第10話 開かれた扉

 消毒液の尖った臭いが鼻につく。とうに暗くなった窓の外は灯りもまばらで、人が付近に住んでいる気配は感じられなかった。産業廃棄物処理場――対外的にはだが――から脱出した三人を回収し元通りとなった一行は、史狼と花鈴の治療の為に闇医者のいる北広島市のビルへ直行した。

待合室には何故か壁に大きな焦げ跡があって、いよいよ野戦病院の趣が強い。優雅にコーヒーを一口飲んだエレオノーラがキエロとナナシに声をかけた。

「空いた時間で状況を整理しましょう」

「そうだね。史狼の意見は後で聞こうか」

ソファの上で体育座りをしていたキエロがこくりと頷く。花鈴の魔法治療で集中力をかなり費やしたらしいが、待機している間に眠ったのか、既に彼女は見た所はいつもどおりだった。

反対側のソファで頭を抱えていたナナシを見上げて口火をきる。

「まず、ナナシは多分名浜警備保障の社員。名浜精工に所属する科学者が敵と内応したか誘拐されたかして、奪還に出たナナシを含めるチームが北海警備との戦闘で全滅した、だね」

「そして北海警備の矢間主任なる人物は、死体をグールの研究機関に譲渡しているわ。同時にこの人物は、ナナシを追撃する班を指揮しているようでもあるわね」

ナナシは運ばれている最中にどうやってか車から脱出し、史狼と花鈴に拾われた。

現状ナナシに拘る理由は、彼が矢間という男にとって敵の討ち漏らしであるから。そしてグールの案件に繋がりかねないからだろう。

 さすがに子会社の役職者が、グールの研究機関などという物理的・倫理的に問題のあるものと取引があると明らかになればMEISEKIが黙っていまい。しかも取引内容がグールの餌になりうる死体の横流しとあっては、世間に明らかになれば逮捕は待ったなしだ。

矢間にすれば何がなんでもナナシの口を塞がねばならないだろう。

「少し調べてみたけれど、名浜精工の素材開発実験場で爆発騒ぎがあったのは確かなの。通報で消防車も出動したのだけど、実験場側から『既に消火した』と頑なに立ち入りを拒否されたそうよ」

 札幌市内でも敷地の広さでは有名な北海道大学跡。敷地の一角を買い取った名浜精工は素材開発実験場ばかりでなく、専門の警備部署を置いていた。有事に備えた消防団もあり、消防士の経験がある人員を揃えているという。

