第30話:普通の人間(六)

――キンッ!



 高くそして澄んだ音が響いた。

 そして、大口から猿を思わす叫び声があがる。


(……え?)


 双眼をしばたたかせ、柳は状況を確認する。

 目の前に落ちているのは、振りおろされるはずだった足。

 そして、降って現れた誰かの背中。


「わかってくれて、良かったの」


 抑揚のない、しかしやわらかい声。


「烏輪……ちゃん?」


「少しさがっていてなの」


 凜とした態度は、有無を言わさぬ力を感じる。

 先ほどまでの少女とは、まるで別人のようだ。


 そして、力を感じるのは彼女だけじゃない。


 彼女の細腕に握られた太刀。

 下段に構えられたその刃からは、先ほどまでの模造刀の鈍さを感じさせない。

 曇り一つなく鋭い光りを放ち、きっさきからハバキまでの波紋が、まるで活力に満ちて蠢いているような錯覚まで起こさせる。

 霊能力者ではない柳にでも、その刀全体から放たれる神々しさが感じられるほどだ。


 怪物が動く。

 斬られた方とは、反対側の足を使って横から烏輪を狙う。


 だが、彼女はさがらない。

 むしろ、数歩踏み込んでから、それを迎え打つ。


 下から太刀が斬り上げられる。


 心地よい金属音と共に、怪物の足がまた一本減る。


 烏輪は頭上から左にきっさきを向け、また数歩踏みこむ。


 横から一閃。


 蚕のような胴体の正面が、ぱっくりと裂ける。


 吹き出る血と共に、怪物が呻きながらさがる。


 しかし、それよりも速く烏輪もまたさがっている。


 距離が空く。


 怒り狂ったように、怪物が首を回す。


 大口が開き威嚇。


 烏輪は、また下に構える。


 蜘蛛のような脚が一斉に蠢く。


 ハイヒールのような音が響く。


 まるで、烏輪の体を覆い隠すかのように、大口が真上から丸呑みしようとする。


 消える烏輪の姿。


「烏輪ちゃん!?」


 が、柳が叫ぶのと同時に、鈍さと鋭さの合い混じった音がした。


「第三章四節・天涯地角てんがいちかく……」


 怪物の頭の部分が、ずんっと落ちて、切り口を見せる首だけがふりあがった。

 落ちた頭の向こう側に烏輪の姿が合った。

 そこでようやく理解する。

 烏輪は、瞬間的に相手の懐に入り、下から首を切り落としたのだ。

 烏輪はさらに走り込み、無防備になった胴を深々と縦に斬った。

 先ほどの傷と遇わせて、十字を象る。


「すごっ……」


 柳は、思わず感嘆する。

 あれだけの銃弾を喰らっても、まったく手応えがなかったあの怪物が、今は胴体だけとなり、もがき苦しんでいる。


「あきらめ悪いの。主を守るために、自ら【真鬼しんき】を斬る天下五剣の【鬼丸おにまる】。それでこれだけ斬ったの。もう動くの無理」


 烏輪の声が冷たく告げる。

 と、まるでそれを受けてあきらめたごとく、怪物の動きがとまった。


「……ほむ。お待たせなの」


 そう言いながら、彼女はポケットから出した紙で刃の血糊を拭き取る。

 ピンクのシャツに吊りズボンを履いたかわいらしい少女。年下の、しかもまだ幼さの残る姿なのに、それはまちがいなく柳が思い抱いていたヒーローの姿に重なる。


(なんて……遠いんだ……)


 柳はさらに愕然とする。力も覚悟も違いすぎる。


 彼女は自分を守ってくれた。


 それに対して、自分は誰かを守れたか?

 助けに来た行方不明者のなれの果てをいい気になって撃っただけで、結局は誰も助けられない警察官。

 そんな自分は意味がある存在なのか?


(結局、僕はその他大勢の一般人か……)


「もしもし?」


「えっ?」


 烏輪に呼びかけられて、初めて彼女の手が眼前にあることに気がつく。


「大丈夫? ボクがわかるの?」


「あ、ああ……」


「なら、早く立ってなの。また別のが来るの」


 そう言っておきながら、烏輪は柳に貸そうとしていた手をすっと引っこめてしまう。

 彼女の視線は、柳の後ろの壁にある姿見のような大きな鏡を見ていた。

 そして、自分の手や服を見始める。


「どうしたの?」


「……血がついちゃったの」


 確かに彼女には、返り血がついていた。

 ただ、あれだけの戦いをしたにしては、あまりに少ない返り血だ。

 頬に少し、そして手と洋服などに少し斑点のように赤黒くついている。


 柳は慌てて立ちあがり、スーツのポケットからハンカチをとりだした。

 そうだ。

 いくら少しの返り血でも、いくら強いと言っても、彼女は少女だ。

 あんな怪物の返り血がついた頬など、気持ち悪くて仕方がないはずだ。

 柳はハンカチを彼女の頬に当てようとする。


「ん?」


 それを烏輪が不思議そうな顔で見る。


「ああ。頬の血を……」


「ほむ。頬の血……ああ。そういえばなの」


「え?」


「そんなことより、お気に入りのズボンに血がついたのが困ったの」


「ズ、ズボン?」


「ほむぅ。兄様と久々に遠出できたから、つい気合いを入れたのがまちがい」


「…………」


「普段通り、ボクも汚れてもいいカッコにすれば良かったの。まさか、こんなに面倒な仕事だとは……」


「あはは。あははは……」


 思わず柳は笑ってしまう。

 「かなわない」と自嘲を通りこして心から笑ってしまう。


「ほむ? 気がふれたの?」


 不思議そうな顔をする烏輪に、柳は笑って「なんでもない」と答える。


「じゃあ、部屋に戻るの。那由多さんも心配しているの」


「……強く……なりたいな……」


「なんか、言ったの?」


「いや。なんでもない」

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