第五節

第52話:烏輪と柳(一)

 薄暗いLEDライトに照らされた、無機質なクリーム色の廊下。

 烏輪と九天の足音が、少しだけ反響している。


 いや。良く聞いていると、九天の足音はほとんどしていない。それはほとんど忍び足。烏輪は「この人、忍者?」と訝しむ。

 床はタイルが敷いてあり、所々ひび割れている。場所によっては、完全にタイルが剥がれて、コンクリートの床がむき出しになっているところもある。それを九天は、器用に音を最小限に抑えて進んでいく。

 別に今さら、音を出しても関係ないはずだ。なにしろ、戦いながら進んでいるし、烏輪は普通に歩いてしまっている。だから忍び足は、ほとんど無意識にやっているのだろう。


 分かれ道に突き当たると、九天は持っていた小さな円柱形のオプションをつけたスマートフォンを左右にふる。

 するとゴーグルのレーダーに反応が拡張現実ARで表示される。


 作戦は成功していたようで、特殊ペイント弾の痕跡は確かに残っていた。色があるわけではないため見た目では分からないが、九天の持っていたオプション付きスマートフォンでは見つけることができている。ただ、反応がそこまで良くないらしく、歩みはゆっくりとなっていた。


 階段を上り、廊下を進み、部屋を突っ切っても、まだ道のりはある。最初、これは迷っているのではないかと不安になった。

 しかし、途中で「楔」を見つけた。それは呪術が掛けられた五センチほどの杭だ。それが廊下の隅や家具の影にひっそりと挿されていたのだ。

 烏輪には、この術式がどういうものか分からなかったが、まずまちがいなく「彼女」がつけた道標となるものだろう。


 とりあえず、道は正しそうだ。ただ、どこまで行けばいいのか分からない。まだまだ道はあるのかもしれない。


「話しかけてもOK?」


 だから、というわけではないが、いつもなら自分から他人に話しかけない烏輪の口が開いた。別に暇だからおしゃべりしようと思ったわけではない。先ほどのことを思いだしたのだ。


「……なんだ?」


「さっきの質問の答えをまだ聞いてなかったの」


「……ああ」


 歩みをとめず、九天が背中を向けたままで答えた。

 烏輪は、その背中に質問を投げる。


「どうして、こちらの世界に足を踏み入れたの?」


 烏輪は、それがずっと気になっていた。

 一般人が異能力者の世界に来てもいいことはないはずだ。力がない者には、目の前にある死の危険さえも知ることができない世界なのだ。


「こちらの世界のことは、多くの者が気がつかず、一生を終えるの。知らない方が、幸せなこともあるの」


「巻きこまれても、知らない方がいいと?」


「そのための異能力者ボクたち。できるかぎり、障害は排除しているの。記憶も操作して、人の死は事故か病気で普通に死んだことになるの。不要な苦しみも、恐怖も、覚えている必要はないの」


 烏輪の言葉に、九天が大きなため息を返す。


「――ったく。勝手な話だ。不要かどうかは、誰が決めるんだ? 少なくとも俺の中に、不要なものはない」


「超常的な現象は、普通の人間にはどうにもならない不幸。悔いても、悲しんでも、どうにもならない。覚えていて、意味がないの。だから、不要」


「つまり、どうにもならないことは、あきらめて忘れろと? ……まあ、普通はそれでいいのかもな。だがな、俺はそれがイヤだったんだ。守りたい者を守れなかった。撃った弾丸が、標的を抜けて空しく飛んでいく姿を二度と見たくなかった」


 その九天の声に、烏輪は苦渋を感じる。

 背中しか見えないが、その表情の想像はついた。

 彼も味わっているのだ、あれを。

 あの自分の無力さを感じる瞬間を。


「無力……それは、自然の摂理に近いの。普通の人間には、どうにもできないことだから……」


「いいや。違うな」


 やっと、九天がふり向く。


「本当に無力な人間なんていないんだ」


 力強い言葉。

 そして、その双眸の輝きに、烏輪はとらえられてしまう。

 まっすぐと、まるで頭の奥まで覗きこむような黒い瞳が強く光って見えた。

 それが、彼女を釘付けにする。


(なんて深い、黒……)


 漆黒とは違う。どこか透明感があり、奥行きを感じさせる黒。

 その黒いベールの奧には、きっといろいろなものが隠されている。


 それが見たい。


 それが知りたい。


 この変わった男のことがもっと知りたい。


 烏輪に今までにない、欲求が生まれる。


「人は無力じゃない。何かしらできる。道具がいるかもしれない。多くの仲間が必要かもしれない。それでも、意外にいろいろなことができる力がある」


「……どんなに力があっても、及ばない時があるの。それどころか時には、あなたの言う『守りたかった者』を自らの手にかけなければならないの。その時はどうする……の?」


 それこそが、もしかしたら彼女が一番聞きたかったことかもしれない。

 この強い意志と力を持つ男なら、どうするのだろうか。

 自分と同じ選択をするのか、それとも別の選択があるのか。

 烏輪はまるで願うように、そして責めるように、下から顔を寄せた。


「……小娘は、どうするんだ?」


「もちろん、その時は斬るの。斬るためにボクは、他人に情をかけないの」


「斬るために、情を切る……と?」


「それだけ過酷な、世界。割り切らなければ戦えないの」


 そうだ。それがこの世界の真実だ。正しい回答だ。

 だからこそ、烏輪は早苗を斬った。

 それをこの男にも認めてもらいたい。認めさせたい。認めさせなくてはいけない。

 無力であることを、どうにもできないことをどうにかしてしまいそうなこの男に。

 どうにもならないから、仕方がないことなんだと。

 その選択は正しかったのだと……。


「……違うな」


「え?」


 だが、九天は否定した。

 そして踵を返し、また歩み始める。

 烏輪は慌てて続く。


「お前たちが使っている術は【切】っていうんだろう。なんで【切】という名だと思っている?」


 唐突な質問に戸惑いながらも、烏輪は習ったとおりに答える。


「切直。悪しきを断ち切り、良き道を切り開く技、だから」


「それだけか?」


「それだけ、とは?」


「本当に小娘だな。だから、お前の太刀は兄貴に及ばない」


「――!!」


 さすがにカチンときた。

 偉そうに語る目の前の男は、口調から【切】を詳しく知らないはずだ。そのよく知りもしない一般人の男が、幼い頃から血豆ができるほど柄を握りしめ、青あざが尽きぬほど打ち合いを重ね、普通と違う力に苦しみながらも、命と心を削って鬼を斬ってきた自分に、なにを偉そうに言うのだろう。

 否。

 こんな男に、何かの答えを求めた自分が愚かだったのだ。


「……おじさんに【切】の何が分かる、の?」


 殺気までこめて、烏輪は噛みしめるように九天の背中に敵意を投げつけた。

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