これらは大手企業であれば珍しくなく、帰属する都道府県に届けさえ出していれば

地域の消防署は無理に立ち入らない。

「それがナナシが花鈴に拾われる前日ならさすがに間違いないよ。ナナシは名浜警備保障に保護を求めたほうがいいと思うね」

きしきしと音をたてるソファの上でキエロがしかめ面をした。まっすぐ見据えられたナナシがたじろいだ顔になる。

「待ってくれ。おれが名浜警備保障にいたという証拠がないんだろ? おれも記憶は全然戻ってこないし……」

「いつ戻るかわからない記憶は置いておきましょう。それより貴方の顔を覚えている人が、名浜警備保障にいるはずだと思わない?」

エレオノーラの指摘にナナシはしばらく茫然と考え込んだ。

ナナシの顔には確かに変えられた形跡があった。しかしそれは北海警備と事を構える前のことで、形成手術の経過を考えても今の顔で最低でも一週間は生活していたはずだ。

名浜警備保障の全人員が失われたわけではなく、記録を抹消されたとしても記憶を消すことはできない。

「……おれを、知っている人がいる、のか」

「多分だけどね。ボクたちだって全力は尽くすけど、中小規模とはいえ大手企業の子会社を相手にするのは楽じゃないんだ。なにしろ物量が違うからさ」

キエロの言は的確で、ナナシも昼間の戦闘を思い返した。史狼と花鈴の怪我と引き換えに脱出できたようなものだ。一分遅ければ全員が捕えられていただろう。

改めて自分の置かれた立場にナナシはぞっとした。

名浜警備保障。言葉を聞いても懐かしさや安心が感じられなくて、不安だけが湧き起こってくる。

「保護してもらえるだろうか。でも顔を知ってる人がいれば、してもらえるか」

このままではジリ貧なのは確かなのだ。

落ちた沈黙を破ったのは、愛想のない鋭い声だった。

「行くぞ」

シャツの左半身に大きな血のしみをつけた史狼が処置室から出てくる。

皮下装甲のおかげで重傷に至らなかった彼は、医者に傷口を縫合して貰い痛みどめのパッチを貼っただけで済ませてきたらしい。

ここまで冷静だったエレオノーラも、彼の姿を見ると反射的に駆け寄った。

「花鈴はどうなの?」

「すぐ出てくる。輸血処置中だ」

史狼の言葉が終わらぬうちに、隣の処置室から花鈴がふらつく足で現れた。左上腕部に血液パックが添付され、固定された無痛針で輸血されている。腿を撃たれた彼女は出血が多かったせいだろう。

ナナシの場合はセンサーコアに入っている負荷制御ソフトで体調不良を制御していたが、バレットである花鈴にも似たスキルがあった。探索を終えるまでは一時的に魔力でコントロールして体機能を維持していたのだ。それとキエロによる治療があったればこそ、彼女は今動けている。

穿いていたジーンズは緊急治療の為に切開されてしまったので、ショートパンツに穿き替えていた。太腿に巻かれた白い包帯がやけに痛々しい。

少し足をひきずる花鈴に、無言でキエロがぎゅっとしがみついた。

「ごめん、遅くなっちゃったね」

顔色はよくないが花鈴の闊達さは失われていなかった。彼女がジャケットを羽織るのを待って史狼がエレオノーラを振り返る。

「俺の車を囮に奴らを江別まで引きずり回せ。セーフハウスへは俺が運転する」

「了解よ、朝まで遊んで貰いましょう。代わりの車は用意してあるわ」

不敵な笑みを浮かべてエレオノーラが返した。

 ビルの駐車場にはエレオノーラの言葉通り、少しボディが凹んだ跡のあるバンが停まっていた。既に史狼のセドリックは自動運転で走らせているらしい。

四人乗りのために少し狭かったが、セドリックの操作をしなくてはならないエレオノーラを後部座席の中央に寝かせて一行は出発した。

囮を先行させているとはいえ、史狼は注意深く車を走らせていく。

既に彼らがそれぞれのプロであることを目の当たりにしてきたナナシだったが、今更のようにエレオノーラの技術に感嘆した。

「しかし凄いな。捕まらないようにルートを構築できるなんて」

『褒めて欲しいのは札幌市内の無線情報から北海警備らしきものを選別して、符丁を解読しながら包囲されないように車をナビゲートしている点なのだけどね』

「エレオノーラはマルチタスクオペレーションができる超スゴい人なんだよ」

自分のことのように誇らしげなキエロの言葉を聞いて、今度こそ驚愕したナナシは横たわるエレオノーラを見直した。

 真実の意味でマルチタスクができる人間というのは地球の全人口の5パーセントほどしかいない。普通の人間は一つの作業、シングルタスクをこなすので精いっぱいだ。それですら十全に機能していないことがある。

しかし人々の生活とネット環境が寄りそい、人間の脳とマシンインターフェイスが結合を果たすようになると、かつては2パーセントを超えるぐらいしかいなかった複数のタスクを同時進行させられる人間が増えてきた。

とはいえ当然、実数としてはごくわずか。

普通の人間の文字通り数倍の仕事をこなせる能力は当然、企業垂涎の能力であり、大抵は高額の給料を得ながらシステム管理や防衛などの仕事に就いている。

『まあ今のところは、あちらが私たちの居所を突き止めたくて尾け回しているだけだから切り回せているのよ。さすがに市内の道路に精通していてやりにくいわ』

「そんな才能があるのに……」

『どうして企業を辞めたのかって聞きたいの?』

からかうような口調にどんな感情がこもっているのかは、合成音声のせいかナナシには読み取れなかった。

『まあ色々あったと思ってちょうだい』

そう締めくくられてはナナシほど空気が読めなくても、これ以上触れるべきではないとわかる。素直にナナシは口をつぐんだ。

それきり誰も喋らず、車は札幌市内を東へ向かって走行していった。

 ナナシが結論を出したのは午後九時前、一行が白石区のセーフハウスに入ってからのことだった。エレオノーラがアジトとして使っているという、営業しているようには見えないウィークリーマンションの中だ。

