第2話 みぞれの夜に

 ヘッドライトがひびの入ったアスファルトを照らし、夜道をシルバーのセドリック・スペシャル6が時速六十キロで走っていた。以前なら余程交通量のない農道でもない限り街灯がついていたものだが、世界的な異変、それに続く戦乱の後では、日本といえど街の郊外で無事な街灯は稀にしか拝めない。

冷たい雨が降りしきっていた。

季節は春になろうとしているが、北海道は本州より季節がひと月遅れてくる。

フロントガラスを叩くみぞれ混じりの雨に、ドライバーは溜息をついた。

「やだなあ雨……ねえ史狼しろう、見にくいしスピード落としていい?」

 黒いジャケットの下はダメージジーンズという身形の彼女は若かった。オーバルの眼鏡をかけた顔立ちは美人というよりは可愛らしいというほうが相応しい系統で、肩でざっくり揃えた髪形もあって二十歳より上には見えない。

応えは木で鼻をくくったようなものだった。

「何の為の練習だ。いいから六十保って行け」

「はあい」

史狼と呼ばれた男は、助手席で前を見たまま眉ひとつ動かさなかった。

 無駄を削ぎ落とした身体に冬物じみた長いコートをまとい、名の通りの狼のような三白眼と無表情が険呑な雰囲気を際立たせる。運転席の娘よりは長い髪を頭の後ろで一つに括っているが、前髪は目にかからない程度に鋏を入れていた。

男が手にした棒で助手席の床をとん、と叩いた。否、棒ではない。反りの浅い黒塗りの鞘、添えた手元で鍔がかすかな音をたてる。

 セドリックは外観こそ古めかしいが、計器盤には最新型のナビゲーションパネルが嵌っている。時速と走行距離が表示されていて、フロントガラスにARで駅の方向を示す矢印と【JR北広島市駅前 到着予想時刻6分後】と表示が出ていた。

しばらくの沈黙の後で男が口を開く。

花鈴かりん

「なあに?」

「おまえが運転向いてないのはわかってるだろ」

断定的な言葉だったが咎める様子はない。それは彼女にも伝わっていて、カーブにさしかかるとハンドルを若干切りすぎながら答えた。

「それはほら。エレオノーラが忙しかったり、史狼が手いっぱいって時に、私が運転できたらちょっとはマシじゃないかなって」

「俺が手いっぱいなら状況は詰んでる」

彼の発言を尤もだと花鈴と呼ばれた娘も思っていた。

『仕事』中の運転に関してはこの場にいない仲間に一任されている。この車の持ち主である史狼も充分な腕がある。とはいえ、非常事態を考えれば――そんな事態に陥らないことが重要なのだが――運転できる者が多いに越したことはない。

その考えを理解していればこそ、ギアチェンジに失敗してはエンストしまくる自分の運転に付き合ってくれているはずだ。

道を走る車のほとんどがオートマチック車の昨今に、マニュアル車であるこの車で覚えろと言ったのだって万一を考えてのこと、だろう。

ヘッドライトの照らす道の真ん中へ誰かが迷い出たのは、あれこれ考えを巡らせている最中のことだった。

「えっ?!」

け」

運転席と助手席の両者、同時。

しかし轢けと言われてアクセルを踏める者はそういない。

「無理無理無理無理!」

ハンドルを切りながらブレーキを踏む娘をよそに、史狼の目は相手を捉えていた。


 こんなみぞれの降る夜中に、郊外の道端に現れた血まみれの男。

 絶対トラブルがらみに決まっている。


車体は鮮やかにスピンした。それでも避けきれたのは、咄嗟に切ったハンドルさばきと多大な幸運のおかげだろう。古めかしいセドリックは水飛沫をあげながら二回転、対向車線の路肩まで行ってなんとか止まった。

サングラスをかけながら、史狼がドアを開けて外へ出る。

「反射神経は及第点だな。轢いとけば満点やったものを」

「普通轢かなくて褒めるとこだからね?」

たった今運転していた車がスピンしたばかりとは思えないほど、落ちついた切り返しをした花鈴も続いて車を出た。

辺りにあるのは放棄された家屋ぐらいで、およそ人が出てきそうな場所ではない。

 北海道の野生生物といえばヒグマとエゾシカだが、キタキツネや小動物を含め、衝突を避けようとして対向車線にでも飛び出せば事故は必至。

迂闊にハンドルを切るのは考えものであり、その点史狼の言は正しい――が、花鈴とて詳細は見えていないにしろ、あれが人だったことは視認していたので素直に頷いたりはしなかった。

