第51話:壁を超える者たち(五)

「落ち着くんよ! それは――」


 那由多がなにか叫ぶが、耳に届いても柳の頭の中まで届かない。なにを言っているか理解できない。さすがの柳も、左腕が肩の手前まで溶け始めているのを見て、冷静でいられるはずがなかった。

 まるでブラックベリー色の血液が、あたかも生きているかのように蠢き、それが骨肉を煙も揚げずに溶解させ、もう上腕もほとんど残っていない。このまま行けば、自分の体はこの血液に喰われてしまう。

 それどころか、慌てて触った右手まで溶け始める。


 ああ、右手の指がまた落ちた……。


 ぽろぽろ、ぽろぽろ……。


 どろどろ、どろどろ……。


 夢じゃないのかと、現実感をなくす。

 気が動転しすぎて笑いだしそうになる。



「――オン!」



 だが、そんな混乱が唐突に止まった。

 那由多が唸るような呪文と同時に、錫杖でなくなったはず・・・・・・・の柳の左手をかるく叩いたのだ。

 とたんに、叩かれた痛み・・・・・・が響く。

 一方で、他の痛みがなくなった。

 はたと気がつくと、両手ともなにも問題なく残っている。

 蠢く血液もなくなっている。


「……まぼろし?」


「恐怖に囚われちゃダメなんよ。恐怖は呪いを増幅するんよ」


 那由多のその言葉でやっと状況を理解する。

 トラップだ。ロックがやたらに簡単だったのは、この呪術のトラップがあったからなのだろう。自分は見事に、それにかかってしまったわけだ。

 初めての幻覚に、とまどいと口惜しさを感じながら、柳は改めて絵画を睨む。


「――ひぃっ!」


 ひきつった声で、柳は思わず尻もちをつく。

 これも幻だろうかと思うが、その生々しい温かさを感じる脈動は現実にしか思えない。

 金の額縁は、一言で表せば「腸」だった。いくつもの腸のような者が、支離滅裂につなぎ合わされて、それが生きているかのごとくたまに波を打つ。その度につなぎ目の所々から、先ほどのどす黒い血がピュウと吹きだしていた。


「怖いなら目を瞑っているといいんよ」


「――なっ!」


 那由多にしてみれば、本気で心配して言ってくれた言葉なのだろう。

 だが、柳にしてみれば、馬鹿にされた気分だ。とは言え、今さっきみっともなく叫んで、今も尻もちをついている状態だ。言い返す言葉が見つからない。


「…………」


 せめてもの反抗というわけではないが、即座に立ちあがって平然を保とうとする。

 そして目を反らさずに、柳は絵画を再び観察した。


 だが、見なければよかったと、すぐに後悔する。


 絵画の少女の頭の周りに何本もの腕が現れていた。それも立体ではない。まるでアニメでも見ているように、絵画の中で腕がニョキニョキと今もゆっくり生えてきている。

 その腕が、次々と少女の頭に巻きついていく。

 そして、完全に彼女の顔が、数多の手で見えなくなった時。

 ボキッという鈍い音と共に、頭が後ろに持っていかれた……ように見えた。

 実際は二次元だが、そうとしか見えなかった。


 声も出せない柳は、それを呆然と見ていた。


 ただただ立っている、首がもがれた少女。

 その首からは、大量の血が流れだしている。

 まるで血の入ったバケツをぶっかけたように、それは体を染めながら足下まで滴っていく。

 絵画の土が、血を吸うように変色していく。

 すると、こんどは桜の根が、先っぽを地面から顔をださせる。それは穴から出てきたウツボのようにウネウネと動き、少女の脚に絡まっていく。

 根が先端から赤い筋を作っていく。

 それは吸血。

 根から幹、そして枝へ。

 そして、葉の色を喰らい紅に染めていく。



――さ~く~ら~


――さ~く~ら~


――やよいの空は


――見わたす限り



 それは唐突だった。

 どこからともなく、少女と言えるような幼い声で歌が聞こえてくる。

 なんの歌だったかと頭が判断する前に、絵画の中の桜の枝が爆発的に伸びて広がった。

 瞬き一、二度ぐらいの間で、踊り場は朱色の花の天井で覆われた。

 二次元の桜が、三次元に侵食してきたのだ。


(紅色の天井……まるで……)


 ふと、柳は桃の木の結界の風景を思いだす。

 しかし、あれとは同じ赤系と言えども、まったく違う。桃の木の結界は穏やかな気持ちになった。ところがこれは、心がざわめき、押しつぶされそうな恐怖感を感じる。



――かすみか雲か


――匂いぞ出ずる



 少女の歌は続く。

 まるでそれに合わせるように、異様な臭いが漂い始める。

 錆びた鉄のような臭い。

 ほんの少し嗅ぐだけで、眩暈がしてくる。


「逃げよう!」


「どこへ逃げるんよ?」


 那由多の冷たい返事に、柳は慌てて周囲を見る。

 そこにあるはずの階段も窓もなくなっていた。見わたす限りの黒い空間。真っ暗なはずなのに、ピンクの花びらが遠く彼方まで広がり降りそそいでいるのが分かる。


「これ……って?」


「手の込んだ罠ね。まあ、タネはわかったんよ。私の背中に張りついてなさい」


 大人しく指示に柳が従うと、那由多が錫杖で床を強く叩いた。



――シャン!



