第4話 平穏ならざる世界
男がひどく寂れた繁華街跡を歩いているのは、それから三日後のことだった。
科学や医学が進歩しようと限度がある。高熱に焼かれて銃弾を複数撃ち込まれ、腹を裂かれて代替とはいえ臓器を奪われた人間がそう簡単に起き上れるはずはない。
記憶を失っても世間の常識だけは残っている。
「なんでおれは歩けてるんだ?」
「黙ってキエロについてけ」
相変わらず史狼はまったく取り合わなかった。
しかし皮下装甲のおかげで炎と銃弾は一部を除いて浅い傷に留まり、腹腔まで達したのは二発のみ。穴があいたのは代替臓器で、しかも外されていたので代わりを入れて終わりだとはいえ。
大量に出血した後であり、筋力だって落ちているはずではないか。
首を捻る男にエレオノーラが通信機ごしに、笑みを含んだ声を返した。
『負荷抑制ソフトが痛みや吐き気なんかを抑えているのよ。どこの企業か知らないけれど、会社の支給品に感謝したほうがいいわよ』
闇医者によれば男の身体は神経系に随分と手を入れられているそうで、身体が損傷してもソフトを起動すれば極限まで動けるように調整されているらしい。
「頭や手足が吹っ飛ばない限りは動けるようにされてるってことだね。おお、恐ろしきは日本企業。ボクにはもうとても勤まらないよ」
首をすくめたキエロが先に立って道を歩いていく。この年齢で既に六年も企業で働いていた彼女が言うと、やけにブラックさが際立つ気がした。
「そんなレベルのバイオ技術が実用化されたなんて話は聞いていないぞ。それじゃほとんど兵隊じゃないか。おれは実験体か何かだったのか?」
『生憎だけど全世界レベルで常識よ。そこまでの人体強化は日本では警察と自衛隊ぐらいだと思われているけれど、実際には同レベルの人間たちが企業間で抗争をしているわ』
エレオノーラの返答に男は言葉が出てこなかった。
人体を酷使するような『改造』は軍隊のある国では常識だ。どこでも兵士は二十四時間活動できるよう、脳や体機能をブーストされ超人的な軍の運用が可能になっている。そのぐらいの知識はあるが、この日本で、しかも企業どうしの争いに?
今も痛みはほとんどなく、少し頭がふらふらするが歩くことはできる。けれど確かに自分は、ほんの数日前に死に瀕していたはずなのだ。
闇医者のところを出た男はワンボックスカーに乗せられ、札幌市南区の外縁部へやってきていた。ロシア軍との地上戦において札幌市は仮設壁を設けて抵抗を続けたため、その仮設壁の外は相当な被害を受けている。
それでも戦禍から十年を経ればそこそこ人々も戻り生活が始まり、一帯は町の再生と共に胡乱な商売人や商店も現れて、混沌とした様相を見せ始めていた。
道を歩いているのもひと癖はありそうな者が多く、普通の人間はこの界隈を見たら踵を返して立ち入らないに違いない。そんな道を歩いていても、キエロは怯むような素振りは見せなかった。史狼がついているせいもあるのかもしれない。
彼女が足を止めたのは、交差点の角にある店の入り口だった。スイング式のドアを開けてキエロが入ると男が続き、最後に入った史狼が扉を閉める。
そこはまるで迷路の入り口のような場所だった。天井まで完全に仕切られてはいないが、室内は高い壁で区切られていくつもの個室があるのが見て取れる。
カウンターにはカード型会員証を入れる認証システムがあった。会員だとわかれば割り当てられた部屋番号が表示され、部屋にもカードで入室する仕組みのようだ。
「なんだ、ここは?」
『ひと昔前はネットカフェとか言われていたわね。個室に入ってちょうだい』
エレオノーラからの通信で思い当たる。国民一人に携帯一台は当然、携帯からネットへログインも当然できるこのご時世でも、こうした施設は潰れずに残っていた。
自分の携帯端末から危ないどこかへ接触しないため、いわば弾よけとしてだ。
返事もしない史狼がポケットから会員カードを出すとスロットへ入れる。それとは別に支払いに前払い式のプリペイドカードを入れると、軽快な音と共に会員カードが吐き出された。カードに表示された番号を史狼が一瞥する。
「7番だ。行くぞナナシ」
「えっ?」
ぐいと引っ張られた男が聞き返すと、史狼は面倒げに唸った。
