第29話:普通の人間(五)
衝撃的な一言を告げた田中を一瞥だけすると、柳はまたすぐに正面を見つめた。
シルエットは巨大だった。
四メートルぐらいある天井ぎりぎりまで伸びている。
足音が突然止まる。
「た、す……け……て……」
シルエットから、男の息も絶え絶えな声が聞こえてくる。
聞き覚えのある声だ。
「元木か?」
その柳の問いに答えるように、元木の顔が見えた。
しかし、その姿は柳を吃驚させた。
きついイメージのあった眦は垂れ下がり、双眼は虚ろになっていた。さらに、口元には大量の血痕が見え、蒼白くなった肌を彩っていた。その面相に生気を感じられない。
だが、柳がなにより驚いたのは、彼の死相ではない。彼のその顔が見えた位置だ。
彼の顔は、天井付近に浮いていた。さらに顔は見えるのに、下半身は闇の中で見えないのだ。
三人が言葉を失っていると、先ほどの奇妙な音が数回響く。
すると、元木の顔が浮いている理由がしっかり見えた。
元木は、
彼の体は、胸のあたりから、両腕ごと巨大な口に埋もれていたのだ。その口には、鮫のような牙が無数に並んでいた。牙は、元木の肉体から血を絞りだすかのように食いこんでいる。
その咥える口に対して、目や鼻、耳と言った当然の器官がうかがえない。ごつごつとした輪郭と乳白色の石灰石を思わす頭は、とても生物に見えない。
それに対して、クビにあたる部分は有機的だった。まるで人の背骨を思わせる形で長く伸びている。
その長い首を支えるのは、丸々と太った蚕のような体だ。正面からみて一メートル以上の直径がある。ぬらぬらとした光を返す、粘液のような物が表面を覆っていた。
さらに嫌悪感を増すのが、その胴体の側面に五~六本ずつ生えている脚だった。まるで蜘蛛のような形をした硬質感のある脚がタイルの床を踏み、先ほどのハイヒールのような音をならしていた。
柳の知る限り、この世にいる動物のどれとも一致しない姿をしていた。
「…………」
柳はその異様さに圧倒されてしまい、身動き一つできず完全に固まってしまう。
明晰だと自負する頭脳さえ、完全に停止する。
それは恐怖のためではない。むしろ、あまりにも大きな衝撃のためだった。
(本当に怪物だ……)
象徴的な口は、まるでトマトを噛んで口の周りを汚したようになっていた。その出血の量から、元木がもう助からないことはまちがいない。しかし、せめて彼をあの口から解放してやりたい。
止まっていた柳の思考が、やっとそこまで働いた時だった。
怪物の首がブルッと動いた。
とたん、その口が一瞬でガバっと開く。
元木の口が象った「あっ」という断末魔さえ発せられることはなかった。
その体が、一瞬間で呑みこまれる。
背骨のような喉に、大きな塊が落ちていく。
――バキッボキッバキッ……
喉が大きく揺れる度、連続して骨を砕く音がした。
嫌悪感をかき立てる、どこか軽快なほどの破砕音。
目などないのに、柳は怪物に見つめられている気がした。
そしてその表情が、わざわざ柳たちの目の前で、元木を食して見せたと言っている。
どうだ、恐ろしいだろうと嗤っている。
「くそっ!」
柳は怒りにまかせて、その顔に銃弾を叩きこんだ。
「バカが! オレは逃げるぞ!」
田中の声に、牧師【森村】も続く。
「私も逃げますよ。その前に……」
そう言って森村は、鞄からペットボトルを一本だけ取りだすと、そこから水を大量に床へまき散らす。
それは、【人鬼】たちへの足止めだった。残っていた【人鬼】が、話している間にかなり近づいてきていたのだ。しかし、森村が蒔いた水に触れたとたん、激しい衝撃を受けたように後ずさり、近づけなくなる。
「あまり保たんぞ!」
森村の最後の注意も耳に届かず、柳は
(……んっ!?
