第三節

第42話:進む者と堪える者(一)

 桃には、古き時代から邪気を祓う力があると信じられてきた。


 大晦日に鬼を払うための宮中儀式【追儺ついな】では、桃の弓で鬼を射る。


 桃の花をつけた酒は百病を退けると言われ、邪のない平和な理想郷は桃林の奥にあり【桃源郷とうげんきょう】と言われた。


 桃から生まれた(もしくは桃を食べて若返った夫婦から生まれた)子供は、【桃太郎】と名付けられて鬼を退治した。


 災厄を祓う【上巳の節句】は、桃の花が咲く季節に行われ、【桃の節句】と呼ばれるようになった。


 黄泉の住人となった【伊邪那美いざなみのみこと】を退けたのも、【伊邪那岐命いなざぎのみこと】が投げた桃の実だった。


 このように多くの言い伝えをもつありがたそうな桃だが、そのことを別にしても烏輪は好きだった。果物全般好物だったが、桃はその中でも上位に入る。

 噛んだ瞬間、果汁をたっぷりと染みださせる果肉も、その後の独特の歯ごたえも、ほのかな甘い味も好みである。

 特にたまらないのが香りだ。皮の外にまで溢れだす、豊潤で甘美な香りは、女性的な艶容と母性を併せ持っている。それは包容力にあふれた大人の女性、すなわち母親のイメージで、包まれればざわつく心さえ落ちつかせてくれる。


 実際、こうして桃の香りに鼻腔を支配されると、邪を払うという伝承も納得がいく。先ほどまで兄が死にそうだったとか、今も続く危機的状況とか信じられなくなる。静虚になり、温柔な気持ちになっていく。


 それは烏輪以外も同じようで、陽光に那由多、柳や田中も安堵の表情を浮かべていた。まるで、すべての戦いが終わったかのようだ。


 烏輪は、薄暗くなってしまった頭上をくいっと見上げる。


 そこには常盤色の葉と、それを彩るように朱鷺色や珊瑚色をした多くの実が、まるで屋根のように広がっていた。

 そして、部屋の中心には、その屋根を支える大木が悠然と立っている。夢のような急成長で現れたその桃の木は、烏輪たちに確かな安らぎを与えてくれていた。


 だが、その桃の木を出現させた張本人たちには、そんな安らぎの表情が見られなかった。彼らは銃に弾を詰めたり、タブレットPCをだして調べながら、何かを懸命に相談している。

 その真剣さは先ほどよりも増していた。今まではデモンストレーションで、これからが本番とでも言わんばかりだ。


「自分たちも、ここで朝までおとなしくしていれば安全だろうに。今度は、何をするつもりなんだろうね」


 桃の木の幹に寄りかかった那由多が、黒服の一団を一瞥してから、先ほどの烏輪と同じように頭上に目を向けた。


「どっちが超常世界オカルトの住人なのかわからんよ。こんな結界、初めてみたんよ」


「大丈夫……ですか?」


 烏輪は、そんな那由多に不安を尋ねた。


「こんなに強い陽の霊気を放つ木を支えて、体は何ともないのです?」


 だが、対して那由多は少しだけ乾いた笑い声をこぼす。


「大丈夫どころか、自分自信で張る結界の数分の一以下の負担しかないんよ。ふれている背中から霊気が取られる感覚はあるんけど、これなら数日間はもちそうなぐらいなんよ。しばらくなら離れても問題なさそうだし」


「そんなに少ない霊力で、この結界が……」


「まあ、正確には結界じゃないんけど、ほぼ結界となってるんよね。霊的存在感が強いせいで、杭の役目にもなって空間まで安定してるし。……本当に恐ろしいほどの増幅力。しかも、霊能力者がいなくとも、しばらくは蓄積された霊力で効果が維持される。あの銃もそうだけど、こんな呪具を作れるなんて、本当に恐ろしい人物だよ、九鬼阿闍梨くがみあじゃり。それに……」