「おまえを呼びにくい。名がないからナナシだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「7番ならこっちだよ」
キエロが個室を見つけて手を振る。
うす暗い店内ですれ違う人々はどこか胡乱に見えて、男はびくびくしながら史狼について二畳ほどの個室へ入った。壁に作りつけのテーブルにはネットに接続するための端末――それもARやVR全盛の今時に、ディスプレイ式の古典的な端末が据え付けてある。その他には端末を操作するための椅子がひとつだけ。
室内を一通り調べ回って盗聴器や危険物がないことを確認すると、史狼はふんと息をついて壁に背を預けた。キエロが椅子にかけて、ポケットから取り出した小さなUSBを端末に接続する。
「……花鈴っていう、あの子はどうして来ないんだ」
男に問われた史狼が眉間にみしりとしわを作った。
「エレオノーラの護衛だ。
情報収集を得意とする人をオペレータと呼ぶことは男も覚えていた。もっともエレオノーラの場合車両の操縦もこなすようだが、車両の操縦接続中は身体を動かすことすらできない。
「護衛って……彼女にはセンサーリンクすらないじゃないか」
あんな娘に銃を持たせる気なのか。彼女の手を思い出して昏い気持ちになった。
センサーリンクによる照準補正なしでは銃の命中精度はかなり落ちる。余程目が良くないと移動する敵を継続視認できず、反射神経も追いつかない。
逆も然りで、だからセンサーリンクは世界中で使われているのだ。
「あんな子に危ない真似はさせるべきじゃないだろ」
「そういうことはちゃんと覚えてやがる。実は記憶があるんじゃないのか」
面倒そうに舌打ちをした史狼が唸った。
言われて初めて、自分がセンサーリンクと銃のことを覚えていたことに気がつく。日本で銃を使う上での知識が一般的なはずはない。
改めてどきりとした一方で、史狼の揶揄には抗議しようかと口を開きかけた男へ、キエロが振り返った。
「接続が始まったよ」
彼女の前のディスプレイには、立て続けに幾つものウィンドウが開かれては閉じ、次のポータルへ移っては開かれたファイルに検索がかけられ始めたりしていた。
およそ書いてあるものを読む暇もない、信じられないスピードだ。端末の前にいるキエロは何もしていない。
「何をしているんだ」
「何って。USBを経由してエレオノーラがこの端末に入っているんだよ。企業の情報に侵入することになるから、ねぐらからなんて危なくてできないしね」
そうかと頷きかけて男は固まった。今、侵入と言わなかったか。
「それはもしかして、その、クラッキングとかいう……」
『企業の受付に行ってあなたの皮下装甲の製造番号を見せて、従業員ですか、なんて聞けないでしょう?』
「俺なら聞かれた瞬間に
物騒極まりない史狼の感想になんでそこまでと言いかけて、思い当たる。
自分は社会にいるはずのない、軍人並みの肉体強化を施した存在だ。
そんな社員がいるとわかれば会社は世間の非難を浴びるだろうし、非合法な活動の有無を問われることになる。自分は所属を証明されてはならないのだ。
そう考えると、なんだか今自分がしていることは会社への裏切りのような気がしてきた。どこで、どんな仕事をしていたのかもわからないのに。
『皮下装甲の製造番号からは時間がかかりそうね……この間に市のVINシステムにお邪魔して、あの夜あの辺りを走っていた車のデータを吸い上げましょうか』
作業に没入しているのか、エレオノーラの呟きは独り言じみていた。どうやらナナシの下りも聞いていたらしい。どうせ本名はわからないのだから、この際ナナシで通してもいいかとすら思え始めた。
しかしVINシステムに簡単に侵入できるものなのか。
考えている間に市章の入ったサイトが開かれると、そこから見慣れない画面が次々とポップアップしだした。続いて画像が大量に画面に現れては消える。
「VINシステムは警察に使用権のあるシステムだけど、管轄上はカメラが設置されている地方自治体のデータなんだよ。で、警察よりは自治体のシステムのほうが侵入しやすいってわけ。豆知識だよ、ナナシ」
テーブルに頬杖をついたキエロが解説を加えた。顔をこわばらせたナナシがキエロと史狼をちらちらと見て、ただでもよくない顔色を更に青ざめさせる。