ネットカフェの時のように襲撃されるのではないかとナナシはびくびくしていたが、エレオノーラは悠然と、ホールに置かれたガタのきたソファに腰を下ろした。

「史狼が戻る前に結論が出てよかったわ。じゃないと撃たれかねないもの」

ホールには他に誰もいない。フロント業務はAI管理のオートメーションのため、およそ人気が感じられなかった。

その史狼は、ここまでの足に使った車を隣の区画にある複合商業施設の地下駐車場へ停めに行っていた。

「ここを襲撃されたりはしないか?」

「歩いて十五分の位置にこの区の管轄警察署があるわ。一階にあったパチンコ屋は誠勇会の傘下だし、ここに襲撃をかけるようなボンクラは市内にはいないのよ」

エレオノーラが首を振って溜息をつく。

誠勇会といえば市内の過半数の反社会勢力の元締め、という知識はあった。曲がりなりにも市内で警備業務をしている会社なら、虎の尾を踏むような真似はすまい。

ナナシの不安そうな様子にキエロが天井を仰いだ時、エレベーターが着いた音がしてホールに史狼が入ってきた。

「エレオノーラ。奴ら、ドライブは楽しんでるか?」

北海警備の様子を聞いているらしい。エレベーターホールの端にあるドリンクサーバーへ歩いていくと、ミネラルウォーターを立てつづけに二杯呷る。

微笑むエレオノーラの顔を見れば、相当に翻弄しているのだろうと予想はついた。

「それはもう、車も四種類揃えて楽しんでもらえているみたいよ」

「上々だ。花鈴」

史狼の視線を受けて、花鈴が上腕から空になった輸血パックを剥ぎながら頷いた。

「戦力としてはいつもの八割ってとこだけど、体調はもう大丈夫」

「こっちはナナシが名浜警備保障に連絡するって決めたらしいよ」

「だろうな」

史狼は当然といった顔だった。彼にすれば他に選択肢がない。このまま逃げ回ったところでナナシの身元の手掛かりはなく、万に一つ、会社に連絡して打開を図るのがせいぜいだからだ。

「晩飯はどうする」

途端にキエロがびょんとソファから飛び上がった。ソファのスプリングをぎしぎし言わせながら高らかに主張を始める。

「オムライス! 今日は絶対オムライス。他は絶対イヤだよ」

「だそうだから、コンビニで材料買ってくる。お弁当か何か買ってこようか?」

「俺も同じでいい。風呂入ってくる」

キエロに抵抗する気力がないのか、食事に関しては彼女の権利が強いのか、夕食がオムライスになることには史狼をはじめ誰も異論がないようだった。花鈴が今度はナナシを振り返って問いかける。

「ナナシさんはどうします? 私、孤児院で保母さんみたいなことしてるんで、子供が好きなものしか作れないんですけど。何かリクエストがあれば」

ナナシは茫然とやりとりを眺めていた。

これから自分の命運をかけた電話をしなくてはならないはずだ。

彼らだって機関銃を携えた一個小隊に襲われ、襲撃事件を隠蔽出来るような企業を相手にしている。だというのにこの緊張感のなさはなんだろう。

というか、さっきやっと輸血が終わった花鈴に食事を作らせていいのだろうか。

わからないし、夕食を聞かれていることに気付いたナナシは声を絞り出した。

「……同じでいいよ……」


 ウィークリーマンションは五階建てで、一階は半分以上がパチンコ屋、一部が景品交換所と隣接のコンビニになっている。その四階部分にある並んだ三部屋をエレオノーラは根城として所有していた。三部屋のうち左右は史狼と花鈴・キエロの宿泊用だという。

となれば中央の部屋がエレオノーラの私室ということで、室内にはおよそエレオノーラ以外に貸しようがないほど電子機器がひしめきあって置かれていた。彼女が座る椅子をコの字型に機器が囲み、要塞のような様相だ。