暗い路面に小さな光の円が当たる。史狼が懐中電灯を点けたのだと気づいて、小走りで駆け寄った。


 路上に現れた人影は路面に倒れ伏していた。史狼が刀の鞘でひっくり返すとなんの抵抗もなく仰向けになる。見たところは三十代ほど、血色を失った男だった。

レザージャケットにTシャツとズボンの全てが黒だが、着衣とその下の身体いたるところが血にまみれている。着衣は前面が焼けて着ていないも同然の状態だ。胸から腹ばかりか、腕や脚にも火傷が広がり弾痕が穿たれていた。時折身体が跳ねるところを見ると生きてはいるのだろう。そして。

「血まみれ……お腹のこれ、刀傷?」

「違うな」

男の腹は大きく裂かれた後、適当に縫合された痕跡があった。

自身も使う得物だから傷口がどうなるかは知っている。これはもっと刃幅の狭いもので正確に位置を定めて切られたものだ。

史狼はうなじにあるコアポートからコード状のセンサーリンク端子を引き出した。サングラスと接続すると、視野の中央に捉えた男の体温や呼吸数が計測され、男の状態が視界にポップアップする。

【現状で生存可能な時間は約三十分】。

辺りを見回してみたが、廃墟ばかりで明かりのついている建物は勿論ない。

こんな状態の男がどこから出てきたというのか。かなり気分が悪い。

「車に戻れ。帰るぞ」

「え、でも手当しないと死んじゃいそうだよ」

「こいつとは友達でも顔見知りでもないし依頼人でもない。今のところ……」

史狼が言葉を途切れさせ、不意に路肩へ顔を向けた。彼に倣って花鈴も向くと、ちらちら揺れる細い光の筋が近づいてくる。

 雨の中を路上の二人へ近づいてきたのは、白いつなぎの服を来た男だった。足元はやはり白い長靴、いやブーツ。頭にも白いキャップをかぶって、唯一出ている顔が戸惑っていた。光の筋は彼が手にした懐中電灯だったようだ。

「この辺りで男を見なかったか? 運搬中に居なくなってしまったんだ」

医療従事者に見えなくもない。死体処理業者にも見える。

顎をしゃくって、史狼は路上の男を示した。

「こいつのことか」

「ああ、ここにいたのか」

男がほっとした顔になった。すぐに倒れた男の傍へ行くのかと思ったが、その場で立ち止まるとポケットから無線を取り出した。相棒でも呼んでいるのだろうか。

一言言わねばと思った花鈴は頭を下げて男に詫びた。

「ごめんなさい、私、轢きそうになっちゃって」

「大丈夫だ。それより、その男と話したか?」

「話していない」

史狼は叩きつけるように答えた。

倒れた男がこの白衣に回収されるのが当然だろうとそうでなかろうと関係はない。

白衣の邪魔さえしなければ面倒事には巻き込まれないで済む。

 不意に、路上に横たわる男が咳き込んだ。史狼と花鈴を見上げ、次いで白衣の男を視界に収めた顔が歪む。ひどく濁った声が聞こえた。

「た……すけ……」

 白衣がポケットから何か出そうとするのを、史狼は視界の端で捉えていた。路上の男へでなく自分たちへ向かってだ。

踏み込んだ一瞬で刀を鞘ごと相手の咽喉に叩きつける。蛙のような声をあげた男がポケットから掴みだした拳銃を蹴りで叩き落とした。よろめいたところを踏ん張って、白衣が今度は腰からナイフを抜く。