「……合法違法問わずって、こういうことなんだな。よくないんじゃないか?」
史狼が苛立ちをこめて舌打ちをした。随分とまっとうな倫理観のある発言だ。
「どう考えても合法じゃないおまえに言われる筋合いはない。愛社精神でも思い出したか?」
「そんなことは……ないが」
「まあいい。おまえの記憶にしろあてにならないしな」
思いがけない言葉に男は目を瞬いた。手掛かりの一つのはずではないのか。
「いや、でも、何かの拍子に思い出すかも」
「死ぬまでに思い出せればマシだがな、記憶なんてものは脆い。物証を一つずつ積み上げておまえに見せるだけだ」
企業相手では、その物証すらなくなっていないことを祈るばかりだと唸る。
ナナシが二の句を告げずにいる、その時。
不意にけたたましい警告音が鳴り、画面で赤い光が明滅した。ポップアップしていた四つのグレーのファイルが展開し、二つが赤くなって画面から消えて行く。
「見つかったのか」
『誰かがナナシさんの皮下装甲の製造番号検索で網を張っていたみたいね。もうIPアドレスを突き止められていると思ったほうがいいわ。推定5分経過』
「USB抜くよ」
手品のように素早く開かれていたウィンドウが閉じられていき、画面が消えると同時にキエロがUSBを引き抜いた。ポケットに突っ込むとローブのフードをすっぽりかぶる。
史狼はコートの内側からベレッタを抜くと
通路の突き当たり、入口にあるガラス窓の前を黒っぽい人影が何人も駆け抜ける。
『最寄りの暗号化された通信リンクを見つけたわ。覗き見するわよ』
エレオノーラの言葉と同時に、男の視界内にAR表示がポップアップした。
センサーアイは多少のデータなら視野に重ねて表示ができるようになっている。
一瞬のノイズの後に立ちあがったデータはこのネットカフェの施設平面図だった。入り口付近に四人の人型アイコンが固まっていて、あとは店の外、四面に二人ずつ人が展開している。
通信リンクに同期しているのは十六人、残りの四人は地下駐車場を押さえているようだ。エレオノーラが車をネットカフェの地下駐車場ではなく、一区画離れたビルの駐車場に入れた意味がやっとわかった。
それと同時に、暗号化された通信リンクにいとも簡単に侵入し、自分たちまで入れてみせるエレオノーラの技量に絶句する。
センサーリンクのついたサングラスで確認した史狼の返答は短かった。
「いつもどおりにいくぞ」
『了解よ。二十秒でスタート、西の通りに出て』
それだけ告げてエレオノーラからの通信は切れた。同時にAR表示も消える。
「ナナシ、身をかがめて布で鼻と口を塞げ」
ネックウォーマーのようなものを顔に引きあげながらの史狼の言葉と同時にガラスの割れる音が店内に響く。次いでガスが漏れるような音が聞こえてきた。
訝っている間に、床や天井からもうもうと煙がたちこめ始める。催涙ガスだ。個室が完全に仕切られていないせいで、あっというまに店じゅうに蔓延していく。
「うわっ、これ何……」
客の誰かが驚いて個室を出たようだ。続いて数発の銃声が響いた。
どさりと重いものが倒れる音が響く。無関係の客が撃たれたのだ。
突然ぼんやりとした光が灯ってナナシは振り返った。同じように屈んだキエロの指に白い光が灯って、空間に何かを描いている。光は黒板にチョークで記されたように宙に留まり、記号のようなものができあがるとキエロが囁いた。
「入口側5メートル先の通路に二人。そのすぐ後ろに二人、軽機関銃」
突然魔法の発現を目にして、ナナシは言葉もない。
ただ意外なことにそれはどこか現実感を欠き、想像していたような恐怖や嫌悪には直結しなかった。キエロは光に目をやるばかりでナナシを気にもかけていない。
ドアノブに手をかけた史狼がベレッタを構えて動かない。彼が小さく『……二十』と呟いた時、外から動揺した声があがった。
「
「中が見えない!」
全身の毛が逆立つような恐怖を覚えて、ナナシは息をのんだ。
エレオノーラが言った『二十秒でスタート』とは、敵の通信網に障害を起こすということだったのだ。侵入もあまりに早かったが、そんな速さで障害を仕込めるなど聞いたことがない。