「ただいま。ちょっと寒いわね、あと端末の電源を入れてちょうだい」

エレオノーラの音声指示に従って暖房の出力が上がり、彼女の要塞に一斉に電源が入った。センサーコアを使用するメリットの一つ、家庭管理UIへのリンクだ。

投影型UIヒューマンアイコンは使わないのか?」

投影型、つまり人の姿をしたインターフェイスは会話をすればするほどユーザーの情報を集め、パターン予測から利便性が上がる。

首を傾げたナナシの問いに、エレオノーラは苦笑して頷いてみせた。

「人の姿をしたものがいると却ってわずらわしいのよね。私は部屋では一人でいたいたちなのよ」

イメージで言えば執事型のUIでも使っていそうだったが、意外な一面だった。

 部屋の突き当たりには大きな夜景が一望できる窓があって、前に三人は座れそうなソファが置かれている。要塞を見慣れているらしいキエロが真っ直ぐそこへいって飛び乗り、続いた花鈴が隣に腰を下ろした。その横には一人掛けのソファもあって、何の迷いもなく史狼がそこへ掛けた。指定席なのだろう。

部屋の中央にあるエレオノーラの『要塞』へ視線を移したが、2Dと3Dディスプレイにプリンタ、スキャナー以外は皆目見当がつかない。何がなんだかわからないが、どう考えてもここが週や月単位のレンタルでないことだけは理解できた。

「すごい機材だな。簡単に移転できないんじゃないか?」

「それはそうよ、移転なんてとんでもないわ。賃貸記録をいじって通年契約したことにしてあるもの」

どうしたらそんなことが出来るのか想像できないナナシは、そこには触れないことにした。大切なのは何ができるかだと思いきる。

「ともかくここなら、居所を突き止められたりしないんだな?」

「まずないわね」

言いきったエレオノーラが彼女の機材に接続した携帯をナナシに手渡した。既に名浜警備保障の代表電話番号が入力され、発信するだけになっている。

意を決してナナシは発信の項目をクリックした。

『いつもお世話になっております。名浜警備保障でございます。ご希望のサービスを仰ってください』

営業のものらしい女性のアナウンスが流れてくる。そういえば内線番号を知らなかったなとぼんやり考えていると、不意にアナウンスが途切れた。

『名浜警備保障です。何か御用件ですか』

落ちついた男の声だった。明らかに録音やAIではない、生きた人間が出たのだ。

ナナシが言葉に詰まっていると、一拍置いて向こうは探るような口調になった。

「失礼ですがお名前を承りたい。どなたでしょうか」

その声に聞き覚えがあったらどんなにか救われただろう。しかしナナシには全く思い出せない、覚えのない声だった。なんと言っていいかわからない。

緊張のせいか頭が痛くなってきた。

躊躇った末に口から出たのは、思ったより理路整然とした言葉だった。

「保護を頼みたい。おれはそちらに勤務していたが、先日任務遂行中に問題があったようだ。重傷を負って発見され、今は記憶を失っている」

「待ってくれ」

形ばかり依頼の強い口調で相手はナナシを制した。

「記憶を失った? 知人のように思えるのだが、声が少し違う」

知人? 声? ではこの人物は、自分に覚えがあるということなのか。

そう思った途端、ナナシは端末を強く握りしめた。手掛かりがあった。自分が誰なのかを知る術があった。

「咽喉が焼けて……気管と声帯をバイオウェアに交換した。近い型の声帯を選んだはずだが、記憶がないからおれには判断がつかないんだ」

「顔を見せてくれないか。確信が持てない」

「あなたはおれを知っているのか?!」

思わず声が跳ねあがる。

「顔を見せてくれ」

相手が声を荒げることもなく我慢強く繰り返した。顔ということはライブ通信にしろということだ。顔をあげると、ヘッドセットをしたエレオノーラが頷いていた。

要塞から離れたソファの花鈴とキエロが固唾をのんでいて、史狼は何のリアクションもない。していいということなのだろう。

緊張で手が震えていたが端末のライブ通信を指定する。

「これでいいか」

端末の画面で会社の社章が映った電話の受付エントランスが消えた。

どこかのオフィスの中らしき背景で、スーツを着た男がこちらを見ている。意思の強そうな太い眉とセンサーアイの青い目、髪を整えた男は長々と息を吐いた。

「……生きていたか、那智」

一瞬、何を言われているのかわからなかった。

那智というのは行方不明の代表者のはずだ。自分が彼だったのか。

「那智って。おれが?」

「少なくとも俺にはそう見える。映像を加工していないのもわかっている。だが遺伝子検査を済ませなければ確定事項にはならない」

それはそうだなとナナシは呟いた。門前払いを食わなかっただけでも安心していたが、何より電話の相手が自分のことを知っているらしいことに、今までにない安堵を覚えていた。