ただでも鋭い史狼の眼光は物騒という領域を超えた。

話したか、と聞いたということは、声を聞いた自分たちをただでは帰すまい。

「車へ戻れ!」

花鈴へ怒鳴ると同時に刀の鯉口を切った。手首を返し、踏込みと同時に白衣を逆袈裟に斬り裂く。

血の華が咲いた。右脇腹から左の胸へかけて斬撃を浴びた男は、ナイフを取り落として膝をついた。手応えを確認した史狼がコートの端で血を拭って鞘に納める。

 一方、車へ戻るどころか路上で倒れている男に駆け寄った花鈴は、外見からは考えられない力で彼を担ぎあげるとセドリックへ取って返した。

後に続いた史狼の足元を弾がかすめる。銃声はみぞれに掻き消され聞き取り難い。

「ああクッソ、面倒な」

吐き捨てながらコートの内側からベレッタを抜き、史狼はサングラスのセンサーを暗視モードへ切り替えた。血にまみれてのたうち回る男の向こう、銃を手に駆けてくる人間が見える。その後ろにもう一人と、離れた場所に軽貨物車。

 掌のポートがベレッタの銃把にある接続端子と噛み合うと、サングラスの視界の隅に青白い文字が現れた。

【92FS接続】

視覚操作で近い方を指定、センサーリンクで照準が自動的に補正される。引鉄をひくと狙い過たず追跡者が倒れた。

後部ドアを開けた花鈴が男を放りこんでドアを閉め、運転席へ滑り込む。

セドリックの横っ腹に、今度は軽快な音をたてて連続で弾が叩きこまれた。もう一人は自動小銃を持っているようだ。生憎そこそこの防弾仕様でまだ穴は開かない。

史狼が助手席に飛び乗ると同時に、ディーゼルエンジンが電気自動車には出しようもない咆哮をあげた。

「エレオノーラ、出せ!」

花鈴が手をかけるより早く、ギアが勝手に一速に入ってクラッチとアクセルペダルが動く。急発進したセドリックはアスファルトにタイヤの痕をつけながらその場を走り去った。

車のナビゲーションパネルに光が灯る。

『何やってるのよ、せっかくのデートだから覗きは控えてたのに!』

スピーカーから遠慮なく浴びせられるこの場にいない第三者、不満そうな女の声に濡れた顔を拭って史狼は唸った。

「おまえの世界じゃ、逐一場所と音声を確認し続けるのは控えてることになるのか。あとこれはいつからデートだったんだ」

『セーフハウスを出た時よ!』

「ごめんエレオノーラ。練習にならないね、これじゃ」

憤然とした女の声にいささか落ち込んで、ダッシュボードからタオルを出した花鈴が片方を史狼に渡しながら詫びを口にした。今日はよく謝る日だ。

『いいのよ。あの急場で貴女にやらせたらエンストしたでしょうから』

史狼へ猛然と噛みついていたスピーカーの声は掌を返したように和らぎ、笑顔すら見えそうな慰める様子に変わる。

 車は道なりにハンドルを切っているが時速は百キロ近い。花鈴がハンドルを握っていないのは、車のナビゲーションシステムを他者が支配しているからだ。

出荷される一般車両に自動運転システムが導入されてかなり経つ。そうしたソフトに侵入して車両の操作を得意としているのが、仲間のエレオノーラだった。

ちなみに侵入するのは車だけではないし、それは立派な犯罪だ。

『それで、お荷物さんは生きているの?』

「息はまだしてるな。ドアを開けろ、棄てるぞ」

サングラスを外した史狼の目があまりにも本気で、花鈴は慌てて首を振った。

「だめだよ! エレオノーラからも言って、この人死んじゃいそうなの!」

んー、とエレオノーラが唸った。

車内の話とセドリックの車載カメラで大体の事態はわかっている。二人が車を下りたあとは史狼のサングラスについている通信機能で話も聞いていた。

花鈴は助けてと言われて見捨てられるようなタイプではない。

『まあほら、史狼。あなた弾使っちゃってるし、請求しないとじゃない?』

「あ、そうだよ。ちゃんと話聞いて、弾代貰おうよ」

頭痛を感じて史狼は眉間のしわを深くした。

関わっただけでこの騒ぎだ、男から足がついて面倒なことになる気しかしない。

しかも男が助かるとは限らない。身元不明の死体に弾代が払えるだろうか。


 深々と溜息をついた史狼と、血にまみれた男の介抱を始めた花鈴を乗せて、運転席側のボディが数か所凹んだセドリックは暗夜の中を街へ向かっていった。

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