同時に扉を開け放った史狼が低い姿勢から狙いを定める。今ならエレオノーラが彼らの通信リンクに流し込んだウイルスでセンサーも反応しない。
通路にいた二人に一人頭二発ずつの弾を叩きこんで、史狼は個室を飛び出した。
倒れた二人は暗色のつなぎの服に弾薬を詰めているらしいチェストリグ。明らかにこちらを殺しにかかっている出で立ちだ。企業系の工作員に間違いない。
慌ててナナシも後に続き、キエロも遅れず駆け抜ける。盲撃ちの機関銃の発砲音を尻目に店内の通路を抜け、西側道路に面した窓まで足を止めなかった。
相手がエレオノーラの撹乱によりこちらの位置を見失い、目視も通らない煙の中だからこそ今無事なのだとナナシにもよくわかる。
大きな窓の外にも、銃を携え暗色のつなぎの服を着た二人の男が見えた。彼らは通りを信号無視かつ猛スピードでこちらに近づいてくるワンボックスカーに気をとられているようだ。
「行くぞ」
史狼がベレッタの銃把で窓ガラスを叩き割った。片方の男が振り返ったが、もう一人は急停止するワンボックスカーに向かって銃を構えようとしている。
史狼は車へ銃を向けている男へ引鉄を引いた。背中から撃たれた男が倒れこみ、助手席のドアが勢いよく開いて誰かが飛び出してくる。
それが花鈴だとナナシが気付いたのは、路面に跳び下りてからだった。
史狼に狙いをつけた男の銃は、駆け寄りざまの花鈴の回し蹴りで吹き飛んだ。
「えっ?」
思わず自分の目を疑う。彼女に機械的な増強が一切ないなら、いくら隙をついたとはいえ基礎筋力から強化されている工作員の銃を落とすことはできない。
そういえば魔法は使えないが魔力があるくちだと言っていたことを、ナナシは今更思い出した。つまり彼女は魔力を身体能力に転換する能力者なのだ。
その場の全員が戸惑っている間に更に相手の懐に踏み込んだ花鈴は、ぞっとするような打撃音を三度響かせて鳩尾に連撃を叩きこんだ。バイオ部品が拉げる音がして、息を詰まらせ男が地面に崩れ落ちる。それきりぴくりとも動かない。
隣にぽんとキエロが飛び降り、小走りでワンボックスカーへ駆けこんで行った。
「君……」
花鈴に話しかけたナナシの声を花鈴が遮る。
「後ろ!」
悲鳴のような声が終わるより早く、ナナシの耳に警告音が聞こえてきた。これは外からの音ではなく、頭の中、コアからの指示音。
自動的にセンサーリンクが起動して背後に
撃たれる。
ナナシの身体は無意識のうちに動いていた。
横っとびに転がりがてら史狼に倒された男が落とした機関銃を拾う。サプレッサー付きH&KのMP7。銃把を握ってリンクを接続――しようとした途端、痺れるようなショックが走って軽機関銃を取り落とした。
振り向きざまの史狼の9ミリ弾が相手の眉間を穿つ。声もなく相手が倒れ、史狼はナナシの襟を鷲掴みにすると引きずるように車へ走った。花鈴も助手席に飛び込むと、タイヤの焼ける匂いを発しながら急発進する。
後部座席の中央にエレオノーラがいた。座席に身を預け、後頭部の接続ポートに座席から伸びるコネクタを繋いでいる。その隣には既に姿勢を低くしてシートベルトをしたキエロ。
ぐんとGがかかってワンボックスカーが加速した。車そのものに意思があるように誰もいない運転席でハンドルが動き、交差点で曲がった後方から車が追いすがる音が聞こえてくる。車体後部に着弾する音と衝撃が襲って、ナナシは悲鳴をあげて身を屈め頭を庇った。
『史狼、反撃は任せたわね』
横たわったエレオノーラの唇は動かず、車内スピーカーが合成音声で彼女の言葉を伝えてきた。苛立たしげに舌打ちした史狼が後部座席の右シートを倒す。
と、がらりと音をたてて倒れ込んできた銃器の中に手を突っ込んでイングラムを掴み出し、窓を開けて身を乗り出した。
命中精度がいいとはお世辞にも言えない銃だが、相手が車ならそれなりに当たる。
フルオートで弾をばらまくとイングラムは結構な騒音と9ミリ弾を嵐のように吐き出し、ナナシはシートに身を縮めて騒音の終わりを待った。
発砲していた相手に命中したらしく相手からの銃声は途絶え、十分ほどのチェイスの後、エレオノーラは追跡を振り切ったのだった。
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