ふと気がつくと、すでに反動がなくなっており、カチッというかるい音だけが繰りかえし返っていた。
銃を見れば、スライドが下がったままで固まっている。
怒りに我を忘れるなんて、柳にしてみれば珍しいことだった。しかも、大切な弾を七~八発は使ってしまっている。こんなに撃ちこむ必要はなかったかもしれないというのに。
柳はそう思いながら、目の前の怪物を改めて睨んだ。
怪物の硬そうに見える頭には、多くの弾痕が残っていた。普通なら致命傷になる量であるが、なにしろ相手は怪物だ。油断はできない。
柳は怪物から目を離さないようにしながら、
そして再び銃口を向けるが、怪物はぴくりとも動かない。
(死んだのか?)
と考えた時だった。
怪物の顔にあった銃創が、前触れもなく中から盛りあがった肉で瞬時にふさがる。
その事実を柳が認識する前に、怪物の巨大な口が大きく開いた。
その深紅の口内は、大人が両手を伸ばしたほどある。
そして、中央にはまるで人間のような巨大な舌があった。
その舌が、ぐいっと前に出される。
と、そこから細かい複数の何かが下に落ち、床で硬い音を響かせた。
(……なんか漫画で似たようなシーンがあったな)
そんな悪い予感がよぎり、落ちた物を確認した。
はたして、それは弾丸だった。ほぼまちがいなく、柳が撃ちこんだものだろう。
「まったく効いていないのかよ……」
――クッケケケケケケケケケケケ!
突如、化け物の口から奇声が発せられる。
それは、ロビー全体を震撼させるほど大きな嗤い声。
柳の受けたショックを見て悦に入っている。
「怪物が生意気に力を誇示するか!」
柳はかまわず銃弾を浴びせまくった。
今度は喉に胴体にと適当に叩きこむ。
だが、手応えがない。
銃弾はまるですべて体の中に沈みこむように呑まれていく。
化け物の口角が、くいっとあがる。
直感的に、柳は何か来ると感じた。
「ちっ!」
慌てて銃をさげて後ろに走りだす。
とたん、怪物が首を横振りする。
柳は滑り込むように体を伏せる。
空を唸らす音が、柳の上を走る。
そのまま怪物の首は、近くまで迫ってきていた【人鬼】をまとめて薙ぎ飛ばしていく。
衝撃音と呻き声が響く中、柳は顔を上げる。
見るも無惨だった。
首に弾かれた【人鬼】たちは、その場で潰れたり、壁に叩きつけられたりしていた。
全滅である。
――クッケケケケケケケケケケケ!
また、高らかに嗤う。
柳の読心術で怪物の心がわかるというわけではないが、なんとなく察しはついていた。
目の前のこいつは、楽しんでいる。
今の攻撃も、避けるとわかっていたのだろうし、【人鬼】をつぶして見せたのも怖がらせるためだ。恐怖と絶望を与えて、嬲り殺すつもりなのだろう。なにしろ、殺すつもりなら、今すぐにでも噛み殺せる距離にいるのだ。
ならば、誰が怖がってやるものかと思うが、心が意志についてこない。
多くの銃弾を撃っても効果がなく、さらに強大な力を見せつけられ、とても逃げ切れるとは思えない距離まで近づいている。
いや。逃げようにも、尻もちをついたように座りこんだ腰があがらない。
わき上がる絶望感と恐怖は、怪物の思惑通り、柳の意地を呑みこんでいた。
(ああ。こいつ知能があるんだな……)
あまりに追い詰められたせいか、第三者のような感覚で冷静に考えている自分がいる。
怪物が尖った足の一本を振りあげているのを見ても「あれで刺して殺すつもりか」と自分の死に様を映画の中のワンシーンのように想像してしまう。
(そうか。僕はやられ役の村人なんだ……)
そこで、柳は悟る。
やはり自分はヒーローではなかったのだと。
ほら、ゲームや漫画などでは、よくあるじゃないか。
最初の方で物語を見ている者に、怪物の力を見せつける、そのための当て馬たる犠牲者。
力もなく逃げ惑う一般人。
(僕は……しょせん弱い一般人か……)
きっとあの偉そうな牧師よりも、かるそうな超能力者よりも、ずっとずっと弱い。そして、まだ子供の烏輪よりも……。
「ごめんよ、烏輪ちゃん」
【人鬼】を潰して血まみれになった首を怪物が振るわす。
そして、同時にふりあがっていた足がぴくりと震える。
「ちゃんと言うこと聞かないで……」
凶悪に尖った足が、柳に迫った。
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