 澄んだ音が、降りそそぐ花びらを周囲に蹴散らす。


「オン・アミリティ・ウン・ハッタ!」


 那由多の朗々とした真言がこの場を支配し始める。


「オン・アミリティ・ウン・ハッタ!」


 同じ真言が何度かくり返される。



――いざや いざや


――見にゆかん



「我を守護する甘露軍荼利菩薩かんろぐんだりぼさつよ、明王のグンダリニーを業火の大蛇とし、邪を打ち砕き、浄めたまえ! オン・アミリティ・ウン・ハッタ!」


 どこからともなく聞こえる歌を那由多の力強い真言が遮った。

 刹那、那由多の唱えたとおりに炎がまるで蛇のごとく周囲を走りだす。

 それはとぐろを巻き、頭上まで舞い上がった。


 熱い。


 炎に包まれ熱いのだが、火傷をする感覚ではない。

 体の中から何かが燃え上がる感覚が、全身を襲ってくる。

 病気の発熱とも違う。


 ただただ、漠然と「熱い」と感じる。


 だが、それも数秒のことだった。

 炎の蛇は、そのまま桜の天井に体すべて昇らせた。

 そして、這い回るように桜の天井を焼き尽くしていく。

 それはまさしく、大蛇が花畑を蹂躙しているようだ。

 バチバチと激しい音を立て容赦なく進む姿は、残酷でもあり、どこか美しくもあった。

 炎の大蛇は、最後に絵画の桜の木を焼いて、さらに根を伝わり少女の体を焼き喰らい尽くす。


「…………」


 気がついてみれば、周囲の風景は元に戻っていた。絵画の額縁も、最初の金色のツタの枠に戻っている。

 唯一、変わっていたのは絵画だった。

 そこにあった構図は、真っ黒に焼き尽くされて炭となった桜の木と、頭のない白骨となった少女の亡骸であった。白骨は燃やされたことが苦しかったかのように、手を上に上げてもがいているかのような姿で立っている。絵の中だから崩れ落ちなくてもおかしくはないのだが、それは異様な描写であった。


「……那由多さん、これは?」


「呪歌ってやつ。結構、手の込んだ呪いだったんよ」


「でも、『さくらさくら』なんて、ただの童謡みたいなものじゃないんですか?」


「そこにこめられた真の意味なんて、よく分からないものじゃない? だいたい、あの歌は作者不詳だったと思うんよ」


「はあ……そういうもんですか。でも、これ、博士が仕掛けたわけじゃないですよね」


「ええ。これは神道系……でも、呪禁じゅごんや魔術の臭いもするんよね。まあ、どちらにしても、博士に使えるとは思えない。黒幕がいるみたいね」


 黒幕には、思い当たる節がある。

 ただ、柳はオカルト初心者であるため、その予想している人物が、このような術を使えるのかどうかわからないのだ。未確定のことをここで那由多に言っても仕方がないだろう。


「まあ、ともかくさ。あたしがついてきて良かっただろ? ん~?」


 那由多が何かを期待した目で、思案中の柳を覗きこんできた。

 無論、那由多の意図に気がつかない柳ではない。そして期待通りの言葉で、女性を喜ばすのは得意技だ。

 それに本当に感謝している。だから、めいっぱい明るく微笑んで、柳は応えた。


「本当ですね。那由多さんがいて助かりましたよ。僕一人では死ぬところでした。ありがとうございます」


「…………」


「……那由多さん?」


 柳としては、彼女の期待通りに答えたつもりだった。

 しかし、那由多の頬が少しだけ膨らみ、艶やかな唇もかわいく尖っている。普段の那由多は妖艶な感じがするが、不機嫌そうな顔をすると、ちょっとかわいい。

 などと思いながら、「どうしたんです?」と覗きこむ。


「う~ん、なんというかさ……」


「はい」


「あの黒服の……九天のようなひねくれ者もイヤだけど……」


「はぁ……」


「柳禅ちゃんみたいな素直な態度も、なんか張りあいに欠けるというか……」


「……えーっと、どうしろと?」


「ほら。ちょっと強がっている中に、かわいげみたいなのが欲しいんよ。わかる?」


「……知りませんよ、そんなこと」


 一気に肩の力を抜けてしまった柳は、すぐさま深呼吸を一度して気合いを入れなおす。

 那由多はなれているのかもしれないが、柳は今日だけで気が狂うほどの経験をしているのだ。一度でも気が緩みきったら、もう立ちあがる自信はない。まさに今、気力と使命感だけで保たせている。


「そんなことより、準備はいいですか?」


 二丁の拳銃シグの弾倉を確認する。一つに鉄の弾丸、一つにプラスチックの弾丸。

 とりあえず、鉄の弾丸の入っている銃を握りしめる。もう一丁は、ホルスターに戻す。

 予想通りならば、中にいるのは人間のはずだ。相手が人間ならば、刑事である自分の仕事である

 いつも通りに、犯罪者を逮捕する。

 それは柳が普通の人間として挑む、オカルトという壁に対する戦い。


「さて。行きますよ」


「あいよ」


 二人は壁の向こうに歩みだした。

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