 また、那由多の視線が黒服たちに行く。


「この凄い道具を阿闍梨から託された一般人たち。【流弾ストレイ・ブリット】だっけ? 彼らの身のこなしと、異様に場馴れした落ちつきは、一般人のレベルじゃないんよ」


「そうですね」


 横で聞いていた陽光が頷く。


「それどころか、並の異能力者以上の力ですよ。彼ら九人の連携した力は、僕なんかよりも遙かに強い……」


 烏輪は、兄の言葉に少なからずショックを受けた。すでにわかっていたこととはいえ、改めて兄から言われると実感する。なにしろ自分にとって目標であり憧れが、一般人に負けたと言っているのだ。

 たとえ九人でも、一般人は一般人のはずだ。〇はいくら足しても〇だ。異能力者になれるはずもない。


 しかし、現実は違った。


 彼らは確かに、あのランクAの風船のような鬼を退治した。兄が無傷だったとしても、一人なら倒せたかどうか怪しい【真鬼】をいとも簡単に斃したのだ。


 しかも、倒しただけではなかった。

 その後に、このような結界も時まで張ってしまったのだ。


 鬼を倒した後すぐだった。黒服の一人が、リュックから一つのケースを取りだした。幅三〇センチ程度の銀色のアルミ製で、それは部屋の中心に置かれた。

 ケースが開けられると、蓋の内側にはコンソールらしきスイッチ類、そして本体側には銀色をした金属の中蓋が現れる。さらに中蓋も開けられると、そこには土がたっぷりと詰められていた。


 黒服が、そのコンソールを操作して離れる。

 なにをしているのか訝しんでいる暇ももらえず、瞬く間に土の中から芽が現れて、それが急激に成長していったのだ。まるで成長記録の映像を早送りで見ているようだった。目の前でまさしくニョキニョキと音をたてて伸びていき、あっという間に高さ二メートルほどの幹となった。

 木の上には、烏輪が見たことのない光り輝く魔方陣が展開され、まるで傘のように広がっている。その魔方陣の効果なのか、不自然な速度で伸びた枝葉からは、非常に強い陽の霊気が噴きだし始める。


 そこまで見て、烏輪はやっと気がついた。

 急成長した木が桃の木だと。

 それは、いくつもの伝承の通り……いや、それ以上に邪を払う力があった。普通の桃の木でも、ただそこにあるだけで陽の霊気を放ち、それにより結界的効果がある。大きく育った桃の根元なら、そこから数メートルはランクAの鬼でも簡単に近づくことができない。


 しかし、アタッシュケースから急成長した桃の木は、たかが二メートルほどしかない。普通ならば、それだけでは弱い悪霊を近づけない程度の効果しかないはずだ。

 それなのに目の前の小さな桃の木は、まるで大樹のごとく陽の霊気を溢れださせている。


 さらに九天が「ちょうどいい」と言って、牧師の残した聖水を二本ほどその土に流しこむ。すると桃の木は一瞬で大樹になり、桃の実までたわわとなった。根はアタッシュケースを突き破り、なんと硬い床さえも貫いて、その身を支えている。


