はい。何もないこの村が唯一誇れるのは霊峰から流れ出す清流。そしてそこに棲む蛍。ここは村の中でもっとも美しい蛍の乱舞が見られる場所なのです」
「なんと素晴らしい。数も輝きもこれほどまでに見事な蛍は初めてだ」
気が付けば蛍を見ているのは私だけではなかった。米を持って来た男、野菜を届けた娘、肉屋のオヤジ、スパイス小僧。皆、にこやかな顔で蛍を、そして私を見ている。その時になって私はようやく店主の真意が理解できた。
「そうか、三時間もかけてカレーを作ったのは、もしや、この蛍を私に見せる為……」
私の問い掛けに店主は何も言わなかった。無数の蛍が明滅する光の中で、ただ静かな笑みを浮かべるだけだった。
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