第35話:生者と死者(五)
その絶望は、まちがいなく牧師のものだった。
誰もがまさかと、部屋の出口を見やる。
――静寂――。
【人鬼】の呻く声も聞こえない。
烏輪は、模造刀の太刀を構える。
もちろん、陽光も構えている。得意の右上に刃を置く【月輪の構え】。それは一般に言う【八相の構え】とほぼ同じだった。陽光の撃ちこみの早さを活かした力強い構えである。
「まさか……」
斜めに錫杖を構えた那由多が、一歩前にでた。
同時に出口から、黒いバレーボールサイズの物が投げ込まれる。
それは赤い糸を引きながらゴロゴロと床を転がり、那由多の足下で止まった。
そこについていたのは、半笑いの口と、見開いてこぼれそうな眼球。
「――あっ!」
はたして、牧師の頭だった。
だが、それに驚いている暇もなかった。
今度は、牧師の体が現れたのだ。
それは部屋と廊下を橋渡しするように、ドタッと倒れこんだ。
そしてすぐ、巨大な手が廊下から現れると、内側に開いた扉ごと出口横の壁を掴んだのだ。
指先は完全に部屋の中に入っていた。つまり結界の内側だ。
「――まずい!」
那由多が、すっと身を沈めるように座禅を組む。
「森村の体を媒介に入り口を穢された。術を使う鬼がいたんよ。私は結界を守る!」
那由多が、両手の指を絡めて一つの拳を作り【
「ナウマク・サマンダ・バザラ・ダン・センダ――」
那由多が唱えているのは、【
呪文の音韻が、空気を振るわす。
その振動だけで、結界の霊力が増していく。
さらに、途中で
すばやく動かし、両手の小指と親指を曲げ、手首を合わせてクロスさせている。
「オン・アミリティ・ウン・ハッタ!」
それは、【
烏輪も多少は、密教について勉強している。だから密法使いには、それぞれ守護仏というのがいるということは知っていた。それは要するに、相性のいい存在ということらしいのだが、那由多にとっては【
真言を変えたとたん、急に力が強まったのが分かる。
だが、結界に開けられた穴がすぐにふさがる様子はない。
「兄様……」
「うん」
陽光は応じた。そしてすぐに霊気を高める。
「烏輪の言うとおり、【鬼切】にしておいてよかったよ」
烏輪は、微笑で頷く。
彼女は柳を連れて戻った時、館内に悪霊たる【幽鬼】よりも【人鬼】が大量にいたことを陽光に説明していた。
そのため陽光は、【幽鬼】に有利な【
「我、
陽光の詠唱に、烏輪も続く。
「我、
「我、切に求める力の名、其は【
「我、切に求める力の名、其は【
二人の模造刀に伝説が宿り真剣となる。
「…………」
烏輪は自分の生みだした刃と、兄の刃を横目で見比べた。
自分の刃のデキを悪いとは思わない。
ハバキから柄までは違うのだが、上半に大丁子刃、下半の乱れ刃の力強い波紋も、刃全体で表現される反りも、まちがいなく皇室御物の【太刀
そして、それに宿る鬼を斬る力は、本物を凌駕しているはずだ。
しかし、どうしても兄の作り出す刃に、勝っている気がしない。兄の作り出す刃は、どれも美しく、力強く、伝説的な存在感がある。
そう。その存在感を醸す「意志」の強さのようなものが違う。自分の作り出す刃には、それが足らないのだ。
彼女は、それをつかむためにいろいろな努力をした。
兄の唱え方をまねたり、構えをまねたりしてみた。
真似だけでは無理だったので、たとえば【鬼丸】を呼ぶ呪を唱えるとき、「時政」ではなく、時代考証から伝承を修正して、「時頼」にしてみた。
しかし、何も変わらなかった。
もう素質の違いだとしか思えない。根本的な部分で、彼女には何かが欠けているのだ。
だが今は、そのようなことを考えていても仕方ない。
壁を掴む大きな指先は動かないものの、牧師の体を橋にするようにして、先ほどまで入れずにいた【人鬼】たちがのろのろとだが部屋に進入してきたのだ。
柳が黒服たちと共に背後にさがったのを確認し、まずは陽光が前に走った。
そして進入してきた【人鬼】を三体ほど斬った。
それは烏輪が見ても、すばらしい太刀筋だった。
流れるように滞りなく、続けざまに陽光は刃を走らせていた。
そのまま陽光が出口に向かう。
牧師の死体を排除しようというのだろう。
しかし、それは阻まれてしまう。
今までのろのろと入ってきていた【人鬼】が、まるで廊下から流れこむように一気に進入してきたのだ。
いや。「押しこまれてきた」というべきだろう。
先ほどまで壁を掴んでいた大きな手によってだ。
その数、ざっと三〇体以上。
陽光の後に続いていた烏輪も、その異常な風景にはたじろぐ。
だが、異常さはそれだけではない。
目玉だ。
【人鬼】が押しこまれたあとの入り口の向こう、廊下から横向きの巨大な目玉が覗きこんでいるのだ。
血走った白目の中を黒目がぎょろぎょろと動き、部屋の中をなめ回すように眺めている。
その巨眼のサイズは明らかにおかしい。
目の大きさから言えば、廊下に頭が入らないぐらいだ。
さらにもし、あの巨大な手も巨眼の主だとしたら、サイズがまったくつかめない。
(ほむ。あれが術を使ったんだとすれば……ランクA)
烏輪は巨眼の鬼を意識しながらも、進入してきた【人鬼】を次々と斬り始めていた。
【人鬼】専用ではない【鬼丸】だが、【真鬼】専用に近い【童子切】よりも汎用性がある。
この程度の【人鬼】ならば、ほぼ一太刀で斃すことができていた。
腐臭が漂い始めた室内で、その臭いごと斬るように刃を舞わす。
斬首し、胴を両断し、手の中にその感触を味わう。
何度も味わったその手応えは、少しでも角度や力、そしてこめる霊力をまちがえれば変わってしまう。
そうなれば、太刀の舞いは精彩を欠き、刃は鬼の体で止まってしまうだろう。
だから、烏輪は肉体を斬る理想的な感触を覚えている。
その感触を再現するように、烏輪はただただ機械的に【人鬼】を斬っていく。
もちろん、陽光、そして超能力者の田中も懸命に戦っている。
そしてこれ以上、結界がほころびないようにと、那由多が呪文を唱え続けている。
「烏輪、少しさがって那由多さんと彼らを!」
「ほむ」
烏輪は陽光の指示に従う。
陽光は、戦っているうちに孤立しそうになっている田中の方に向かおうとしているのだろう。
烏輪にとっても、たぶん陽光にとっても、これだけの相手をすることは、今まで経験がなかった。
一体一体は大したことがなくとも、これだけまとめて襲ってくれば、やはり危険度がまったく違う。
しかも、誰かを守りながら戦うとなればなおさらだ。今は何とか均衡を保っているが、少しでも油断すれば被害が出る。
(それでもこれ以上、増えなければ……)
その烏輪の思考を嘲るように、廊下から覗いていた巨眼が、すっと細くなる。
かと思うと、巨眼が視界から消える。
(ほむっ!?)
去ったのかと思いきや、今度は口が現れる。
出口を呑みこむように巨大な口内。
この大きさならば、顎がぶつかっているはずなのに、下唇が床にぴったりとくっついている。
――ウェッ!
嘔吐の声とともに、咽喉から唾液まみれの黒い塊が吐きだされたのだ。
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