 しかも、その効果は穏やかな香りとは正反対で激しいものだった。

 部屋の中にあった鬼の死骸は一瞬で灰となり、その灰さえもやがて空気に解けるように消えていった。

 それは結界と言うより、強力な浄化の術だ。


 もちろん、その力は有限で、基本的には聖水の力と、アタッシュケースに内蔵されているバッテリーから力を供給しているらしい。

 そのバッテリーからというのが烏輪にはよくわからなかったが、要するに電池切れになると結界の効果がなくなると言うことだった。

 そこで九天に頼まれた那由多が、この桃の木に霊気を少しだけ流しこんでいる。そのおかげで、ここは朝まで安全地帯を保てるようになっていたのだ。


 もちろん、これだけの陽の霊気を放つ大樹に実った桃の実にも、多くの陽の霊気が含まれている。


「この桃、おいしそうだね」


 だから、柳がそう言った時、烏輪はすぐさま反応した。


「ダメ。食べたら気が狂うか、悪くすれば死ぬの」


 桃の果実に伸びた柳の手が、ぴたっと止まる。

 その表情は、にやついたまま固まっている。


「し、死ぬ?」


「ほむ。人間は、陰陽を併せ持つ存在。そこに強すぎる陽の霊気は、魂のバランスが崩れて毒になるの」


 柳が改めて果実を眺めながら、独り言のように「そういうもんなのか」と呟く。

 烏輪は、それにコクリと頷く。


「この実なら、持っているだけで強力な御守り。それだけの陽の霊気を放っているの」


「ふむ。なるほどね……」


 柳が桃の木を眺めながら考えこみ始めた。その指がまた立ちあがり、ふらふらと揺れ始めている。


「……あのさ。気とか霊気ってなんなの?」


 そして数秒後、くるりと振りむいた柳が質問してきた。


「……ほむ?」


 烏輪は一瞬、眼をぱちくりとしてしまう。なぜなら、その質問は彼女にとって突飛な物に感じられたのだ。「音ってなんなの?」「光ってなんなの?」というような質問に似ていた。あって当たり前のものなのだ。それをなんで今さら尋ねるのかわからない。

 だが、すぐに「彼は自分たちと違う」と思いだす。彼にとっては、当たり前のものではないのだ。むしろ、信じられないオカルト存在のはずである。


 しかし、彼はそれを信じることにしたのだ。疑うことをやめて、真摯な目で「違う」ことを学ぼうとしている。


「気は異能力……ってわけじゃないよな?」


 柳が手にしたおもちゃの銃を見て首をかしげる。


「なにしろ、僕にも使えたわけだし」


 烏輪はかるく頷いて、答えを求める柳の視線に応じた。


「ほむ。気と霊気は、別物。気は、生命の力。さっき実感したと思うけど、誰でも持っていて、本来は誰でも扱える力。ただ、上手く扱えるか、どのぐらいの気を扱えるかは人によるの。それに気の性質には陰陽があるけど、基本的には純粋な力」


「純粋な力?」


「そう。押したり引いたり、感じたり……みたいな感じなの。陽の気は気持ちを明るくしたり、陰の気は気持ちを暗くしたりするけど、それは気の配分――気分を変えるだけ。それ以外の性質の変化はないの」


「よくわからん……」


「ほむ。ボクも、そう思うの」


 烏輪の反応に、柳が思わず「おい!」と突っこむ。

 だが、烏輪はかまわず話を続ける。


「ただ、霊気と比べると分かりやすいの。霊気は魂が放つ力」


「なら、霊気だってみんなもっているんじゃないのか?」


「ほむ。それは正しい。でも、生きている限り、魂は肉体という霊気を阻害する殻に包まれているの。霊気が外にもれたとしても、普通はわずか。それに対して、霊能力者と呼ばれる者は、霊気を大量に取りだす方法や気を霊気に変換する能力がある者」


「変換する……って、つまり霊気にすることに利点があると?」


「霊気は、変化させることができるの。たとえば、神や仏といった人外の存在との通信や力のやりとりをしたりできるの。そしてもう一つ大事なのは、鬼や悪魔といった霊体が核となる存在に、霊気は大きな影響を与えることができるの。たとえ肉体を持っている鬼でも、核となる霊体があるの。いくら肉体を滅ぼしても、その核の霊気を乱したり断ち切ったりしないと、奴らを本当の意味で斃すことはできないの。それができるのが霊力」


「だから、霊能力者しか幽霊とか鬼の相手ができないということなのか」


「おいおいおい! それはちょーっと違うなぁ~」


 唐突に、強い口調で割りこんだのは田中だった。

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