「明日こちらの指定する場所へ来て、その場で遺伝子検査を受けてくれ。随分腕のいいオペレータのところにいるようだな、居所が特定できない」

「当然ね」

要塞の真ん中でエレオノーラが微笑んだ。

「北海警備に追われているんだ。それである場所に転がり込んでいる」

「そうか。覚えていないだろうが、俺は同期の高上という。待っているぞ」

「わかった」

ナナシが応じると男はそこで、初めて微かに微笑んだ。電話が切れる。

しばらくの間、ナナシは茫然と携帯を眺めていた。


 電話が終わってみると、携帯充てにショートメッセージが届いていた。もちろんエレオノーラが一度ブロックし、複数のサーバー経由で再送させたものだ。

内容は地図の添付された文書がひとつ。明日の午後2時に本人に来られたし、というもので地図は厚別区にあるとあるビルを指定している。

当然ながら武装してくるなとも、一人で来いとも書いていなかった。

それでも乗り気にならないナナシへエレオノーラは困惑した声をかけた。

「今さら何が不安なの? 貴方が所属していた会社でしょう」

「でも彼が言ったじゃないか、俺が会社のリスクになるかもしれないって」

ナナシに指された史狼のほうは、棚から持ちだした日本酒を枡でぐいぐい呷っているところだった。話を聞いているのかと思うとナナシの中で苛立ちが募る。

もし会社がそのリスクを切り捨てることにしたのだったら?

自分が生きていること自体に問題があるのだとしたら?

記憶がない自分には、同期だという男の真偽はわからない。会社なら助けてくれると思ったが、これが罠で、自分の息の根を止めるためだったとしたらどうだろう。

「ナナシはいつまでも悩みが尽きないんだね」

キエロが呆れたいう感情を露わに声をあげた。

「少なくともあの話なら、遺伝子検査でキミがその那智だか誰だかだとわかれば迎え入れてくれそうな感じじゃないか。今夜中に出てこいと言わないだけ良心的でもあるよ」

「君も言ったじゃないか、おれがそんな工作員には見えないって!」

キエロからすれば彼の主張はただの不安にしか見えなかった。確かに記憶を失っている身とすれば、他人から知らされる己というのは受け入れ難いだろう。

「あちらは『確信が持てないから顔を見たい』と言ったんだよ? 口を塞げばいいだけなら声だ顔だと確認する必要はないさ。会社に戻れとか言って囲んで撃ち殺せばいいだけだよ」

「それは……!」

こんな子供に論破されかけていると思うと、かっと頭に血がのぼった。耳の上の奥あたり、ずきりと痛みを感じて顔をしかめる。

――いや、論破どうこうではない。躊躇している理由を説明して、理解して貰わなくてはならないのだ。でなくては彼らの協力は見込めない。混乱した頭の中が片付いていく。

「今すぐとならないのは作戦準備に時間が必要だからだろう。郊外を指定したのはおれの居所を掴めないだけでなく、指定した場所にグレネードでも撃ち込むつもりかもしれない。あの電話だけで信用はできないはずだ」

ひと息にまとめて反論されたキエロは目を瞬いた。

驚いたのは内容ばかりではない。明らかに途中までは感情的だったナナシが、突然感情を切り離して理路整然と話し始めたせいでもある。

それこそまるで切り替わったように。

「……それは御尤もとしか言いようがないね。ボクの発言も適当が過ぎたかな。でもその論理的な思考と説明をどうしてずっと維持できないんだい?」

聞き返されて初めて、ナナシははっと我に返った。

自分で考えていたのは確かなのだが、途中から熱に浮かされたような感覚に陥っていた気がする。ふわふわして現実感がない。

「あ、いや……どうしてだろう。というか、今おれが喋ったんだよな?」

キエロとエレオノーラが顔を見合わせた。死の淵から生還した人物であることはわかっているが、これほど不規則発言が続くと良くないのではなかろうか。

「貴方がこの状態だとわかったら、さっきの高上さんとやらも泣くに泣けないのじゃないかしら。同期なんでしょう?」

「そう言われても……」

返答も上の空だった。那智。なち。相変わらず聞き覚えはないが、同じ『な』がつくからナナシという呼称も受け入れてしまったのだろうか。

「那智さんの写真とか画像データはないの?」

花鈴の問いにエレオノーラが難しい顔になった。それは彼女が気に入らないことがある時の顔だと仲間は知っている。

「それはもう綺麗さっぱりとね。高上さんとやらが同期なら名浜の系列学校を出ていると思うのだけど。名浜のデータベースを全て浚うとなると、相当な時間をかけないと難しいわ」

先ほど高上と名乗った男が同期だと言ったので、エレオノーラはすぐさま高上の経歴を調べた。よくある話だが企業城下町で育ち、企業系列の小学校から大学まで出た口だ。それでも那智のデータが出てこないのには呆れるしかない。

当然企業もセキュリティには力を入れている。エレオノーラがこの『城』から仕掛けるにしろ、個人と企業では設備にかけられる資金に雲泥の差があるのだ。

企業に仕掛けられるだけエレオノーラの腕が卓越していると言えるが、明日の午後までとなると時間が足りない。

「ああそう、あとね。例のケータリングの会社やグールの施設とコンタクトを取っていた人の情報が手に入ったわ」

幾つもあるディスプレイのひとつに、無害そうな下がり眉の男の顔が表示された。この時代にと言えなくもない七三分けの髪、顎は張って顔が四角い印象だ。

眼はセンサーアイらしいが、人を威圧するためか緑色の虹彩を使っている。魔法使いを意識しているのは明らかで、キエロが素直に顔をしかめた。

「何だいこいつ。わざわざ緑なんて、感じ悪いなあ」

矢間やざま慶一けいいち、北海警備の強行班主任だそうよ。一年前に着任してから業績をあげているみたいね。坂本ケータリングサービスに最初に注文を入れたのが七か月前だったわ」

ガタンと音がして、エレオノーラとキエロが振り返った。画面を見たナナシがよろめいて椅子を倒し、それでも画像から目を離せずにいる。

「どうかしたの?」

「もしかして見覚えがあるとか? どうだい、ナナシ」

二人が声をかけても反応がない。重ねて声をかけられてやっと、ナナシは自分が声をかけられていることに気がついた。

「いや、やっぱり覚えてない。覚えてないが……」

理由がわからない。うまく口にできずにナナシは口ごもって、結局途中で言うのをやめてしまった。あの顔はひどく胸をかき乱す。

眉間にしわを寄せて俯いている彼に、花鈴が声をかけたのはその時だった。

「ナナシさん、頭痛いんじゃないですか?」

「え、……ああ、そうみたいだ。まずいかな」

気がつけば痛みはそれなりに強くなっていた。目も乾いている気がする。近づいた花鈴がナナシの額に手をあててみると、少し熱があるようだった。

「昼から時々痛そうでした。医師せんせいに電話して聞いてみますから横になりましょう。話は明日でもできますから。史狼、ナナシさんには先に寝てもらうね」

「構わん」

枡を空にした史狼が頷く。ふらつくナナシを支えて、花鈴はエレオノーラの部屋を後にしていった。ドアが音をたてて閉まる。

黙って見送ったキエロがソファの端にずりずりと寄って史狼を見上げた。

「いいのかい史狼」

「心配はない。ナナシが変な気を起こしてもあの身体スペックじゃ勝負にならん」

「違うよそこじゃないよ! ある意味そこだけど!!」

ソファの上でじたばたと暴れ始めるキエロを、史狼が面倒そうに見やった。

ナナシが不安のあまり逃走するのではないかという意味か、親切にされて勘違いの挙句花梨を押し倒そうとする意味か、どちらにせよありえない。

半分ほども減った酒瓶を棚へしまうと、史狼はエレオノーラの方を向いた。

「名浜警備保障のリンクソフト更新記録を調べろ。コアへのダウンロードは本人の承認が必要だ、内容と日付が残っているはずだな」

「ええ、そうだと思うけれど……何か気になるの?」

ログインをはじめながらエレオノーラが問い返す。リンクソフトの更新記録は内部情報だから、セキュリティを掻い潜らなくてはならない。

作業に没入するエレオノーラをよそに、史狼は窓の外の夜景を睨みつけて呟いた。

「これはとんだ悪夢かもしれんぞ」

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